唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大和七~八年 西暦832~33年

2020-04-23 10:06:51 | Weblog
大和七年 西暦832年
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正月甲寅,新除嶺南節度使崔珙為武寧節度使。
前任の高瑀が武寧節度を統治できず交代した。瑀に責任があるというより驕慢な牙軍に問題があった。「新除」とは任命されたがすぐ転任するという意味で、珙は本来大府卿であった。

二月丙戌,李德裕が宰相となる。

三月、幽州節度楊志誠、抑留勅使。
粗暴な軍人志誠は唐朝の礼式に通ぜず、同じ三位格の檢校工部尚書より檢校吏部尚書への形式的な栄進が理解できず[本人は二位格の檢校僕射に昇進することを期待、どちらも実質的意味はないが]、憤激してやったことである。唐朝はその無教養さに呆れたが、慰撫するだけであった。

六月乙巳,以山南西道節度使李載義為河東節度使。
元幽州節度載義を河東節度使とし、横暴な回紇使節と幽州楊志誠への牽制を図ったものである。


六月乙亥,宰相李宗閔が山西節度へ出される。
牛党が逐われ、李党が中心となった。しかし文宗は党争に飽き飽きしていた。

大和八年 西暦833年
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十月辛巳,幽州軍乱、逐節度使楊志誠,史元忠自立。
また軍乱である。志誠は京師へ亡命したが、その反唐朝姿勢が祟って流され、途次殺された。

十月庚寅,李宗閔が復任し、李德裕が解任された。
宦官王守澄は牛党を支援し、李訓・鄭注などが文宗の親任を受けていった。

十一月癸丑,成德軍節度使王廷湊卒,子元逵が自立。
反唐朝姿勢が強かった廷湊が卒し、元逵は協調路線に転じた。

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