ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカでカメラを買った

2012-08-16 | アメリカ

 

gooブログをやっておられる方はご存知かもしれませんが、アクセスランキングを見ると、時々
ブログタイトルの前に「Advance」あるいは「Photo」のどちらかのアイコンがついています。
どちらも有料でブログをしているという印です。

ブログを始めるとき「ブログ内に広告が無い方がいい」と考えて有料コースを選択したのですが、
写真のアップが増えてきたころ、
「もしかしたらこのPHOTOというのに申し込めば、写真のアップのときにまとめてアップできるのでは」
と考え、こちらにも申し込んでみました。
結果として、まとめてアップというのはなぜか全くできるようにならなかったのですがorz
面倒なのでそのままphotoブログのままなのです。



わりと最近、自分のランキングの前後にどんなブログがあるかを見ることができるようになり、
ときどき開いてみるのですが、このphotoをアイコンにしているブログはあまりありません。

ほとんどのブログが無料コース、ときどきアドバンスがあり、自分以外にPhotoは無し、
というのが普通なのです。

つまり、こういうコースに申し込むのは、写真を趣味でやっているとか、セミプロとか、
どちらにしても10年前に買った二万円のデジカメ(しかも液晶画面に傷入り)を使っているような
ユーザーではないと言うことは確かです。



誰がシャッターを押しても100%きれいに撮れるというカメラはこの世に存在しないとはいえ、
誰がシャッターを押しても普通に撮れるカメラがこの10年で市場に一杯出てきたのですから、
そろそろ新しいカメラに変えるべきかな、と思っていたら液晶に傷発見。
画像に問題は無いものの、そろそろ変えどきかもしれません。
でも、一眼レフなんかだと大きくていつも持ち歩けない。
いいコンパクトデジカメは無いかしら。

そう考えてアメリカでカメラを物色していたのですが、ここスタンフォードのショッピングセンターに、
SONYがあるのを、来てすぐに発見しました。



ふらっと入ってみたら、デジタルカメラのコーナーに、
小さいけれどいかにもなオーラを漂わせた、硬派な黒のカメラが。



これです。
新聞記者などの報道関係者の御用達、というのがうたい文句のこのカメラ、
店頭で触っているとお店のお姉さんが説明しに来てくれました。

今のカメラを見せながら
「今のカメラ買い変えたいんだけど。ここに傷ができてしまったので・・・」というと、
「これでしたら、ここにあるどれを選んでいただいても、今のよりいいと思いますが」
「そうでしょうねー」

取りあえずここにあるデジカメの中で一番高額であったこのカメラ。
たいそうなカメラは要らないけど、簡単にそこそこの写真が撮れて(というか失敗のあまりない)
しかも手にしっくりと収まるサイズ、ということで条件は満たしています。

そして、レンズに「カール・ツァイス」を使用、という決め文句が。
カール・ツァイスが誰だか今の今まで全く知らなかったにもかかわらず、
権威に弱いエリス中尉、「ドイツ製ならきっといいに違いない」
と考え、購入に決心が傾き始めました。

「部屋に帰って、日本のサイトをもう一回チェックしてからきます」

少なくとも正価は円高のおかげでこちらで買うと二割は安い。
一晩考えてすっかり買う気になったエリス中尉、再びソニーのお店へ。
昨日のお姉さんがどこにもいないので、代わりに声をかけてきた髭の店員に
「これを買うつもりで来たのですが」というと、

「今在庫を切らしています」
「うーん、それは、もしかしたらこの商品が人気があると言うこと?」
「そうです」

ますます選択は正しかったのではないかという気がしてくるではありませんか。

「eメールで入荷をお知らせしましょうか」
「ぜひお願いします。どれくらいかかりますか?」
「一週間か、それくらいでしょうかね~」

というわけで、毎日メールをチェックしていたのですが、お報せは待てど暮らせど来ません。

そんなある日、日本からToが遅まきながら休暇を取ってやってきました。
空港に迎えに行くと、出てきたのはスーツにパソコンバッグだけ持った身軽なビジネスマン。

「ちょっと・・・・、着替えは?」
「持ってこなかった」
「え、シャツとか靴下とか」
「一枚も無い。こっちで買うつもり」

なんでも、ぎりぎりまで仕事をしていて、パッキングどころではなかったので手ぶらできてしまった、
というのです。

「じゃ、スタンフォードショッピングセンターのGAPかなんかで皆揃える?」
「うん。記念にもなるしね」
「・・・・・・・・」(東京オリンピックのTシャツ買わせてやろうっと)

