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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

中和二年 西暦882年

2020-08-16 10:00:07 | Weblog
中和二年 西暦882年
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正月辛亥,王鐸為諸道行營都都統,太子少師崔安潛副之。高駢罷都統。
鳳翔鄭畋が逐われ、淮南高駢は動かず。義成王鐸が都統として京師回復に当たることになりました。鐸は唐軍の非力を痛感し、再度李克用の登用を進言しました。

二月甲戌,黃巢陷同州。
黄巣將朱温[後の全忠]が同州を取りました。

二月己卯,太子少傅分司東都鄭畋為司空兼門下侍郎同中書門下平章事。
丙戌,李昌言為京城西面都統,邠寧節度使朱玫為河南都統、諸谷防遏使。
昌言の自立は追認し、手薄な朝廷は畋を任用しました。

三月,邛州蠻阡能叛,西川部將楊行遷討之。
楊行遷及阡能戰於乾溪,敗績。
軍費の重圧がかかっている劍南地方で反乱が起きています。

八月魏博節度使韓簡陷孟州。
沈滞していた河北三鎭のうち魏博軍が独自行動を始めました。河陽は諸葛爽が黄巣により節度使に任用され、その後唐朝に歸順した鎭です。簡は天平等への渡河点を確保しようとしています。

九月丙戌,黃巢將朱溫以同州降。己亥,朱溫為右金吾衛大將軍、河中行營招討副使。
黄巣の不信をかった朱溫[全忠]は王鐸の誘いに乗り歸順することになりました。

十月,韓簡寇鄆州,天平軍節度使曹全晸死之。諸葛爽陷孟州。
簡は天平軍を破り鄆州を取ろうとしましたが、天平軍の残部にてこずっている間に、爽に背後をつかれて孟州を奪回されてしまいました。

十月。王鐸は義武節度王處存を仲介として、李克用を説得し帰順させました。今回は河東鄭従讜にも根回しをしてあります。

十一月、李克用は沙陀を率いて太原領域を避けて南下し、4万の兵力で河中・同州へ進出しました。

是歲,賊危全諷陷撫州,危仔倡陷信州。楊行密逐盧州刺史郎幼復。和州刺史秦彥逐宣歙觀察使竇潏。淮南江南諸州は次々に自立していきます。
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廣明二年/中和元年 その2 西暦881年

2020-08-15 10:00:52 | Weblog
廣明二年/中和元年 その2 西暦881年
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三月,赦李國昌及其子李克用以討黃巢。
五月丙辰,克用寇太原,振武軍節度使契苾璋敗之。
黄巣軍に比べて唐朝軍は兵数も少なく、しかも王鐸・鄭畋といった文官では統制もできません。巢の拠る京師を包囲してはいるものの有効な打撃を与える力はありません。そこで河東地方にいる強力な沙陀騎兵を活用したいのですが、沙陀が信服する人材と言えば、酋長である追放されている李國昌・克用親子しかいませんでした。そこで王鐸は二人を赦して活用することにしましたが、河東節度鄭従讜との連絡不徹底によりうまくいきません。

五月、忠武軍節度周岌が帰順しました。監軍宦官楊復光は忠武軍を率いて鄧州を陥し、黄巣包囲網が完成しました。

六月、李克用遇大雨,己亥,引兵北還,陷忻、代二州,因留居代州。
撃退された克用はそれでも勢力を回復し代北に自立します。

七月丁巳,大赦,改元。
やっと縁起の悪い「廣明」をやめて改元「中和」にこぎ着けることができました。

七月丙寅,神策軍將郭琪反,伏誅。
西川では田令孜の連れてきた神策軍と、現地軍との間で待遇の差から軋轢が生じて軍乱がおきています。令孜は独裁的権限をもっています。

八月,感化軍將時溥逐其節度使支詳,自稱留後。
昭義軍節度使高潯及黃巢戰于石橋,敗績,其將成麟殺潯,入於潞州。
九月丙午,鄜延節度使李孝章、夏綏銀節度使拓拔思恭及黃巢戰於東渭橋,敗績。
唐朝側では敗戦が続き、方鎭の將士は命令に従わなくなります。
黄巣軍も京師に居竦んだままで、攻撃を撃退はしますが、進撃はしません。

八月、臨海賊杜雄陷台州。永嘉賦朱褒陷溫州。
淮南浙江の諸州がどんどん賊の所有になります。これは流賊では無く自立していくのです。

十月,鳳翔行軍司馬李昌言逐其節度使鄭畋。十一月,李昌言為鳳翔節度行營招討使。
包囲軍主帥の鄭畋が軍乱により追われてしまいます。
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廣明二年/中和元年 その1 西暦881年

2020-08-14 10:00:42 | Weblog
廣明二年/中和元年 その1 西暦881年
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[状況]
◎.黄巣「齊」が建国されましたが、統治領域は京師付近にしかありません。自軍に京師の遊民や諸軍の一部を吸収しまとまった兵力を持ちますが、経済的な背景はありません。いままで通過してきた各州は荒らしただけで占領したわけではないのです。そしてもともと京師は自給できない土地です。

