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建中二年[西暦781年]
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◎.成德・魏博征討が始まると、観望し徐州に派兵して貢祖の輸送を妨害した。唐朝は驍將張萬福を派遣して警戒させた。
◎.8月 平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己卒。
7月卒、8月発喪。49歳であった。子納は継承を求めるが許されず反し、魏博田悅に大將衛俊將兵萬人を送り支援した。
◎.納は淄青行軍司馬兼曹州刺史曹濮徐兗沂海留後兼御史大夫であったという。
◎.10月 徐州刺史李洧は正己の從父兄であり、甥納の自立を認めず徐州を以って唐朝に帰服した。また海州刺史王涉、密州刺史馬萬通とも共謀し、徐海沂密四州觀察使に任用されることを求めた。ところが宰相張鎰を通じて上奏したため、無視された盧杞が妨害した。洧は御史大夫充招諭使に留まった。
納は將王温と魏博將信都崇慶を急派して徐州を攻めた。唐朝は神策・朔方・宣武軍を救援させた。
◎.11月 宣武節度劉洽・神策將曲環・朔方唐朝臣は李納軍を徐州に大破した。
◎.11月 淮南節度使陳少游が擊海州、李納海州刺史王涉はただちに降り刺史となった。
◎.12月 李納密州刺史馬萬通が降り密州刺史となった。
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建中三年
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◎.淄青平盧節度使を廃して、淄青都団練観察使[領淄青登萊齊兗鄆七州.治靑州.統治者不明]に格下げし.徐沂海密都団練観察使[領徐沂海密州.治徐州.李洧が統治]曹濮都団練観察使[領曹濮二州.治濮州.劉洽が統治か?]を置く、徳棣二州は幽州朱滔に移管という唐朝の淄青節度使解体の机上プランである。
◎.正月 納はたちまち海、密二州を奪回し、洧の所有は徐州だけになった。
◎.2月 優勢な宣武節度使劉洽は濮州を攻め、納は歸順を考え、人質として弟弟經や子成務を送ると申し出た。しかし唐朝は継承に対して高姿勢で対応し、納は諦めた。
◎.3月 徐州刺史李洧兼徐海沂都團練觀察使となったが意味はなかった。
◎.4月 李納署德州刺史李士真と棣州刺史李長卿が州をもって唐朝に帰順した。しかし
すでに反意を抱いていた幽州朱滔に来援を求めたため、滔の所有に落ちた。
◎.4月 宣武節度使劉洽攻李納之濮陽を陥した。
◎.7月 劣勢の納は朱滔等に支援を求め、幽州・魏博軍とともに宋州を攻めたが克てず、濮陽を回復するだけだった。
◎.7月 淮寧節度使李希烈を兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として納を討たせた。しかし、山東征討後の恩賞に不満を持つ希烈は反し、納と連携して汴州を取ろうとした。
◎.8月 檢校戶部尚書徐海沂都團練使李洧が頓死した。外出して市人の歓呼に驚いて疽が潰れたという、9月 部將高承宗が徐州刺史徐海沂都團練使を継承した。
◎.10月 姚令言・朱泚が京師を陥し、德宗皇帝は奉天に籠城して、形勢はすっかり逆転した。朱滔は河北で優勢、淮西李希烈は東都・汴州を狙った。納は自領域を固めていった。
◎.11月 朱滔は冀王,田悅は魏王,王武俊は趙王,李納は齊王を自称してそれぞれ王府を形成した。
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建中四年
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◎.5月 宣武節度使劉洽が淄青招討使を兼任させたが、洽は淮西戦でそれどころではなかった。
◎.納の願望は唐朝から正式に淄青節度使の継承を認めてもらうことで、それ以上の拡張欲はなかった。そのため状況が好転し、唐朝軍が追いつめられるようになっても、淮西希烈と連携して汴州・東都を攻撃することもなく、徐州回復をめざすのでもなく、弱体な淮南節度使領域を攻めるのでもなかった。魏博や淮西を物資面などで支援するにとどまった。
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興元元年[西暦784年]
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◎.正月 德宗皇帝は従来の藩鎭政策を自己批判し、京師を占拠する朱泚以外の朱滔・李希烈・王武俊・田悦・李納を赦免した。疲弊した魏博悦、滔を怖れる成德武俊、継承願望の納はすぐさま王号をやめて帰順したが、優勢な滔と希烈は従わなかった。
◎.正月 前曹州刺史李納は檢校工部尚書鄆州刺史淄青平盧節度使として継承を認められた。鉄券ももらったようである。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、曹、濮、徐、兗、鄆十三州]か
実際は徐州は戻されず、徳・棣二州は成德王武俊の領有になったもよう。
◎.4月 納、加検校右僕射同平章事。使相に任ぜられた。封隴西郡王。
◎.5月 納が帰服したので、亡父正己に太尉が贈られた。
◎.8月 陸海運押新羅渤海兩蕃等使を従来どおり兼任することが許された。
◎.李希烈軍の陳州包囲に際して唐朝軍を支援したという。
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興元二年/貞元元年[西暦784年]
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◎.3月 納、加検校司空同平章事.賜實封五百戸
◎.貞元初、鄆州を大都督府に昇格させ、納は長史となる。
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貞元四年[西暦787年]
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◎.方鎭表ではこの歳、正式に青州から鄆州への移治が認められたようである。また徐州が正式に分離された。
◎.11月 唐朝は若年の徐州刺史高明應[承宗の子]に代えて、有能な壽州都団練観察使張建封を任じ、濠泗二州を加えて軍備を強化した。江淮からの貢納運送の要である徐州を淄青節度より防衛するだめである。これにより強力な武寧軍節度使が形成された。
建中二年[西暦781年]
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◎.成德・魏博征討が始まると、観望し徐州に派兵して貢祖の輸送を妨害した。唐朝は驍將張萬福を派遣して警戒させた。
◎.8月 平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己卒。
7月卒、8月発喪。49歳であった。子納は継承を求めるが許されず反し、魏博田悅に大將衛俊將兵萬人を送り支援した。
◎.納は淄青行軍司馬兼曹州刺史曹濮徐兗沂海留後兼御史大夫であったという。
◎.10月 徐州刺史李洧は正己の從父兄であり、甥納の自立を認めず徐州を以って唐朝に帰服した。また海州刺史王涉、密州刺史馬萬通とも共謀し、徐海沂密四州觀察使に任用されることを求めた。ところが宰相張鎰を通じて上奏したため、無視された盧杞が妨害した。洧は御史大夫充招諭使に留まった。
納は將王温と魏博將信都崇慶を急派して徐州を攻めた。唐朝は神策・朔方・宣武軍を救援させた。
◎.11月 宣武節度劉洽・神策將曲環・朔方唐朝臣は李納軍を徐州に大破した。
◎.11月 淮南節度使陳少游が擊海州、李納海州刺史王涉はただちに降り刺史となった。
◎.12月 李納密州刺史馬萬通が降り密州刺史となった。
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建中三年
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◎.淄青平盧節度使を廃して、淄青都団練観察使[領淄青登萊齊兗鄆七州.治靑州.統治者不明]に格下げし.徐沂海密都団練観察使[領徐沂海密州.治徐州.李洧が統治]曹濮都団練観察使[領曹濮二州.治濮州.劉洽が統治か?]を置く、徳棣二州は幽州朱滔に移管という唐朝の淄青節度使解体の机上プランである。
◎.正月 納はたちまち海、密二州を奪回し、洧の所有は徐州だけになった。
◎.2月 優勢な宣武節度使劉洽は濮州を攻め、納は歸順を考え、人質として弟弟經や子成務を送ると申し出た。しかし唐朝は継承に対して高姿勢で対応し、納は諦めた。
◎.3月 徐州刺史李洧兼徐海沂都團練觀察使となったが意味はなかった。
◎.4月 李納署德州刺史李士真と棣州刺史李長卿が州をもって唐朝に帰順した。しかし
すでに反意を抱いていた幽州朱滔に来援を求めたため、滔の所有に落ちた。
◎.4月 宣武節度使劉洽攻李納之濮陽を陥した。
◎.7月 劣勢の納は朱滔等に支援を求め、幽州・魏博軍とともに宋州を攻めたが克てず、濮陽を回復するだけだった。
◎.7月 淮寧節度使李希烈を兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として納を討たせた。しかし、山東征討後の恩賞に不満を持つ希烈は反し、納と連携して汴州を取ろうとした。
◎.8月 檢校戶部尚書徐海沂都團練使李洧が頓死した。外出して市人の歓呼に驚いて疽が潰れたという、9月 部將高承宗が徐州刺史徐海沂都團練使を継承した。
◎.10月 姚令言・朱泚が京師を陥し、德宗皇帝は奉天に籠城して、形勢はすっかり逆転した。朱滔は河北で優勢、淮西李希烈は東都・汴州を狙った。納は自領域を固めていった。
◎.11月 朱滔は冀王,田悅は魏王,王武俊は趙王,李納は齊王を自称してそれぞれ王府を形成した。
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建中四年
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◎.5月 宣武節度使劉洽が淄青招討使を兼任させたが、洽は淮西戦でそれどころではなかった。
◎.納の願望は唐朝から正式に淄青節度使の継承を認めてもらうことで、それ以上の拡張欲はなかった。そのため状況が好転し、唐朝軍が追いつめられるようになっても、淮西希烈と連携して汴州・東都を攻撃することもなく、徐州回復をめざすのでもなく、弱体な淮南節度使領域を攻めるのでもなかった。魏博や淮西を物資面などで支援するにとどまった。
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興元元年[西暦784年]
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◎.正月 德宗皇帝は従来の藩鎭政策を自己批判し、京師を占拠する朱泚以外の朱滔・李希烈・王武俊・田悦・李納を赦免した。疲弊した魏博悦、滔を怖れる成德武俊、継承願望の納はすぐさま王号をやめて帰順したが、優勢な滔と希烈は従わなかった。
◎.正月 前曹州刺史李納は檢校工部尚書鄆州刺史淄青平盧節度使として継承を認められた。鉄券ももらったようである。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、曹、濮、徐、兗、鄆十三州]か
実際は徐州は戻されず、徳・棣二州は成德王武俊の領有になったもよう。
◎.4月 納、加検校右僕射同平章事。使相に任ぜられた。封隴西郡王。
◎.5月 納が帰服したので、亡父正己に太尉が贈られた。
◎.8月 陸海運押新羅渤海兩蕃等使を従来どおり兼任することが許された。
◎.李希烈軍の陳州包囲に際して唐朝軍を支援したという。
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興元二年/貞元元年[西暦784年]
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◎.3月 納、加検校司空同平章事.賜實封五百戸
◎.貞元初、鄆州を大都督府に昇格させ、納は長史となる。
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貞元四年[西暦787年]
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◎.方鎭表ではこの歳、正式に青州から鄆州への移治が認められたようである。また徐州が正式に分離された。
◎.11月 唐朝は若年の徐州刺史高明應[承宗の子]に代えて、有能な壽州都団練観察使張建封を任じ、濠泗二州を加えて軍備を強化した。江淮からの貢納運送の要である徐州を淄青節度より防衛するだめである。これにより強力な武寧軍節度使が形成された。