唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

酒法   [李景略の厳酷と任迪簡の寛容]

2025-03-10 10:00:00 | Weblog

酒法   [李景略の厳酷と任迪簡の寛容]
--------------------------
酒がめぐり座はにぎやかになっていった。
辺境の豐州天徳軍防禦使の幕僚や將が集う宴会です。
厳酷で知られる軍使李景略も今日は機嫌は良いようでした。

「酒が切れたぞ」と景略の傍らの判官任迪簡がよぶと、係はあわてて新しい酒壷をもってきました。
迪簡は自分でなみなみと注ぐと一気に飲もうとしました。
「ウッ!」、ところが中身は酒ではなく醤醢(醤油の原型)であったのです。
「どうした」と景略がこちらを振り向きました。
「いやなんでもありません、急いで飲んだのでむせてしまいました」
迪簡はがまんしてなんとか杯を飲み干しました。

この宴会は軍法によって行われています、間違って醤醢を出したことなどがわかったら、係はすぐさま景略に殺されてしまうのです。

それがわかっているので迪簡はがまんして飲みほしたのです。
そして係を呼んで「この酒は薄い、もっと濃いものに替えよ」と命じました。
壷の残った中身をみて係はさっと青ざめました。
迪簡は「なにもいうな」と目配せをして持ち去らせました。

宴会後、迪簡は吐血しましたがなにも言いませんでした。
しかし周辺からウワサは広がり、「判官はまことに長者である」と軍士達は思いました。
景略の厳法に怯えていた軍士達にとっては心温まるできごとであったのです。

貞元二十年正月景略が任期中になくなりました。
將士は後継を寛厚な迪簡にすることを求めて騒ぎたてました。
監軍の宦官は迪簡を隠しましたが、將士は探し出して強いて擁立しました。
姑息な德宗皇帝はやむをえず後任として認めることしました。

*******背景*******

河東節度行軍司馬であった李景略は威望があり、横暴な回紇の使節でさえも敬意を払っていた。
節度使の李說は自分の地位にとって代わられるのではないかと懼れ、宦官竇文場に働きかけて北邊防御のためと称して豐州に都防御使を置き、景略を任用させるようにした。
景略は勤儉で、衆を率いて軍備を充実させたが極めて厳酷であった。
德宗皇帝は初期の藩鎭対策に失敗して京師を逐われたことから、方鎭の継承に対しては極めて姑息で、節度使の交代時には事前に後任の行軍司馬を送るか、現地軍の意向を伺って乱が起きないようにしていた。そのため將士は自分達で擁立する傾向があった。
また辺地の軍人達の状況は厳しく、将帥の良し悪しは生死に関わることであったのです。
任迪簡は有能で後に義武軍節度使の唐朝への帰服を成功させます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする