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韋挺
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父沖は隋民部尚書。
挺は建成[皇太子]と親しく、李淵[高祖]が長安を陥した後、隴西公府祭酒となった。
太子左衛驃騎
檢校左衛率と建成の側近であった。
武德七年
慶州刺史楊文幹が反し、建成が疑われ、側近の挺や杜淹・王珪が流罪となった。
太宗により召し還され主爵郎中。
貞觀初
王珪の推薦で尚書右丞。
吏部侍郎
黃門侍郎
御史大夫封扶陽/扶風縣男。
隋末以来緩んだ官僚達の風紀を引き締めることを提言した。
房玄齡、王珪、魏徵、戴冑と政事を議した。
八年正月
使于四方,觀省風俗。
女が齊王祐妃となった。
復銀靑光禄大夫行黃門侍郎兼魏王泰府事。
十二年正月
高士廉・令狐德葇・岑文本等と「氏族志」を選した。
中書侍郎杜正倫が太子承乾の廃立の件を漏洩した時は連座を免れたが、
十年~十八年
太常卿へ移る。
十四年十一月
禮法に通じていたため太常卿として検校封禪大使。
十七年
太子承乾・魏王泰の失脚にはなぜか連座しなかった。
太宗は挺を宰相にしようとしたが、御史大夫の時に御史馬周を軽んじていたため恨まれ、周の妨害により任用されなかった。
十八年七月
太宗の高句麗征討時、軍糧の転運を饋運使として主管した。
九月
摂刑部尚書
十九年正月
転運が安全策を講じたため進まず、あせった太宗の不興を招き除名され、無位従軍となった。
二十年
太宗は再用しようとしたが、挺は不満で受けず、怨望として象州刺史に貶された。
卒 58才
垂拱二年
子宰相待價の願いで追贈潤州刺史