◎.田令孜・僖宗「唐」、官僚のほとんどを失い、宦官と少数の禁軍を持つのみです。頼りは西川陳敬瑄など旧神策軍の節度使だけです。京師付近の残存軍は潰滅していて到底黄巣軍に対抗できません。

◎.「北部方鎭」、あまりにあっけない唐朝の崩壊に啞然としていて、対処に迷っている状況です。唐朝系の方鎭は、トップの権威が唐朝の崩壊により統制がとれない状況です。河北の諸鎭もまた方向性が定まりません。

◎.「南部方鎭」、もともと確立していない軍であり、草賊により領域は荒らし回られ荒廃しています。そしてまだ残存している賊は多く、各州ごとにその支配に分立していきます。


正月丁丑,次成都。
成都にたどりつきました。僖宗は令孜兄弟の完全な傀儡です。

二月、太子少師王鐸為司徒兼門下侍郎同平章事。淮南節度使高駢為京城四面都統。
失脚していた王鐸が用いられ、その党派の高駢を京師回復の都統に任用しましたが、既に老耄していた駢は呼号するだけで動きません。鐸は滑州義成軍節度使を根拠地とします。

二月、鳳翔節度使鄭畋及巢戰于龍尾坡,敗之。
黄巣軍が鳳翔に迫りましたが、なんとか撃退することができました。

三月辛酉,鄭畋為京城西面行營都統。甲子,畋及涇原節度使程宗楚、天雄軍經略使仇公遇盟於鳳翔。
駢は動かないため鳳翔節度鄭畋[元宰相。文官]を都統として京師回復を図ります。しかしまともな兵力はなく黄巣を牽制するのみです。

三月、諸葛爽以河陽降。四月戊寅,王玫伏誅。
黄巣軍の進撃に狼狽して降った諸将が唐朝に復帰してきました。黄巣軍は京師に孤立しています。河中節度使王重榮も唐朝に戻ります。

三月、程宗楚、唐弘夫及黃巢戰於咸陽,敗之。壬午,巢遯乾灞上。丁亥,復入于京師,弘夫宗楚死之。
一部唐朝軍が京師に突入しました。黄巣は狼狽して遁走しましたが、唐軍が少ないのを知り、再入して回復しました。唐軍は掠奪に夢中で潰乱してしまいました。
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廣明元年 その2 西暦880年

2020-08-13 10:00:57 | Weblog
廣明元年 その2 西暦880年
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七月,幽州李可舉及李國昌・克用戰于藥兒嶺,敗之。
可舉は國昌・克用軍を大破し、二人は達靼へ亡命し、一応沙陀の乱は平定されました。

八月辛卯,昭義軍亂,殺其節度使李鈞。
九月,忠武軍將周岌殺其節度使薛能。牙將秦宗權自稱權知蔡州事。
十一月,河中都虞候王重榮逐其節度使李都。
黄巢は十五萬と号し,曹全晸兵六千を破りました。各地で軍乱が相継ぎ、河南防衛の主将泰寧節度使齊克讓は兵が集まらない上に、軍乱の危険があるため自鎭へ撤退し、黄巣の進路はがら空きになりました。

十一月,護軍中尉田令孜為諸道兵馬都指揮制置招討使,忠武軍監軍楊復光副之。
唐朝は慌てて京師の神策軍を動員しましたが、神策軍は宦官達が収賄して豪商や貴族達[脱税と地位を求めて贈賄して就職]からなる実体のない軍でした。彼らはパレードや祝祭用の部隊で、実際の動員が
かかると、浮浪者や乞食を代役にたてて出頭させました。そのため人数も揃わず、体力もないボロボロの集団でしかありませんでした。長期の平和になれた京師周辺の諸軍も実体はなく、すっかり宦官に食いつぶされていました。

十一月,丁卯,東都留守劉允章叛附于黃巢。
叛附といいますが、防衛する兵力がないので降っただけです。

十一月,壬申,巢陷虢州。田令孜為汝、洛、晉、絳、同、華都統。
令孜は都統と称しますが、出陣せず、張承範、王師會等が少数の雑軍を連れて潼関に向かいます。途中の華州の官吏は既に逃亡していて軍糧すらも満足に支給されません。

十二月壬午,黃巢陷潼關。
本来潼関は堅固な要塞ですので、黃巢のような流賊が攻めても抜くことはできません。しかし長期の平和によりすっかり設備が壊れているうえに、飢えた少数の雑軍が守る状況です。それでも一応は抵抗しましたが突破されました。

十二月、行在咸陽。巢陷京師。辛卯,次鳳翔。
田令孜は僖宗を連れて京師から逃亡し鳳翔に向かいました。そのあと興元から兄陳敬瑄のいる成都に向かいます。宰相も官僚も置き去りにしての逃亡です。

十二月壬辰,巢即皇帝位于含元殿,國號大齊,改元金統。
黄巣は即位し「齊」帝国を建国し、年号を「金統」としました。宰相以下幹部が任命されました。

十二月丙申,河陽節度使諸葛爽叛附于黃巢。
京師付近の諸鎭や一部方鎭[河中や淄青]は黄巣の任命をうけて帰属しました。

十二月庚子,殺廣德公主、豆盧琢、崔沆、劉鄴、于琮、裴諗。
逃げ遅れた皇族・宰相達が殺されました。四品以下の官僚は黄巣に仕えることが許されました。

全国政権としての「唐」は滅亡しました。これ以降は象徴的な存在になります。
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廣明元年 その1 西暦880年

2020-08-12 10:00:58 | Weblog
廣明元年 西暦880年
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正月乙卯朔,改元廣明。
ろくなことがない「乾符」を止めました。

三月庚午,以左金吾大將軍陳敬瑄為西川節度使。
僖宗の寵臣宦官田令孜の兄です。宦官に兄がいてもおかしくはありませんが、唐代の宦官には妻子がいるのです。宦官にも何代も続くという名家があります。敬瑄は当然令孜の推薦です。腐敗した神策軍の将楊師立、牛勖、羅元杲等とバクチをして勝ったので大藩である西川節度をもらったという話も、師立[東川]勖[山西]元杲[河陽]と赴任しています。

三月、門下侍郎同平章事鄭從讜同平章事,充河東節度使。
河東節度の混乱が収まらないので宰相從讜が二度目の河東節度を務めることになりました。さすがに名門貴族出身で敏腕の從讜ですので、乱將達を慰撫して治安を回復していきました。と言っても太原付近を抑えたという程度で、到底沙陀討伐ができるというほどではありません。

四月、淮南節度使高駢が諸道行營兵馬都統となり黄巣を討つことに、駢は大軍を将張璘に与えて討伐させました。

四月丁酉,以太僕卿李琢為蔚、朔等州招討都統、行營節度使。
河東節度では沙陀が討てないので琢[これも李晟の孫、聴の子です]を任用しました。

五月、黄巣軍は江西の信州で疫病のため衰微し、張璘に攻められ高駢に降ろうとしました。駢は功をあせり援軍の昭義、感化、義武軍等を還してしまいました。巢は隙をついて攻撃し璘を敗死させました。

六月、李琢は幽州節度節度使李可舉、吐谷渾都督赫連鐸とともに沙陀李克用を破りました。

七月、黄巢自采石渡江,圍天長、六合,兵勢甚盛。
詔河南諸道發兵屯殷水,泰寧節度使齊克讓屯汝州,以備黄巢。
江南で勢力を回復した巢軍は揚子江を渡河して北上してきました。璘を失った淮南高駢は居竦んで見送りました。唐朝は慌てて克讓に命じて河南諸軍を動員させました。順調に諸軍が集まれば巢軍が大軍でも怖くはありませんが、諸軍は五月に高駢に空振りをさせられたばかりです。
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乾符六年 西暦879年

2020-08-11 10:00:22 | Weblog
乾符六年 西暦879年
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正月,鎮海軍節度使高駢為諸道行營兵馬都統。
駢はその将張璘等を派遣して黄巣軍ほ追撃し、賊将秦彥・畢師鐸・李罕之・許勍を降して配下に加えました。

二月,河東軍亂,殺其節度使崔季康。
河東軍の綱紀は完全に崩壊し、軍乱が頻発しました。節度使を李侃[遁走]・康傳圭[乱殺]と交代させましたがどうにもなりません。沙陀討伐などはできるはずもありません。

四月、王鐸為荊南節度使、南面行營招討都統。五月,泰寧軍節度使李系為湖南觀察使,副之。
事態に危機感を感じた宰相王鐸は自ら荊南節度使・都統となり黄巣討伐に赴任しました。実戦は德宗時代之名将李晟の曽孫である系/係です。彼は兵事に通じていると称していました。

当時は高級官僚は文官貴族が占有[科挙である進士科に合格するものの多くは貴族が占有し、任用は独占していました。試験官が文官貴族なのですからどうにでもなります]、高級武官は宦官系と世襲武官[王智興など以前の武将の子孫]からなっていました。実戦能力に富む武将などはほとんどいません。高崇文の孫である駢など少数の例外はいますが。

五月、黃巢陷廣州,執嶺南東道節度使李迢,陷安南。
巢は南下して嶺南を占有し、一時は故郷の天平節度使か、富裕な嶺南節度使に任用されることを考えました。ところが貿易の利を失うことを懼れた宦官勢力が抵抗している間に、高温多湿な廣州で多くの巢軍將士が疾病となり、恐慌をきたして北上を求めました。巢もそれに圧されて再び河南をめざしました。

八月、鎭海節度使高駢は南下して嶺南の黄巣を討つことを求めましたが、唐朝の宰相達は硬軟に分裂しており、王鐸もまた功を求めたため許しませんでした。

閏十月,黃巢陷潭、澧三州。十一月辛酉,黃巢陷江陵。
丁丑,山南東道節度使劉巨容及黃巢戰于荊門,敗之。
巢軍は李係が唐軍主力が屯する潭州を奇襲し、無能な係は遁走し軍は潰滅しました。それを知った鐸も江陵を棄てて逃げ、巢は江陵に入りました。
しかし山東節度使劉巨容・曹全晸はさらに北上する巢を荊門に迎撃し大破しました。巢軍は一時潰滅し、徹底追撃すれば鎮圧は可能と見られていましたが、巨容達は適当に戈を収めて引き上げました。巨容達にすれば賊がいなくなると自分達も冷遇される[狡兎死して走狗煮られる]という気持ちでした。そのため逃亡した巢軍も江南で再編成ができました。

旧唐書では王鐸・劉巨容の件は次年[廣明元年二月から三月]の記事になっています。このような重大事ですら正史は混乱しています。より正しいと思われる新唐書と通鑑に沿っています。
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乾符五年 西暦878年

2020-08-10 10:00:11 | Weblog
乾符五年 西暦878年
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正月丁酉,王仙芝陷江陵外郛。
江陵は陥落寸前でしたが、山東節度使李福が沙陀騎兵を率いて来援して撃破し救出しました。

正月壬寅,曾元裕及王仙芝戰于申州,敗之。元裕為諸道行營招討草賊使,張自勉副之。
仙芝軍数万人を大破したわけですが、その程度はまたすぐ集まります。功績により元裕が主帥となり、宋威は解任されました。

二月癸酉,雲中守捉使李克用殺大同軍防御使段文楚。己卯,克用寇遮虜軍。
北邊大同で軍糧不足により軍乱、文楚が殺されました。李國昌の子克用が首領として祭り上げられたわけです。克用が殺したわけではありません。

二月,曾元裕は王仙芝を大破し殺しました。
まとまった正規軍が攻撃すれば、賊軍は逃げ散るだけです。仙芝は逃げ遅れたのでしょう。賊軍は黄巣軍の元に合流します。

三月,黃巢陥濮州,寇河南。
黄巣軍は勢力を増して河南で荒れ狂います。

三月、黄巢引兵度江,攻陷虔、吉、饒、信等州。
河南に唐朝軍が集結すると、黄巣は一気に南下し、唐朝の財源である淮南・浙江地方を侵掠します。

五月丁酉,鄭畋、盧攜罷。
愚鈍な僖宗を軽侮している宰相達は持論を声高に主張し、帝前でも罵り合います。さすがにたまりかねて畋と携を罷免し、大人しい豆盧瑑と崔沆を補任しました。

五月丁巳,河東軍乱。六月,以前昭義節度使曹翔為河東節度使。
李克用とその父振武節度使國昌は合同して乱し、それを鎮圧すべき河東軍は弱体の上、軍費が枯渇していました。文官の節度使竇澣では抑えきれず、軍人曹翔を補任します。

六月、荊南節度使高駢,徙為鎮海節度使。
名将西川節度高駢を荊南へ、さらに鎭海へ遷し黄巣を追わせます。

八月,黃巢陷杭州。陷越州,執觀察使崔琢。

八月、鎮海軍將張潾克越州。
十二月甲戌,黃巢陷福州。
高駢の正規軍がくれば、黄巣は浙江を棄てて更に福建へ南下します。

十二月庚辰,河東節度使崔季康、昭義節度使李鈞及李克用戰于洪穀,敗績。
河東曹翔は昭義兵を率い、乱兵を鎮圧しましたが、八月頓死しました。麾下の昭義兵は潰乱してしまいました。後任の季康や鈞は沙陀と戦いましたが敗北し、鈞は戦死しました。

◎.この時期、北邊では李國昌・克用が反乱し、河南以南では黄巣が寇掠をつづけています。唐朝は対処できない上に財源が逼迫し、今まで冷遇されていた節度軍の兵士は横暴になり、文官節度使の命令などを受けようとしません。この時期、河北三鎭は沈滞していて唐朝につけいるような動きはありません。また周辺の蕃族もあまり活発ではありません。
 
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乾符三~四年 西暦876~7年

2020-08-09 10:00:31 | Weblog
乾符三年 西暦876年
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三月,平盧軍節度使宋威為指揮諸道招討草賊使,檢校左散騎常侍曾元裕副之。
威は旧弊な将軍です。草賊の対処などできません。

七月鎮海軍節度使裴璩及王郢戰,敗之。

八月、宋威擊王仙芝于沂州城下,大破之,仙芝亡去。
唐朝軍のいつもの「勝った」報告です。正規軍は草賊に負けませんし、賊のほうもまともに戦うつもりはありません。遭遇したら逃げ散るだけです。逃げ遅れた賊を斬って「大破」ということになるのです。

九月丙子,王仙芝陷汝州,十一月,陷郢、復二州。十二月,陷申、光、盧、壽、通?、舒六州。
仙芝等は次々と淮南・河南道の諸州を陥していきます。諸州といっても節度使が置かれている治所の州はありません。攻めやすいところだけを選んでいるわけです。また流賊なので掠奪して、次の州へ流れて行くだけなので占拠はしません。

