魏博節度使であった田弘正は、王承宗の没後対立関係であった成德節度使に転じました。当然危険な状況であったので魏博兵二千を身辺警護として引率して赴任したのですが、朝廷はその経費を惜しんだため帰還し、王廷湊らの乱により弘正は殺害されてしまいました。
当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。
長慶元年8月
そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。
しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。
長慶2年正月
奚出身の先鋒兵馬使史憲誠は軍中の不満を悟り、煽動して乱を起こし、大半の軍を率いて勝手に自立し、残された布はどうすることもてきず、中軍とともに魏州に戻り諸将を説得しましたがならず自殺しました。
憲誠は布の死を知り、牙軍を説得し擁立させました。
やむをえず朝廷は史憲誠を後任の魏博節度使としました。
王廷湊や朱克融を征討するどころではなく、憲宗皇帝の河北回復は、穆宗皇帝の失政により二年で崩壊してしまいました。
当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。
長慶元年8月
そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。
しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。
長慶2年正月
奚出身の先鋒兵馬使史憲誠は軍中の不満を悟り、煽動して乱を起こし、大半の軍を率いて勝手に自立し、残された布はどうすることもてきず、中軍とともに魏州に戻り諸将を説得しましたがならず自殺しました。
憲誠は布の死を知り、牙軍を説得し擁立させました。
やむをえず朝廷は史憲誠を後任の魏博節度使としました。
王廷湊や朱克融を征討するどころではなく、憲宗皇帝の河北回復は、穆宗皇帝の失政により二年で崩壊してしまいました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます