三師(太師.太傅.太保)三公(太尉.司徒.司空)は正一品の最上級官であるが、唐代では属官もなく単なる最高
名誉職になっていた。
三公は検校官としては唐中期より乱発され、後期には三師もよく任じられたが正任として与えられる例は少ない。
節度使に与えられる正任の初例は至徳元年の郭子儀・李光弼があり、平章事を兼ねないものは上元元年の河東王思禮
(侯希逸もあるが節度使兼任ではない)がある。
その後は僕固懷恩・李懷光・李晟・馬燧などの唐朝系と幽州朱・魏博田承嗣・成徳李寶臣・淄青李正巳の河北藩鎭
がみられる。
やがて唐朝系李光顔・鳥重胤と、親唐朝系藩鎭である宣武韓弘・武寧王智興・幽州李載義になど移る。
開成三年~乾寧二年の58年間は武官の任用はなく、文官宰相の古株を遇する任命だけになる。
乾寧二年河東李克用が任ぜられた後は、鎭国韓建・宣武朱全忠・西川王建などがみられ、未確認だが邠寧王行瑜・
鳳翔李茂貞なども任ぜられたと推定できる。
三公の序列は 上位より 太尉→司徒→司空
三師の序列は 上位より 太師(李克用の一例しかない)→太傅→太保
両者の序列としては 下位より 司空→司徒→太保→太傅 であるが太尉の位置は不明である。
名誉職になっていた。
三公は検校官としては唐中期より乱発され、後期には三師もよく任じられたが正任として与えられる例は少ない。
節度使に与えられる正任の初例は至徳元年の郭子儀・李光弼があり、平章事を兼ねないものは上元元年の河東王思禮
(侯希逸もあるが節度使兼任ではない)がある。
その後は僕固懷恩・李懷光・李晟・馬燧などの唐朝系と幽州朱・魏博田承嗣・成徳李寶臣・淄青李正巳の河北藩鎭
がみられる。
やがて唐朝系李光顔・鳥重胤と、親唐朝系藩鎭である宣武韓弘・武寧王智興・幽州李載義になど移る。
開成三年~乾寧二年の58年間は武官の任用はなく、文官宰相の古株を遇する任命だけになる。
乾寧二年河東李克用が任ぜられた後は、鎭国韓建・宣武朱全忠・西川王建などがみられ、未確認だが邠寧王行瑜・
鳳翔李茂貞なども任ぜられたと推定できる。
三公の序列は 上位より 太尉→司徒→司空
三師の序列は 上位より 太師(李克用の一例しかない)→太傅→太保
両者の序列としては 下位より 司空→司徒→太保→太傅 であるが太尉の位置は不明である。
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