唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 魚朝恩 その3

2024-11-26 09:09:36 | Weblog

代宗政権は朔方軍を支配し河中に駐屯する郭子儀と、行政を握る宰相元載と、禁軍・宮中を握る魚朝恩のバランスの上にあって、極めて脆弱であった。

例として、子儀の子の曖には代宗の愛娘昇平公主が降嫁していた。あるとき夫婦げんかで、公主が曖を罵ると、曖も「皇帝が尊いと言っても俺の父親が支援してこそだぞ」と言い放った。激怒した公主は代宗のもとに走り告げ口した。代宗は娘に「その通りだ、子儀の支援が無いとやっていけないのだ。お前にはそれがわからないのか」と言って叱り帰宅させた。

大曆二年[767]二月
郭子儀が河中より入朝した。宰相元載・王縉・左僕射裴冕・判度支戸部侍郎第五琦・京兆尹黎翰・魚朝恩が各錢三十萬を出して供応しあった。これが当時の実権者である。

四月
宰相達と内侍魚朝恩は吐蕃と会盟した。

七月
朝恩は章敬太后[代宗の生母]の追善のために章敬寺を莫大な金をかけて建立した。当然公費を流用していた。

十二月
郭子儀の父敬之の墓が盗掘された。人々は子儀と対立する朝恩の仕業と思っていた。
やがて奉天から子儀が入朝してきたため、大乱が起きると動揺が広がり、代宗は懼れた。
しかし子儀は「私は軍紀を守らせることができず、今まで麾下が諸人の墓を暴くことがありました。今回のことは私の不徳によるものでしょう」と騒がなかったため治まった。

大暦三年[768]
朝恩はしばしば国子監へ行った。そのたびに前京兆尹黎幹は盛大な供応をしてご機嫌取りをしていた。しかし新任の京兆尹李勉は諂わず供応しなかったので、朝恩は深く恨み、また国子監へ征かなくなった。

大暦四年[769]正月
郭子儀が河中より入朝し、朝恩の邸宅で供応を受けることになった。宰相元載は二者の対立を煽るために、子儀の配下に朝恩が子儀を殺害する計画があると密告した。配下は驚き重武装の護衛をつけることを進言したが、子儀は「私も朝恩も大臣である、皇帝の命もなく事を起こすなどありえない」と認めず数人の家来を連れただけで訪問した。
朝恩も不穏なウワサが流れていることを知り対処に苦悩していたが、子儀の度量の広さに感激した。

コメント
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