大和九年 西暦834年
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四月丙申,宰相路隋罷。戊戌,賈餗か゛宰相に。
李派が排除された。文宗は牛李の党争を嫌い、第三勢力を登用しようとしていた。
六月壬寅,貶李宗閔為明州刺史。七月辛亥,李固言を登用。
牛派も逐われた。李訓や鄭注などが文宗側近に登用され、宦官排除の陰謀が画策されていた。
八月丙申,幹部宦官楊承和、韋元素、王踐言達を殺した。
九月癸亥,殺宦官陳弘志。
憲宗皇帝を暗殺した弘志をやっと誅殺することができた。
九月丁卯,李固言罷。
鄭注の登用に反対した固言が排除された。
九月己巳,舒元輿,李訓が宰相に。
九月戊辰,右神策中尉王守澄為左右神策觀軍容使兼十二衛統軍。
十月辛巳,殺觀軍容使王守澄。
昇進のようにみせかけて実権を奪い、殺した。
文宗の宦官排除策もここまではうまくいっていた。宦官内部にも古い世代を排除して自分達が立身したいという流れがあり、あくまで世代交代ととらえていた。しかし文宗・李訓・鄭注等の考えは、宦官から軍權を含めて全権力を奪う[唐末のような誅滅ではない]という方針であった。
十一月壬戌,甘露の変
文宗・李訓・王璠・郭行餘等が幹部宦官[仇士良.魚朝恩等]を誅殺しようとして失敗。文宗は宦官に拉致され、宦官指揮下の神策軍が宰相四人[李訓.舒元輿.王涯.賈餗]を殺害した。王涯と賈餗は巻き添えである。多くの文官が加担していたとして殺された。これにより朝政での宦官優位[完全な支配は僖宗時の田令孜をまたねばならない]が確立したわけである。
補充宰相は李石と鄭覃であるが、宦官に圧されて実権はなかった。
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四月丙申,宰相路隋罷。戊戌,賈餗か゛宰相に。
李派が排除された。文宗は牛李の党争を嫌い、第三勢力を登用しようとしていた。
六月壬寅,貶李宗閔為明州刺史。七月辛亥,李固言を登用。
牛派も逐われた。李訓や鄭注などが文宗側近に登用され、宦官排除の陰謀が画策されていた。
八月丙申,幹部宦官楊承和、韋元素、王踐言達を殺した。
九月癸亥,殺宦官陳弘志。
憲宗皇帝を暗殺した弘志をやっと誅殺することができた。
九月丁卯,李固言罷。
鄭注の登用に反対した固言が排除された。
九月己巳,舒元輿,李訓が宰相に。
九月戊辰,右神策中尉王守澄為左右神策觀軍容使兼十二衛統軍。
十月辛巳,殺觀軍容使王守澄。
昇進のようにみせかけて実権を奪い、殺した。
文宗の宦官排除策もここまではうまくいっていた。宦官内部にも古い世代を排除して自分達が立身したいという流れがあり、あくまで世代交代ととらえていた。しかし文宗・李訓・鄭注等の考えは、宦官から軍權を含めて全権力を奪う[唐末のような誅滅ではない]という方針であった。
十一月壬戌,甘露の変
文宗・李訓・王璠・郭行餘等が幹部宦官[仇士良.魚朝恩等]を誅殺しようとして失敗。文宗は宦官に拉致され、宦官指揮下の神策軍が宰相四人[李訓.舒元輿.王涯.賈餗]を殺害した。王涯と賈餗は巻き添えである。多くの文官が加担していたとして殺された。これにより朝政での宦官優位[完全な支配は僖宗時の田令孜をまたねばならない]が確立したわけである。
補充宰相は李石と鄭覃であるが、宦官に圧されて実権はなかった。
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