唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青平盧軍節度使史3

2020-09-29 10:00:35 | Weblog
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貞元六年[西暦789年]
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◎.3月 成德王武俊領となっていた棣州刺史趙鎬が、魏博田悦の指嗾をうけて、淄青納に附いた。武俊は怒って子士真に攻撃させたが勝てなかった。
◎.5月 武俊は自ら棣州を攻撃し、鎬は淄青に奔り、納は軍を派遣して防衛させた。
また武俊は田緒が納を助けたことを怒り、子士清に魏博を攻撃させ經城等四県を陥した。
◎.12月 納は棣州を武俊に戻し、武俊も經城等四県を緒に返した。しかし全ての地を戻したわけではなく、一部海浜の城郭は確保していた。
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貞元八年[西暦791年]
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◎.5月 檢校司徒同平章事淄青平盧節度使李納薨、34歳、贈太傅。
子の師古が自立する。
◎.8月 弱体な唐朝は追認するしかなく、青州刺史師古を起復右金吾大將軍員外同正鄆州大都督府長史平盧及青淄齊節度營田觀察海運陸運押新羅渤海兩蕃使とする。
◎.11月 納の時代、鹽利を得るため棣州に蛤蟲朵城,魏博田緒と通交するため德州三汊城を築城し、成德王武俊の領域を侵食していた。武俊は納の没後、師古が年少であるので両城を取ろうとした。師古は將趙鎬を派遣して守らせ,武俊は諦めた。
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貞元九年
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◎.4月 唐朝は争いの元である三汊城を廃棄させた。師古は不満ではあるが従ったが、他事では逆らうことが多かった。
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貞元十年
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◎.5月 師古、服闋,加檢校禮部尚書。
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貞元十二年[西暦795年]
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◎.正月 師古、加檢校尚書右僕射。
◎.11月 師古、丁母憂,起復左金吾上將軍同正。
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貞元十五年[西暦798年]
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◎.師古の妻を國夫人とする。
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貞元十六年
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◎.5月 師古、加加中書門下平章事。
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貞元二十一年/永貞元年[西暦803年]
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◎.2月 德宗崩御時、喪に乗じて隣地の義成軍の滑州攻撃を図るが、宣武韓弘が同ぜず中止。また淮西吳元濟と密かに軍事物資の交易を行っていた。
◎.7月 師古、加検校侍中。
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元和元年[西暦804年]
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◎.6月 師古、檢校司徒兼侍中。
◎.閏6月 師古薨。贈太傅。
師古と、その異母弟知密州事師道[作画と觱篥(ひちりき)演奏など芸術が趣味で、師古からは亡国の徒と罵られていた]とは極めて不仲であり、その継承を望んでいなかったが高沐や李公度など幕僚達は節度副使として擁立した。
◎.7/8月 憲宗皇帝は継承を許したくなかったが、師道は兩稅を収める、官吏を申請する、鹽法を行うと上奏してきた。憲宗は西川劉闢の平定が済まない状況であるので、師道を檢校左散騎常侍兼御史大夫權知鄆州事淄青節度留後とした。名目上は親王建王恪/審が開府儀同三司平盧軍淄青節度営田海運陸運押新羅渤海両蕃使.鄆州大都督である。
◎.10月 師道は平盧留後から加檢校工部尚書兼鄆州大都督府長史充平盧軍及淄青節度副大使知節度事管內支度營田觀察處置陸運海運押新羅渤海兩蕃等使となった。
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元和四年[西暦807年]
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◎.閏3月 魏徵の玄孫稠は貧窮し、邸宅を質に出した。師道は私財を投じてこれを入手しようとしたが、憲宗は稠に金を与えて阻止した。
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元和五年
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◎.7月 師道、加檢校右僕射
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元和七年[西暦810年]
