淮南節度使は揚州を治所とする。淮南道採訪使の後継で道を管轄とする。浙江西道と並び唐朝財政の基盤で富裕な地域であり唐初より重視されている。
至德元年[756]
◎.7月 成都に逃亡した玄宗皇帝は皇子盛王琦を充廣陵大都督領江南東路及淮南河南等路節度都使とし軍權を分置しようとした。盛王は実際に赴任していない。廣陵郡長史李成式が副都大使兼御史中丞として実務をすることになった。のち成式は大理卿に移る
◎.11月 江陵[荊南]大都督に任ぜられた永王璘が、江陵[荊南]で募兵し、江淮で自立しようとした。
◆.12月 置淮南節度使領楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔十三州治楊州.尋申光隷淮西
◎. 永王の東下を防ぐため、諫議大夫高適[字達夫]が廣陵大都督府長史淮南節度兼采訪使となった。他に來瑱が淮西節度使となった。
◎. 永王璘は東侵し、將季廣琛に廣陵を襲わせ、長史淮南采訪使李成式將李承慶を破った。高適は急遽赴任し、來瑱や江東節度使韋陟と安陸に会同した。
至德二年[757]
◎.2月 永王將季廣琛・渾惟明・馮季康などは朝敵となっていることを知り帰順した。
永王軍は李成式將李銑・裴茂・趙侃などに敗れ、永王は江西まで逃げて誅された。肅宗皇帝は永王を幼時からかわいがっていたので、承認の無い処刑に不満だった。
◎.この歳 文官靑齊節度使鄧景山が揚州長史淮南節度使に移った。政治は簡肅で好評であったようだ。高適は宦官李輔國に憎まれ太子少詹事に左遷されたらしい。
至德三年/乾元元年[758]
◎.12月 置浙江西道節度使[節度使韋黄裳]・浙江東道節度使[節度使李希言]がおかれて、戸部尚書李峘が淮南節度使[節度使は鄧景山]とともに兼御史大夫持節都統淮南江南江西節度宣慰觀察處置等使として統轄することになった。峘[趙/越國公]は皇族で吳王の末で宰相峴の兄である。
乾元二年[759]
平盧軍出身の御史中丞李銑・宋州刺史劉展等は河南道一帯で、安史軍と戦ってはいるが、極めて規律のない軍隊で、貪暴不法を続けて問題となっていた。淮西節度使王仲昇は展を抑えることができず、文官の都統李峘や淮南鄧景山と展を李銑から切り離し、途次に捕殺しようと企画し、浅薄無能な肅宗皇帝もその企画に賛同した。そして劉展を李峘に代わって都統淮南東江南西浙西三道節度使に任ずるという詔が出された。
自分達が貪暴であるとは自覚していた展はその真意を疑ったが、使者の宦官が保証し、符節も示されれば信じるしかなく、富裕になることを夢見て麾下七千を率いて勇躍南下した。
上元元年[760]
◎.11月 展は南下したが、淮南鄧景山・浙西侯令儀の軍が京口,徐城に屯して遮っていた。展は詔書を示したが、景山等は否認したため戦闘となった。歴戦の展軍は南方軍を一蹴し揚州に入った。
そして將屈突孝標に濠、楚州を、王恆に淮西を平定させた。
展軍は李峘軍を京口に破り、峘は宣州に敗走した。
◎.12月 展はさらに浙西に入り潤州・昇州を陥した。節度使侯令儀は逃亡し、軍人の都統副使李藏用だけが敗卒を集めて蘇州を守ったが敗れて杭州に奔った。
◎.展軍は濠楚和滁廬等州を占領し、淮南浙西の大半を制圧した。ただ壽州刺史崔昭だけが防守していた。
◎. 肅宗皇帝は狼狽し、任城に屯していたやはり平廬軍出身の都知兵馬使田神功[展の兄貴分に当たる]に展の征討を命じた。神功は淮南の富裕を知り、掠奪の希望に燃えて麾下と共に勇躍して南下した。
◎. 展は淮南の弱兵を一掃していたが、田神功の来寇を懼れて備えた、しかし神功軍は強く、梁山に敗れて奔った。
◎.神功軍は廣陵・楚州に入り徹底して掠奪した。安史の乱で被害を受けていなかった淮南浙西も肅宗や官僚の愚策により荒廃してしまった。
至德元年[756]
◎.7月 成都に逃亡した玄宗皇帝は皇子盛王琦を充廣陵大都督領江南東路及淮南河南等路節度都使とし軍權を分置しようとした。盛王は実際に赴任していない。廣陵郡長史李成式が副都大使兼御史中丞として実務をすることになった。のち成式は大理卿に移る
◎.11月 江陵[荊南]大都督に任ぜられた永王璘が、江陵[荊南]で募兵し、江淮で自立しようとした。
◆.12月 置淮南節度使領楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔十三州治楊州.尋申光隷淮西
◎. 永王の東下を防ぐため、諫議大夫高適[字達夫]が廣陵大都督府長史淮南節度兼采訪使となった。他に來瑱が淮西節度使となった。
◎. 永王璘は東侵し、將季廣琛に廣陵を襲わせ、長史淮南采訪使李成式將李承慶を破った。高適は急遽赴任し、來瑱や江東節度使韋陟と安陸に会同した。
至德二年[757]
◎.2月 永王將季廣琛・渾惟明・馮季康などは朝敵となっていることを知り帰順した。
永王軍は李成式將李銑・裴茂・趙侃などに敗れ、永王は江西まで逃げて誅された。肅宗皇帝は永王を幼時からかわいがっていたので、承認の無い処刑に不満だった。
◎.この歳 文官靑齊節度使鄧景山が揚州長史淮南節度使に移った。政治は簡肅で好評であったようだ。高適は宦官李輔國に憎まれ太子少詹事に左遷されたらしい。
至德三年/乾元元年[758]
◎.12月 置浙江西道節度使[節度使韋黄裳]・浙江東道節度使[節度使李希言]がおかれて、戸部尚書李峘が淮南節度使[節度使は鄧景山]とともに兼御史大夫持節都統淮南江南江西節度宣慰觀察處置等使として統轄することになった。峘[趙/越國公]は皇族で吳王の末で宰相峴の兄である。
乾元二年[759]
平盧軍出身の御史中丞李銑・宋州刺史劉展等は河南道一帯で、安史軍と戦ってはいるが、極めて規律のない軍隊で、貪暴不法を続けて問題となっていた。淮西節度使王仲昇は展を抑えることができず、文官の都統李峘や淮南鄧景山と展を李銑から切り離し、途次に捕殺しようと企画し、浅薄無能な肅宗皇帝もその企画に賛同した。そして劉展を李峘に代わって都統淮南東江南西浙西三道節度使に任ずるという詔が出された。
自分達が貪暴であるとは自覚していた展はその真意を疑ったが、使者の宦官が保証し、符節も示されれば信じるしかなく、富裕になることを夢見て麾下七千を率いて勇躍南下した。
上元元年[760]
◎.11月 展は南下したが、淮南鄧景山・浙西侯令儀の軍が京口,徐城に屯して遮っていた。展は詔書を示したが、景山等は否認したため戦闘となった。歴戦の展軍は南方軍を一蹴し揚州に入った。
そして將屈突孝標に濠、楚州を、王恆に淮西を平定させた。
展軍は李峘軍を京口に破り、峘は宣州に敗走した。
◎.12月 展はさらに浙西に入り潤州・昇州を陥した。節度使侯令儀は逃亡し、軍人の都統副使李藏用だけが敗卒を集めて蘇州を守ったが敗れて杭州に奔った。
◎.展軍は濠楚和滁廬等州を占領し、淮南浙西の大半を制圧した。ただ壽州刺史崔昭だけが防守していた。
◎. 肅宗皇帝は狼狽し、任城に屯していたやはり平廬軍出身の都知兵馬使田神功[展の兄貴分に当たる]に展の征討を命じた。神功は淮南の富裕を知り、掠奪の希望に燃えて麾下と共に勇躍して南下した。
◎. 展は淮南の弱兵を一掃していたが、田神功の来寇を懼れて備えた、しかし神功軍は強く、梁山に敗れて奔った。
◎.神功軍は廣陵・楚州に入り徹底して掠奪した。安史の乱で被害を受けていなかった淮南浙西も肅宗や官僚の愚策により荒廃してしまった。
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