九月、忠武軍節度使崔安潛為諸道行營都統,李琢諸軍行營招討草賊使,張自勉副之。
草賊討伐が一向に進まないので安潛等が追加されます。

十二月、宰相王鐸の方針で蘄州において王仙芝を慰撫します。仙芝には卑官が授けられ、本人は喜びますが、黄巣などの配下にはなにもありません。巢は憤然として分離し、仙芝も配下の怒りを懼れて戦い続けることになりました。

乾符四年 西暦877年
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二月,王仙芝陷鄂州。
賊の勢力が強くなり、治所[鄂岳都団練観察]まで陥すようになってきました。

閏月,昭義軍亂,逐其節度使高湜。
三月,陝州軍亂,逐其觀察使崔碣。
十月,河中軍亂,逐其節度使劉侔。
各地の節度使で軍乱が起き、文官の節度使は放逐されることが多くなりました。

宰相鄭畋・王鐸[融和]と盧攜[鎮圧]が賊の鎮圧策で争いました。僖宗は当然決断できず、宰相達が怒鳴りあう状況です。

三月,宛句賊黃巢陷鄆、沂二州,天平軍節度使薛崇死之。
ついに賊は節度使を敗死させるほどの力を持ちました。ただし流賊なので占領はしません。

十一月,尚君長降,宋威殺之。
宦官都監楊復光が王仙芝を歸順を説き,仙芝は尚君長等を派遣して交渉させ降ろうとしました。ところが征討使宋威は途中で君長を捕らえて殺しました[融和派と鎮圧派の対立です]。仙芝は違約を怒り南下します。

十二月、王仙芝荊南を攻め外郭を陥しました。文官の節度使楊知温は狼狽するだけです。
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咸通十四年~乾符二年 西暦873~875年

2020-08-08 10:00:02 | Weblog
唐代三悪の皇帝は 中宗[優柔不断]・敬宗[不良少年]・僖宗[魯鈍]
最悪の僖宗は存在感がまったくない宦官傀儡の皇帝です。
唐朝が一応全国政権であったのは廣明元年までです。それ以降の記述は一地方政権になった唐朝関連に限定します[他は別に記述します]。

咸通十四年 西暦873年
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七月,懿宗疾大漸,左右神策護軍中尉劉行深、韓文約立普王為皇太子。辛巳,即皇帝位於柩前。
普王は懿宗の五男、宦官達は傀儡にふさわしい最も低能な子供を選んだのでしょう。

八月乙卯,韋保衡為司徒。九月,貶保衡為賀州刺史。
懿宗の寵臣保衡が失脚しました。十月には殺されます。もう一人の佞臣西川節度使路巖も処分されました。懿宗に追放されていた劉瞻・于琮などが復活してきます。

咸通十五年/乾符元年 西暦874年
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五月刑部尚書劉瞻、宰相。八月辛未,瞻薨。
懿宗を諫めて失脚した劉瞻が復しますが、すぐ亡くなります。同僚の劉鄴の毒殺とウワサされます[保衡等と組んで瞻を陥れたとされます]。

十二月,黨項、回鶻寇天德軍。雲南蠻寇黎、雅二州,河西、河東、山南東道、東川兵伐雲南。
国力がついた雲南蠻[南詔]は活発に西川地域に侵攻してきます。安南で雲南蠻を破った高駢が節度使となりました。

是歲,濮州人王仙芝始聚衆數千,起于長垣。
宣宗没後、腐敗してた宰相の弛緩した治政が続き、収奪のみが横行し、各地で草賊が蜂起しています。黄巣の先駆けとなる仙芝も旗揚げしました。

乾符二年 西暦875年
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四月浙西突陳將王郢反[觀察使趙隱の不正が原因です]。浙江沿岸を荒らしまくりました。

六月,濮州賊王仙芝、尚君長陷曹、濮二州,河南諸鎮兵討之。
蜂起は急速に拡大し、州兵では対抗できません。唐朝領域では、節度使は改革により治所の牙兵のみを管掌し、各州は刺史が分掌していましたが、兵数も少なく、腐敗した官僚[刺史以下]によりまともな待遇も兵備もありません。賊上がりの集団に攻められるだけで簡単に潰滅するのです。

六月、幽州將李茂勳逐其節度使張公素,自稱留後。
茂勳は武宗時代に帰降してきた回鶻の族です。幽州節度は実力主義ですこしでも専横になると逐われます。
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玄宗史をアップしました。

2020-08-07 10:00:31 | Weblog
今までの 高祖~懿宗史をPDF形式でデータをアップロードしました。
これで武德~咸通末までがつながりました。
次は唐末、僖宗関係です。
高祖史
太宗史
高宗史
則天史
中宗睿宗史
玄宗史
肅宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
穆宗敬宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

[唐歴史データ]
全節度使データ一覧(エクセルリンク)
封爵データ一覧(エクセル)3183名分
文官宰相一覧(エクセルリンク)
宰相年表[附使相]
中書舎人年表
給事中年表
太子庶子年表
字[あざな 1846名分]一覧
皇族一覧表[皇帝別]
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玄宗後記

