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武士獲/士彠 字信明
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則天皇帝の父。隋東都丞武華の子。
材木商人上がりで交友を好んだ。
李淵[高祖]は汾晉招慰大使として屯していた時、その家[鷹揚府隊正だった]に宿していた。
淵が守太原留守となると、士彠を行軍司鎧參軍とした。
士彠は淵に資金を提供し挙兵を勧めていた。
無頼の劉弘基や長孫順德が募兵を始めると、目付役の王威や高君雅は疑惑を抱き逮捕しようとしたが、両者とも下仕手親しい士彠は「この連中は淵の客分だからもめ事になりますよ」と宥めた。
反乱には参画できなかったが、大將軍府鎧曹參軍.壽陽縣公となり、長安侵攻に従って、庫部郎中.光祿大夫.義原郡公となった。
禮部侍郎?.黄門侍郎?.
武德元年高祖即位
金紫光禄大夫.太原郡公
检校井釴将軍検校右厢衞、
武德三年~七年
工部尚書判六尚書事,進封應國公
六年/七年
超郡王孝恭解任後の處置として兼検校揚州大都督府長史
九年玄武門変後
禮部侍郎?
食實封八百戸を与えられた。
九年~貞觀元年
豫州都督。
元年~五年
利州都督李孝常謀叛誅死の後処理として利州都督となった。
五年十二月
朝集使として参朝し、太宗に封禪を求めた。
五年~九年
荊州都督
九年五月
官に於いて卒,59才.贈禮部尚書,諡曰定。
十一年
女が太宗後宮に入り才人となった[後の則天皇帝]。
顯慶元年
女が皇后[則天]となり、贈并並州都督司徒周國公。
咸亨中
贈太尉兼太子太師太原郡王,配享高祖廟廷
後
忠孝太皇
後革命
追冊為帝
先天中
偽號,為太原王