内容から何からやる気のない4コマで申訳ありません。
このエピソードは駆逐艦「梨」の物語にとってさほど重要でないのですが、
チョイネタとして作成してみました。
本土防衛も激しさを増した昭和二十年、瀬戸内海で日本軍はグラマンを二機撃墜。
それそのものは大きな戦果であったのですが、その後米軍のカタリナ飛行艇が一機飛来、
駆逐艦「梨」大砲の射程距離ぎりぎりに着水し、海中の搭乗員を救出して悠々と去っていきました。
向こうも必死ではあったでしょうが、何しろ鈍重な水艇に内海まで侵入を許したばかりか、
黙って去っていくのを見ているしかなかったというこの出来事は、
当時の我が軍がいかに防衛においてアメリカ軍からなめられていたかということを表わしています。
駆逐艦「梨」。
昭和19年から建造された「松型駆逐艦」に続く「橘型駆逐艦」で、昭和20年3月に就役、
終戦直前の7月28日、山口県光基地沖で回天と合同訓練中、米軍の攻撃を受けて沈没しました。
松型というのが、フネ不足の海軍が取りあえず数だけは何とか調達するために
わずか5カ月で作りあげた戦時量産型の駆逐艦でありました。
この型は松、竹、梅に始まり、
(松型)桃、桑、桐、杉、槇、樅、樫、榧、楢、櫻、柳、椿、桧、楓、欅、
(橘型)橘、堵、樺、蔦、萩、菫、楠、初櫻、楡、梨、椎、榎、雄竹、初梅
の(全部読めました?)32隻が就役にこぎつけました。
重複する木は「雄竹」「初櫻」にするなど、ネーミングに苦労の跡が偲ばれます。
本日の主人公「梨」。
決して果物ではなく「梨の木」という意味の命名ですが、
何となく軍艦にしては迫力を欠くと思われませんでしたか?
木の名前をシリーズにし、「雑木林」と呼ばれていた松型ですが、
これ以外にも建造中止になったり、全く未成のまま終戦を迎えた40ほどの船になると、
だんだん植物のサイズが小さくなり、
「薄」(ススキ)「野菊」
などという、健気に咲く野の花にまでなってしまっていました。
まだ命名されていなかった4143、なんていう仮の名前を持つフネが、
「薔薇」「撫子」「チューリップ」になるのも時間の問題だったでしょう。(たぶん)
もしかしたら、松型駆逐艦の名前を付ける担当の部署は、
この点に関してだけは戦争が終わってほっとしていたかもしれません。
さて、先日、「雪風は死なず」という項において「好運艦雪風」に対して「不運艦」を挙げました。
そのときにこのフネを挙げても良かったと思うほど、「梨」もまた不運でした。
「梨」は第11水雷戦隊所属で、そののち第一遊撃部隊に編入されています。
この部隊は、大和出撃のとき沖縄に突入することになった部隊です。
しかし、「梨」はじめ「雑木林」は、ことごとくこの作戦から外されてしまったそうです。
訓練もろくにできていない「雑木林」では役に立たないと判断をされたのは明白です。
もし天一号作戦に参加していたとしたら「梨」の命運は確実に沖縄で尽きていたでしょうから、
この瞬間は「好運」と言えたのかもしれません。
しかし、「梨」の不運はここからでした。
訓練といっても燃料不足のため、まともな戦闘訓練などできないまま(水泳訓練などをしていた)
「梨」は運命の7月28日を迎えます。
これは、冒頭漫画に描いた、「カタリナ飛行艇目の前で着水」の屈辱からわずか3日後。
国内で、米軍の攻撃により沈められたフネは多々ありますが、「梨」が不運だったのは、
この時攻撃したのが爆撃機ではなく、グラマンF6F戦闘機であったことです。
「梨」は戦闘機に沈没させられた珍しいフネ、という不名誉な記録を担うことになったのでした。
さて。
「梨」の運命はここで終焉を迎えたわけですが、この話にはまだまだ続きがあります。
戦後、スクラップを取るつもりで引き揚げたところ、なんと、「梨」は、ほぼ使用に耐える形のまま
海底にあったことが判明し、日本はこれを護衛艦として再利用することにしました。
しかし、平常であれば引き継がれる旧艦名は使用されませんでした。
なぜだかわかりますね?
「なし」
漢字なら問題のないこの艦名が、あら不思議、ひらがなにすることでネガティブで不吉な二文字に。
そこで「梨」には「わかば」という(一応木シリーズ)新しい名前が与えられました。
護衛艦「わかば」DE-261は、旧軍に存在した戦闘艦艇で、
戦後自衛隊で使用された、これも唯一のフネとなったのです。
しかし、「わかば」としての第二の人生は、必ずしも輝かしいものではなかったようです。
まず、もし時間があればこのような国会審議に目を通していただきたいのですが、
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0106/02801130106003a.html
この国会で、「梨」が一度民間の会社に払い下げられていたのを、国が買い戻した経緯を、
野党が批判する、という出来事がありました。
再デビューにもケチがついたというわけです。
デビューにこぎつけた後も、半年も潮水に浸かっていた「梨」は機関部に凄まじい異音が絶えず、
また、同型艦がないため、運用にはなかなか苦労が絶えなかったといわれています。
また、乗員の多くを「わかば」は旧「梨」乗り組みから採用しました。
沈没の記憶のなせる業か、「わかば」では、しばしば「略帽を被った旧軍乗員を目撃した」
というような幽霊騒ぎが起こったそうです。
「梨」はその沈没時に60名以上の戦死者を出しています。
国会で追求されてまで「梨」のレストアと運用が推し進められたのは、
戦後の海上自衛隊が旧軍を受け継ぐものであるという意志表明の下に、
旧軍艦をその表明のあかしとして持っていたかったのではないか、という説があるそうです。
「わかば」がすでに解体され、その高角砲と魚雷発射管を術科学校内に残すのみ、
ということになってしまった今になっては、本当のところを知る者はもういないのかもしれません。
「大和です」
という漫画を描いたとき、こんなお便りを戴きました。
「大和一隻で戦ったわけではないですから・・・」
「大和」でなかったらこの海自の人達は、どうしたのだろうか?と思ってしまう」
確かに、もしあの話が
「お爺様は何に乗っておられたのだ」
「梨です」
であったら、
「なし?」
「はあ、モモ、クリ、ナシの梨です」
「あったっけなあー、そんなフネも」
(一同)「ほー」
などという展開になり、盛り上がらないことおびただしい。
しかし、「梨」に乗って亡くなった60名の命も、「大和」戦死者となんら変わりない命です。
「大和の物語」がいつまでも人の心をつかんで離さないように、人々が戦争を語るとき、
そこに悲壮な、或いは勇壮な物語を求めるのは世の常かもしれません。
しかし、何に乗って、どんな戦い方をしたとしても、
英霊の死にざまに上下を付けることだけはあってはならないことでしょう。