元年[762]建巳月/寶應元年四月
玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。
この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。
そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。
輔國・元振は禁軍を動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。
まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。
舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。
肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。
功績が大きかった内飛龍廄副使程元振は左監門衛將軍に昇進し、代宗にすりよった。
寶應元年五月
輔國は司空兼中書令となり、念願の宰相となった。
寶應元年六月
程元振や宰相元載は、驕慢となった輔國を排除しようとして代宗に接近した。
まず輔國の判元帥行軍司馬・兵部尚書・閒廄等使の軍權を解任した。
そして輔國に邸宅を与え内廷から排除した、さらに中書令を解き相權も奪った。
輔國は憤激して代宗に抗議したが容れられず、博陸郡王を与えられただけだった。
「もう私は不要なのだな、先帝にあの世で仕えるしかない」と言い捨てて去った。
寶應元年九月
輔國派の秘書監韓穎、中書舎人劉烜が殺された。
程元振は驃騎大將軍兼内侍監となり実権を握った。
寶應元年十月
盗賊が輔國邸に入り、輔國を殺して首を取って去った。代宗の密命によると思える。
代宗は木首を与えて葬儀を行わせ、「太傅」を贈った。