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◎.11月 魏博節度使で、前使季安の幼子懷諫が廃され、田興(弘正)が擁立された時、師道は干渉出兵を企画し、宣武韓弘に阻止された。
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元和十年[西暦813年]
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◎.4月 自立し追討された淮西吳元濟を支援した。また刺客数十人を送り、軍糧が蓄積された河陰轉運院を焼き払った。
◎.6月 師道の刺客は京師で宰相武元衡を暗殺し、御史中丞裴度を負傷させました。憲宗は成德王承宗の仕業と誤認し、刺客達は無事に逃亡することが出来ました。
◎.8月 師道の刺客は東都で蜂起し宮闕を焼き払おうとして失敗し逃散しました。
◎.12月 師道兵は徐州を攻撃して蕭、沛數縣を破りましたが結局、武寧節度使李愿將王智興に撃退されました。
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元和十一年
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◎.11月 淮西軍が陵雲柵で敗北したと聞き、歸順を申し出ました。憲宗は成德・淮西の両面で戦っていたため師道を赦し、檢校司空としました。
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元和十三年[西暦816年]
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◎.正月 淮西吳元濟が滅び、師道は狼狽して幕僚の勧めを受けて、長子を人質に出すことと、沂、密、海三州を献上することを申し出、成德王承宗を憎む憲宗は受け入れようとしました。
◎.4月 孤立することを怖れた成德王承宗は、二子を人質にし、徳棣二州を献上することを申し出ました。憲宗は渋りましたが、魏博田弘正が強く願ったため受入れることとなりました。師道は優柔不断で妻が子を手放さないことと、諸将がまだ抵抗する兵力があると言い出したことに頼って帰服をしませんでした。もはや憲宗にとって師道は滅ぼす対象でしかありません。
◎.5月 忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道を討つ準備を始めました。
◎.5月 棣州刺史河陽都知兵馬使曹華は商河に師道兵を破りました。
◎.7月 宣武韓弘・魏博田弘正・義成李光顔・武寧李愬・橫海軍に師道征討が下命されました。師道には味方は誰もいません。
◎.9月 宣武韓弘自ら軍を率いて曹州を囲む。
◎.11月 魏博田弘正、全軍を率いて黄河を渡り鄆州に迫る。
◎.12月 師道兵で降伏する者が多数でてきた。
◎.12月 武寧節度使李愬、陥金鄉。師道は懦怯頑固で敗北を認めないため敗戦を報告する者は誰もおらず裸の王様の状態であった。
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元和十四年
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◎.正月 宣武韓弘は考城を陥し,沐陽令梁洞が降り。武寧節度使李愬は魚台を陥した。
師道軍は多方面からの攻撃を受け潰乱状態となった。
◎.正月 魏博田弘正は淄青軍を東阿,陽谷に破った。
◎.2月 李聽は東海、朐山、懷仁等縣を陥し、李愬は丞縣を陥した。
◎.2月 淄青都知兵馬使劉悟[平盧節度使正臣の孫]は主力軍を率いて、田弘正軍と対峙していたが、相継ぐ敗報になすすべもなく、逡巡を重ねていた。状況把握の出来ていない師道は、この期に及んで悟を解任殺害しようとした。好機とみて悟は反旗を翻し鄆州に突入して師道父子を殺し、帰順した。高麗李氏は三代四名で終わり、子孫は嶺南に流された。
◎.2月 唐朝は淄青十二州を鄆、曹、濮為一道,淄、清、齊、登、萊為一道,兗、海、沂、密為一道の三分割とすることを決定した。
◎.2月 淄青兵馬使金紫光錄大夫試殿中監兼監察御史劉悟は淄青を継承できると期待していたが、檢校工部尚書滑州刺史充義成軍節度使,封彭城郡王食邑三千戸に任命された。
◎.3月 能吏である華州刺史馬總が鄆州刺史鄆曹濮等州節度使。武将義成節度使薛平が青州刺史平盧節度淄青齊登萊等州觀察使押新羅渤海兩蕃使。経済官僚淄青四面行營供軍使王遂が沂州刺史沂海兗密等州觀察使となった。
◎.薛平[字坦途]は高宗時の名将薛仁貴の曾孫であり、安史の乱後の相衛節度使嵩の子である。数の死後、若年でもあったので自立継承せず唐朝に帰属し、右衛將軍となり宿衛三十年。汝州刺史から左龍武大將軍.義成軍鄭滑節度使となった。軍門の出であり有能であったので、帰服してきた統治困難な淄青節度使の任にあてられたのであろう。
◎.7月 平盧軍に押新羅渤海兩蕃使,許置巡官一人を加える。
◎.7月 沂海兗密觀察使となった王遂は、性急に兵士を軍府経営のために酷使し、旧淄青兵が反乱し殺害された。
◎.9月 棣州刺史曹華が沂海兗密觀察使として入り、沂州兵1200を誅した。
◎.この歳、方鎭表によれば淄青節度使に棣州が増領されている。棣州刺史曹華の沂海節度への転出の影響か。
◎.巨大な淄青節度使が分割、直轄化されたことは唐朝にとっては良いことかもしれない。しかし民衆にとっては唐朝の還元はなく、中央への財貨の吸い上げによる苛酷な収奪に組み込まれた状況は悪化といえる。また強力な節度使による安定した治安維持もなくなり、唐末の騒乱が旧淄青・武寧地域で発生していることを考えると、帝国にとってはマイナスであったかもしれない。
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