2020-08-06 10:00:47 | Weblog
玄宗後記
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至徳元年十一月甲寅,憲部尚書李麟同中書門下平章事。
他の宰相は肅宗のもとに送り、玄宗用の宰相として麟が用いられました。

至德二載[757年]正月甲子,劍南健兒賈秀等五千人謀反反,伏誅。
七月庚戌,行營健兒李季反,伏誅。庚午,劍南健兒郭千仞反,伏誅。
玄宗が引率してきた親軍と劍南現地軍の待遇の差への不満と、遠隔地の遠征に動員されることによる反乱です。

成都時代の玄宗についてはほとんど情報はありません。肅宗の政治に口出ししたようにも見えません。

五月,誥追冊貴嬪楊氏為皇后。
楊貴妃への想いは続いていたようです。

十月丁巳,皇帝復京師,以聞。
十二月丁未,至自蜀郡,居於興慶宮。
正式の譲位なく自立したわけですので、肅宗にとって玄宗の還りを待つというのは微妙なものでした。そこで咸陽において肅宗が位を返上し、玄宗が辞するという猿芝居が必要になりました。玄宗はバカではありませんので事態を理解して行動しました。
玄宗は興慶宮[南内]に入り、反者の処罰以外の政務には関与しませんでした。

還京以来、側近の高力士、陳玄禮、玉真公主等と教養人らしく遊び暮らしていました。京師の庶民達にも人気はあったようです。

肅宗側近の李輔國は功績があるにも関わらず玄宗の元では軽んぜられていて不満がありました。小心な肅宗も父の存在は煙たく、脅威を感じることもあったようです。

上元元年[760年]七月丁未,正史では輔國は独断で肅宗の病に乗じて兵をもって玄宗を西内に幽閉しました。
実際は肅宗の意向をうけて輔國が汚れ役を引き受けたのでしょう。孝道から言えば許されない暴挙です。高力士等は流され、玄禮は致仕させられました。玄宗は鬱々として元気なくすごしています。

元年[762年]建巳月,崩于神龍殿,年七十八。
玄宗崩御、同月丁卯,肅宗もまた崩御しました。
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天寶十五載/至德元年 その2  西暦756年

2020-08-05 10:00:39 | Weblog
天寶十五載/至德元年 その2  西暦756年
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六月丙戌,哥舒翰及安祿山戰於靈寶西原,敗績。
辛卯蕃將火拔歸仁執哥舒翰叛降于安祿山,遂陷潼關、上洛郡。
兵事を知らない玄宗や楊國忠は、河南が荒らされ山東が危機に瀕しているのを憂慮し、数だけは揃っている潼関の哥舒翰に強制して東都へ進軍させます。訓練のできていない大軍を要塞から出すことは危険だと翰はわかっていましたが、病身で気力がないのと、高仙芝等の誅殺の前例を懼れて、渋渋出撃しました。指揮は政治的将軍王思禮[戦闘で勝ったことがない]が執っています。雑軍が要塞を出れば安禄山軍にかなうはずもなく潰滅します。主将である翰が捕らえられる完敗です。潼関・武関[商州]が陥落し、京師は風前の灯火です。

是日,郭子儀、李光弼及史思明戰於嘉山,敗之。
朔方軍は禄山軍を大破しました。背面軍が敗れ、潼関が堅守していれば安禄山は東都を棄てて幽州に敗走するしかなかったでしょう。

六月甲午,詔親征。京兆尹崔光遠為西京留守、招討處置使。
「親征」と言う名の逃亡です。本来の京兆尹魏方進は玄宗とともに逃亡し、少尹の光遠が損な役回りを押しつけられました。禄山軍の侵攻と京師の民乱に兵力もなく対処しなければなりません。

六月丁酉,次馬嵬,陳玄禮殺楊國忠及御史大夫魏方進、太常卿楊暄。賜貴妃楊氏死。
敗走ですから、なんの準備もできていません。地方官は逃げ散り、宿舎どころか食事にもことかく状況です。日頃は優遇されている親衛兵の不満は爆発し、責任者である国忠・方進等を殺害しました。玄禮が乱を起こしたわけではなく、部下が勝手にやったことです。そして乱兵は玄宗に楊貴妃を処分することを迫りました[楊一族を殺害したのですから、貴妃の反撃を懼れたのです]。玄宗はためらいましたが、最終的には自分の身がかわいいので、高力士に殺させました。そこで兵士達は敗走を続けることに一応同意しました。

そのころ行軍の背後にいた皇太子一行は、土地の父老達に「我々を見捨てていくのか」と遮られ立ち往生していました。無気力になった玄宗は「太子は好きなようにすればよい」と言い捨てて逃亡をつづけました。太子の子達や宦官李輔國は、北へ向かい關内で残存する朔方軍を頼ることを進言し、太子を従わせます。

