唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀六~十一年 西暦632~637

2020-05-12 10:03:58 | Weblog
貞觀六年 西暦632
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正月、文武官復請封禪,會河南、北數州大水,事遂寢。
太宗は封禪をやりたくて仕方がないが環境が整わなかった。

突厥帝国崩壊の後、東西貿易を維持するため西突厥や焉耆との交渉が続いた。

貞觀七年 西暦633
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貞觀八年 西暦634
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是夏,吐谷渾寇涼州,段志玄,樊興以伐之。
十二月李靖,侯君集,任城郡王道宗以伐吐谷渾。
西方の吐谷渾を討った。李靖は一旦引退を仄めかしたが、太宗の疑惑を避けるため征討を引き受けることにした。

十一月甲申,吐蕃贊普棄宗弄贊遣使入貢,仍請婚。
吐谷渾の背後にある吐蕃と交渉し、牽制を図ったものである。これから当分は対吐蕃関係は親密であった。

貞觀九年 西暦635
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閏四月癸酉,任城王道宗敗吐谷渾于庫山。
吐谷渾を平定し、新王を立てた。李靖は再び大功を立てたが、太宗はやはり中傷させ、不満な靖は閉居してしまった。

五月,庚子,太上皇[高祖]崩,皇太子聽政。
高祖も突厥平定以降は、太宗と和解していたようである。太宗は子として喪に服したため太子が見事に聴政を務めた。

貞觀十年 西暦636
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六月己卯,長孫皇后崩。
皇后は賢明で、太宗の行き過ぎを制御し、無忌など長孫一族が権力を振るうのを抑えていた。

貞觀十一年 西暦637
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六月己未,詔荊州都督荊王元景等二十一王所任刺史,鹹令子孫世襲。
戊辰,又以功臣長孫無忌等十四人為刺史,亦令世襲,非有大故,無得黜免。
太宗は王朝の安定策として封建制を思いつき、皇室21名と功臣14名を世襲都督/刺史として統治させることにした。これには弊害も多く、数年で停止することになった。

この歳、太宗は故武士彠獲の女,年十四を後宮に入れ才人とした[後の則天皇帝]。


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