六月己亥,祿山兵陷京師。
孫孝哲が侵攻してきただけで戦いがあったわけではありません。張通儒を西京留守とし、実務は崔光遠を京兆尹に起用して鎭撫ざせました。

六月辛丑,次陳倉。
従う宰相は無能な韋見素だけという状況で、まったく軍の規律を保つことができません。そこで「成都へ向かい再興を図る。兵達の家族は京師にいるので、帰りたい者は帰って良い」と開き直った布告を
しました。結果的に帰る者はほとんどなく、兵達の覚悟も定まり成都へ向かうことになりました。

丙午,次河池郡。
劍南節度使崔圓[楊國忠の部下]が大量の物資を携えて出迎え。劍南地方は豊かで兵糧も完備していると上奏しました。喜んだ玄宗は圓を宰相に任じました。

七月甲子,次普安郡。憲部侍郎房琯為文部尚書、同中書門下平章事。
冷遇されていた琯は反する事なく追いつきました。揃っていない宰相陣に補任しました。

七月丁卯,皇太子為天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧節度使
永王璘為山東路黔中江西節度使,盛王琦為江東淮南節度使,豐王珙為河西隴右安西北庭節度使。
太子の独自行動を追認し公式権限を与えましたが、実際は自分でどうにかしろということです。
あとの王達は付け足しです。

庚午,次巴西郡。以太守崔渙為門下侍郎同中書門下平章事,韋見素為左相。
庚辰,次蜀郡。
やっと成都にたどりつきます。兵士達も十分な給養を受け再編成されました。

八月癸巳,皇太子即皇帝位於靈武,以聞。
庚子,上皇天帝誥遣韋見素、房琯、崔渙奉皇帝冊于靈武。
皇太子が靈武で自立したことがつたわってきました。貴妃を失いすっかり気力がなくなっていた玄宗は、自立を怒ることなく、太子の即位を追認し、宰相達も太子に合流させました。
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天寶十五載/至德元年 その1  西暦756年

2020-08-04 13:15:37 | Weblog
天寶十五載/至德元年 その1  西暦756年
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正月乙卯,東平郡太守嗣昊王祗以兵討安祿山。丙辰,李隋為河南節度使,以討安祿山。
最初の驚愕が過ぎると、各地で唐朝擁護の兵が起こりますが、雑軍です。

正月壬戌,祿山陷恒山郡,執顏杲卿,陷鄴、廣平、钜鹿、趙、上穀、博陵、文安、魏、信都九郡。
蜂起した杲卿軍をプロの軍隊である禄山軍は簡単に鎮圧していきます。

正月癸亥,朔方軍節度副使李光弼為河東節度副大使,以討祿山。
郭子儀は河東節度の回復に李光弼を送り込みました。

正月甲子,南陽郡太守魯炅為南陽節度使,率嶺南、黔中、山南東道兵屯于葉縣。
禄山軍の南下を苦戦しながら炅は食いとめました。

正月乙丑,安慶緒寇潼關,哥舒翰敗之。
潼関は京師防衛の要塞です。怒濤の如く進軍してきた禄山軍ですが、いままで要塞を攻め落とした経験はありません。唐朝軍は野戦では対抗できませんが、防衛戦では負けません。

二月李光弼克常山郡,郭子儀出井陘會光弼,及安祿山將史思明戰,敗之。
光弼は河東を回復し子儀と合同して河北へ進出しました。

三月,顏真卿克魏郡。史思明寇饒陽、平原。
杲卿は滅びましたが、真卿はがんばっています。

五月丁巳,魯炅及安祿山戰于滍水,敗績,奔於南陽。
炅は苦戦し徐々に撤退しながら、それでも禄山軍の南下を遮っています。

この時、安禄山は危機に瀕していました。幽州から一気に南下して東都を陥したところまでは順調だったのですが、河南平定にとまどり[豊かな地域だったので麾下が掠奪に励みすぎたのでしょう]、哥舒翰により潼関の防衛ラインが形成され京師へは侵攻できません。河東節度は朔方軍に奪回され、河北諸郡では杲卿や真卿の蜂起により鎮圧に駆け回り。山東・淮南への南下は炅に阻止されています。すべての方面で手詰まりでこのままでは幽州へ撤退するしかなく自滅でした。禄山は有能な将でしたのでそれが読めてしまうので狼狽しています。そこへ唐朝が自滅行為にでました。
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天寶十四載  西暦755年

2020-08-03 10:00:57 | Weblog
天寶十四載  西暦755年
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三月壬午,安祿山及契丹戰于潢水,敗之。
反乱の背後を固める為に牽制として侵攻したのでしょう。

安禄山ほどの規模で反乱を起こすのですから、前兆現象は多くあったはずですが、唐朝がまともな対策をとった形跡はありません。楊國忠は無能でやはり平和ボケしていたのでしょう。

十一月,甲子,祿山發所部兵及同羅、奚、契丹、室韋凡十五萬衆,號二十萬,反于范陽。
陷河北諸郡。范陽將何千年殺河東節度使楊光翽[太原尹]。
中央政府に反乱を起こすという大事であるのに、幽州節度では大きな反対はありません。安禄山の権威がいかに高かったことがわかります。相当な人傑です。
河東節度は禄山ですから、光翽[國忠派]は太原尹で一応部下ですから簡単にだませます。ただこの時に河東節度を掌握しなかったのは失敗でした。そして平盧節度も禄山に従いませんでした。

十一月,壬申,伊西節度使封常清為范陽、平盧節度使,以討安祿山。
九原郡太守郭子儀為朔方軍節度,王承業為太原尹,張介然為河南節度採訪使,程千里為上党郡長史。
唐朝は慌てて防御態勢をつくります。

十一月,丁丑,榮王琬為東討元帥,高仙芝副之。
いつものように琬はお飾りで、仙芝が主将です。

十二月丁亥,安祿山陷靈昌[滑州]郡。陷陳留[汴州]郡,執太守郭納,張介然死之。陷滎陽[鄭州]郡,太守崔無詖死之。
幽州・平盧以外の河北内部にはなにひとつ兵備はなく、河北は安禄山軍が南下するとなんの抵抗もなく
従います。簡単に黄河を渡り河南へ侵攻します。河南節度となった介然が赴任して数日、素人同然の徴兵軍が、幽州軍に対抗できるはずもありません。


十二月丙申,封常清於甕子穀,敗績。丁酉,陷東京,死留守李憕。
常清もまともな軍を与えられていないのですから敗戦は当然です。

十二月己亥,恒山郡太守顏杲卿敗何千年,執之,克趙、钜鹿、廣平、清河、河間、景城、樂安、博平、博陵、上谷、文安、信都、魏、鄴十四郡。
さすがに一時の狼狽から立ち直った河北の太守達は唐朝に従おうとします。杲卿が旗頭です。しかし雑軍でしかありませんので、州城に拠るだけです。禄山軍は自由に動けます。

十二月癸卯,封常清、高仙芝伏誅。哥舒翰持節統領處置太子先鋒兵馬副元帥,守潼關。
状況が理解できず狼狽する玄宗・國忠は、宦官達の誣告を真に受けて、実戦経験豊富な常清、仙芝を殺してしまいます。翰は名将ですが病身で自軍を率いていませんでした。

甲辰,郭子儀及安祿山將高秀岩戰于河曲,敗之。
朔方軍を率いた子儀は祿山軍の河東からの侵入を阻止します。

是月,平原郡太守顏真卿、饒陽郡太守盧全誠、司馬李正以兵討安祿山。
「討」と勇ましいですが、「反抗」「蜂起」程度のものです。
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天寶十二~十三載  西暦753~54年

2020-08-02 10:00:12 | Weblog
天寶十二載  西暦753年
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二月癸未,制削李林甫官爵;子孫有官者除名,流嶺南及黔中。
楊國忠が権力を握ると林甫と、突厥阿布思が結託し反乱を企んでいたと誣告し林甫派を排除しました。

五月、隴右節度使哥舒翰[突騎施]擊吐蕃,拔洪濟、大漠門等城,悉收九曲。
翰は吐蕃軍を大破し、隴右河西の大半を制圧しました。

九月甲寅,回紇葛邏祿葉護執阿布思。
回紇に指示して阿布思を降し、安禄山の配下に加えました。これにより禄山軍の騎兵は極めて強力になりました。

是歳、安西節度使封常清擊大勃律,至菩薩勞城。
天寶十年とは違い、唐朝軍は各方面で連勝し国土を拡張しました。隴右河西は哥舒翰。安西は封常清、河東幽州平盧は安禄山、朔方は安思順が統率しています。翰と禄山は極めて仲が悪く、國忠は翰と連携しています。

楊貴妃一族は極盛の状態でした。

天寶十三載  西暦754年
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正月己亥,安祿山入朝。
禄山の地位は玄宗の信任は厚かったのですが、國忠には誣告され極めて不安定でした。辺境で功績を上げても張守珪・信安郡王・王忠嗣のように簡単に没落させられてしまうのを見てきた禄山は危機感を抱きました。しかも陰険かつ有能であった林甫と違い、無能な國忠は露骨に敵意を示してくるのです。

正月壬戌、安祿山兼知閒廄群牧總監事。
禄山は數千匹の騎馬を得ました。

四月癸巳,安祿山奏擊奚破之,虜其王李日越。
背後を固める為の方策です。奚を擊ったのではなく配下に加えたのです。李日越はこの後禄山に仕えています。

六月、侍御史劍南留後李宓將兵七萬擊南詔。潰滅。
國忠は対南詔戦で失敗を重ねていました。もちろん老耄した玄宗はなにもしりません。

八月丙戌,以陳希烈為太子太師,罷政事;韋見素為武部尚書、同平章事。
うなづき役の交代です。林甫の同僚を排除し、配下の穏健な見素に代えます。

閏十一月壬寅,貶河東太守韋陟桂嶺尉,御史中丞吉温澧陽長史。
中央における安禄山支持派が追放され、禄山はどんどん追い込まれて行きました。
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