(使用後)

ということで、カメラを見に行ったあのモールに直行。
そこでふとわたしは「もしかしたら、カメラが入荷しているかも」と思ったわけです。

日本なら全くありえないことでも、ここアメリカなら
「入荷はしたが、店員がeメールを忘れていた、あるいは面倒なのでしていない」
などということは普通に起こり得る、アクシデント以前の日常茶飯事。

GAPの前にSONYに行ってみました。

「二週間くらい前、このカメラが入荷したらメールをくれるようにお願いしていたのですが」
「これですか。ございます」
「ございますですか?毎日メールを待っていたのに・・・(少しイヤミ)」
(軽く)「それはすみませんでした」

その話を、帰ってからそのときいなかった息子にすると、たった一言

「Welcome to America!」

 


というわけで、カメラの写真を旧カメラで撮ってみました。
SONYだからおそらく日本語の表示があるかと思っていたのですが、英、仏、独、西のみ。
しかし、面倒くさい説明書を読まずとも、なんなく疑問を解決する「?」マークのボタンなどもあり、
なかなか使いやすく出来ています。

今日一日パチパチやっていたら、かなり使い方もわかってきました。

最初の何枚かの写真は今度のカメラで撮ったものですが、かなり前のよりはいいですよね。
(当社比)

 

ためしに、今座っているところから同じ角度で撮り分けてみました。
左が旧カメラ、右が新カメラ。
なんの調整もせず、オートマチックモードで撮ったものです。
やっぱり歴然としてますね。


ところで。

購入するとき、店員さんは「メモリーカードもお買いになりますか?」と聞いてくれたのですが、
「今のカメラのがあるので・・・・」
というとTOが

「規格が違うかもしれないから買っといたら?」
「今のカメラのメモリーカードを見てもらえばいいじゃない」

旧カメラからメモリーカードを取りだして、
「このメモリーカード、使えますか?」
と言うと

「大丈夫です」

そう彼女が言ったので、買わずに帰ったのです。
しかしそれは彼女が全くいい加減な返事をしただけであったことが帰宅後すぐわかりました。

もしかしたらメモリーカードの規格って、この10年以内に変わりました?
なんだか前のよりサイズが大きいんですけど。
「ちょ・・・メモリーカードが小さい」
「お店の人『これでいい』って言ってたのにねえ」

次の朝、CVSにメモリーカードを買いに行ったら、ロックされたフックに掛けられていました。
万引き防止のためです。
レジまで行って、お店の人に「メモリーカードが欲しいので外してもらえますか」といったら、
しばらくごそごそやっていたのですが、そのうちはさみを持ってやってきて

「鍵がみつからなかったの。どれ?」

指さしたメモリーパックのパッケージをチョキンと切ってフックから外し、

「はい」


帰ってその話をしていたら、横で聴いていた息子、たった一言、

「Welcome to America!」



ところで、今日いつものコースにカメラを持っていき、リスなどを激写していると、
やはり立ち止まってはカメラをパチパチやっているおじさんが。
少し簡単な挨拶をして歩いていると、後ろから追いかけてきて、自分のカメラを見せます。

一緒のカメラだ!

「買ったばかり?」
「そうです」
「いやー、このカメラ、人気あるんだね」
「ソニーショップで品切れしていて、3日前にやっと買ったんです」
「僕も最近買ったけど、いいよね、このカメラ」
「わたしはなんかわからないけど『カール・ツァイス』だから買ってみたんです」
「ああ、『ザイス』ね」

「・・・・・」
(ハウイッツァー事件を思い出すエリス中尉)

おじいさん、いたずらっぽく笑って、
「でも、そう言う名前が付いているだけで実はメイド・イン・チャイナかもしれんぞ」

・・・・・そんな・・・おじいさん・・・夢のない。
そんなものなのかもしれないけど。

「いい写真が取れるように祈っているよ」
「そちらこそ!」

そうお互いに言いあって、また別々に歩きだしたのでした。


 

本日の項は、買ったカメラのステマではないので、製品名は控えます。
カメラの写真とパッケージが写ってしまっているので、あまり意味は無いかもしれませんが。




短剣を吊りて来ませよ

2012-08-15 | 海軍


久しぶりにお兄さまに会える!
「富貴子さんの素敵なネイビーのお兄様」といって
クラスメートの間でファンクラブまでできている自慢の兄。
あ、出てきたわ。でも何だか変だわ。
なんだかスタイルが間が抜けているというか・・・・・アッ!
「兄さん、短剣は?」
「おう、富貴子・・・え?短剣・・・・・

忘れてきたああ」

これは実は実話です。

海軍軍人の誇りの象徴をうっかりどこかに忘れてくるこのお兄様は特殊な例としても、
一般人ですらそれが無いと「何か違和感」」を感じるほど、
短剣は士官姿に画竜点睛となるアイテムでした。



象徴としての刀だからこそ、官給の仕様に甘んじることなくオリジナルをしつらえる士官がいた、
という話をかつてしましたが、それは元々受け継がれる名刀があるような家の出身である場合です。

兵学校71期卒で第四〇五飛行隊付、第八次「多」号作戦で戦死した江尻慎大尉は、
兵学校時代、家伝の名刀「辻村兼若」を軍刀に仕立てることについて、
家との手紙のやり取りでかなり詳しくこのようなことを語っています。
この場合は、短刀でなく軍刀の話のようです。

軍刀に関してお考え違いしないでください。
儀式刀は別として、指揮刀と軍刀は同じもので、
軍刀兼指揮刀であれば、儀式刀のほかは一本でいいのです。
ですから、兼若を儀式刀にし、助広を軍刀とすれば他には必要ありません。
さらに最近は刀剣の不足により、教官方も軍刀を以て
儀式刀に代用する方が多いので、軍刀一本でも結構です。
指揮刀を特に購入する必要はありませんのでよろしくお願いします。

軍刀外装は陸軍とは違います。
つまり、陸軍の鞘は茶色のようですが、海軍はだいたい黒か紫紺なのです。
また、柄だけ軍刀式に改装し、鞘は昔のままの上に
黒皮をかぶせただけのもあるようです。

なので、海軍軍刀の取り扱いに慣れた刀剣商に相談すれば、
適当にやってくれるものと思われます。
それらしき刀剣商が分からなければ、水交社に依頼すればいいということです。
なお、服装、拳銃、眼鏡などは一切ご心配ご無用です。

長い引用ですが、陸軍軍刀や当時の金属不足にも触れており、
興味を持たれる方のために
その部分を全部掲載しました。

江尻家は旧家であったので、このようなちゃんとした刀が家に伝わっていたようです。
一口に海軍軍人、兵学校生徒といってもその出自は様々ですから、
うっかり置いてきてしまったり、錆びさせてしまう者がいる一方、
「武士出身」士官もいたのです。


同じ軍服でも、ヨーロッパの一流仕立屋に特別注文していた陸軍の西竹一少佐や、
三越に軍服を仕立てさせていた軍人もいたようなもので、
何にでも「こだわる人はこだわる」ということです。
「こち亀」の中川巡査も、制服はピエール・エロダンデザインの特別誂えでしたし(笑)


ネイビーや白の軍服に短剣。

その姿が当時の女性、お嬢さんのみならず粋筋のお姐さん方のハートを鷲づかみにしたという話は、
くどいくらい語ってきました。


孝は短剣を外すと仏壇の前に正座し、両手を合わせて挨拶をした。
まだ小学生の光子は短剣が珍しい。
「あら、これが有名な短剣なの。ピカピカして、本当に切れるのかしら」
「なあに、切れはせんよ。鉛筆を削ったり、果物の皮をむく程度よ」
孝は短剣の刃で自分の頬をこすってみせた。
「ああ、恐ろしか・・・・」
光子は目を丸くして兄を眺めていた。

(「蒼空の器」豊田穣著より)



鴛渕孝大尉の妹光子さんが、豊田氏のインタビューで語った内容であると思われます。
兄弟が兵学校生徒となった女性、たとえ小学生にとってもそれは興味の的だったようです。


さて、冒頭画像の歌の文句は「軍隊小唄」海軍バージョン。
これは、当時の軍歌にありがちなパターンで、似たような歌詞で陸海空の替え歌をもつもの。
「女は乗せない」の後が、「戦車隊」になっているものもよく聞きますね。
これが、今見ると、「あるある」の宝庫なので、少し寄り道ですがこの歌詞を挙げます。


1、いやじゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹の箸
  ほとけさまでもあるまいに 一膳飯とは情けなや

2、腰の軍刀にすがりつき つれてゆきゃんせどこまでも
  連れてゆくのはやすけれど 女は乗せない戦闘機

3、女乗せない戦闘機 みどりの黒髪断ち切って
  男姿に身をやつし ついていきますどこまでも

4、七つボタンを脱ぎ捨てて 粋なマフラー特攻服
  飛行機枕に見る夢は 可愛いスーちゃんの泣きぼくろ

5 大佐中佐少佐は老いぼれで といって大尉にゃ妻があり
  若い少尉さんにゃ金が無い 女泣かせの中尉殿


特に5番の「我が意を得たり感」は半端ないですね。(個人的に)



2番の「男姿に身をやつし」ですが、アメリカでは身をやつさなくても、

女性が、それも愛する夫の操縦する戦闘機に乗った例があります。
アメリカのP-38戦闘機乗り、いわゆるトップガンであったリチャード・ボングは、
美人の愛妻
マージ・バッテンダール・ボングを後席に乗せて出撃しました。
マージは

「死ぬのも全然こわくなかったわ。夫と一緒でなければ乗らなかったと思うけど」


などと、感想を述べています。

「連れてゆきゃんせどこまでも」と頼んだのがマージだったのかは本には書いていません。


ところで、たかが唄の歌詞につっこむのも何ですが、艦のコンパスを狂わす長刀がNGだったように、
一般に戦闘機乗りは、計器が狂うので刀を機内に持って乗ることはありませんでした。
しかし、陸軍の特攻では長刀を携えて機上に上がるシーンが多数残されていますし、
海軍特攻でも梓特攻の銀河隊の隊長が長刀を持って最後の写真を撮っていたりします。

あくまでも「通常の戦闘に向かうときは」ということで、特攻に向かうときは
あえて軍刀を携えていったのかもしれません。


とはい平常の戦闘では、自決用というなら、海軍はむしろ拳銃を装備していたようですから、
「腰の短刀にすがりついてお願い」しても、二重の意味で無理だったわけですね。


最後にある歌を紹介しましょう。

 短剣を 吊りて来ませよ

     海のごと 深き夜空に 迎え火を焚く


平成の世になってから詠われた詠み人知らずの一首だそうです。


毎年心をこめて焚く迎え火のひとは、彼女の兄か弟か、婚約者であったのか、
あるいは夫でしょうか。


そのひとは、南洋か、沖縄の、夜空の色と同じ紺碧の海に散ったのでしょうか。


戦後数十年が経ち、かつての乙女が今や銀髪の老婆となっても、

彼女の瞼にその日現れるその海軍士官は、
いつも若々しい頬に微笑みを湛えているのでしょう。


そして、純白の第二種軍装の男の腰には、
かつて憧憬の的だった海軍短刀が凛凛しくも佩されて、

そのうつくしくもせつない記憶が老いた彼女の瞳ををまた濡らすのかもしれません。











グルメ客船氷川丸(再掲)

2012-08-14 | つれづれなるままに

2011年の8月に掲載した記事です。
再掲載して皆さまにご覧いただきたくなるコメントを、氷川丸のシェフの子孫の方から頂きました。
そのコメントからご紹介します。

亡祖父は日本郵船氷川丸(ほか客船やタンカー)の和食料理長でした。
おそらく遠く外国の血も混ざっている為私達知っている祖父はサンタクロースのような風 貌で
(横浜から家族は祖母の実家のある四国に疎開しその後鎌倉に移住)
海亀の剥製が飾られた家に遊びに行くと美味しいロイヤルミルクティーを淹れてくれ
自分用の甘いお菓子を分けてくれて母達と台所に立っていました。

長男の父(ちなみに次男の叔父はマリンタワーに勤めました。)や
母から祖父の船乗り時代の話 を聞きますが最期は我が家で過ごしたので
本人からもっとたくさん話を聞いておきたかったと思います。
我が家は今日お盆の迎え火、祖父が呼んだのだと思いま す。

ありがとうございました。


sohogirlさん、こちらこそありがとうございます。
なにか、絵本の中の一シーンのような想い出ですね。

ウミガメの飾られた部屋。
サンタクロースのようなお爺様の指先から、魔法のように生まれる美味しいものの数々。
それらを、目を輝かせて見つめる幼い日のsohogirlさん・・・・・・・。



豪華客船として就航した氷川丸。
腕利きのフランス人コックを年俸1万5千円もの高級で雇い入れ、
さらに横浜には料理人養成所を設け司厨員勉強をさせたくらい、
氷川丸は料理に力を入れていました。
洋上の生活、何が楽しみと言って食事です。
それも、舌の肥えた世界の賓客を飽きさせないだけの工夫が求められるのですから。

「遠洋航海路線に乗っていたコック」といえば、
それだけでその実力を認められたのも無理はありません。

そして、氷川丸の食事は「こんな美味しいものは生まれて初めて食べた」
とロックフェラーをして感嘆せしめたほどの絶品でした。
そういう評判を聞いて外国人客は他の船をキャンセルして氷川丸の客になったということです。

冒頭写真は、三笠宮様に御乗艦賜ったときのディナーテーブルを再現してある、現在の展示。
この前に立つと・・・
カトラリーの触れあう音、そして幽かに人々が囁きつつ食事をするような音声が
何処からともなく聴こえてきます。
これは「そういう気がしてきた」のかと思いきや、スピーカーで効果音を流していたのでした。

それでは、本日のメニュウで御座います。

もしかしたらこのメニュウに興味をお持ちの方がおられるかもしれないので、以下日本語版を。

【オードブル】
シュリンプカクテル 塩漬けタンのサンドウィッチ トマトのコロニークラブ風 お肉の詰め物 
アンチョビペースト チャウチャウ

【スープ】
コンソメスープ か チキンクリームスープ

【魚】
スプリングサーモンのワレスカ風

【アントレ】
去勢鳥のカフェドパリ風 か 胸腺肉のトゥールーズ風 か
 白鳥のバター焼き青トウモロコシぞえ

【日本料理
】しじみ汁 柳川なべ

【ロースト】
羊のロースト 野鴨のロースト オニオンのクリーム和え ポテト スティームドライス

【コールドブッフェ】
乳飲み仔牛肉の冷製仕立て ボイルドハム

【サラダ】
きゅうりとレタス

【スィート】
ロイヤルスフレプディング アプリコット添え 
フルーツ入りペンシルバニア風ウェハース ケーキ

【チーズ】

【デザート】
ドライジンジャ―などドライフルーツ ナッツ ビスケット 洋ナシ バナナ 

【コーヒー】


ふう・・・・。
書いているだけでお腹いっぱいになってしまいました。
それにしても間に入ってくる柳川なべも謎ですが、
「白鳥のバター焼き」と「チャウチャウ」がさらに謎・・・。
白鳥って食べられるんですか?美味しいんですか?
チャウチャウは・・・まさか犬のことではないと思いますが。

(あ!mizukiさんのコメントって、これに対する突っ込みだったのか。
『チャウチャウは、青いトマトなどの野菜のピクルスです^^』
mizukiさん、ありがとうございました。今謎が《コメントの謎も》解けました)

さて、この氷川丸は日本の伝統料理を外国人に伝えるという立派な使命を十二分に果たしました。
時おりちゃぶ台を出して正座で食べる「スキヤキパーティ」はアメリカ人に人気がありました。
後に坂本九の「上を向いて歩こう」がなぜか「スキヤキ」というタイトルでヒットしたのも、
もしかしたら辿っていけば氷川丸のスキヤキに行きつくのかもしれませんね。

そして、テンプラ。
チャップリンを乗せたという話を前回しましたが、チャップリンを乗船させるのには船会社の間で
ちょっとした競争があったと言われています。
世界の喜劇王が乗った船、ともなるとそれだけで大変な宣伝になるからです。

チャップリンに乗ってもらうために氷川丸はこんな口説き文句を使いました。

「氷川丸では揚げたてのテンプラをお出ししますよ」

日本滞在中、チャップリンは初めててんぷらを食べ、その美味しさにいたく感動。
なんと一人でエビのてんぷらを数十匹分も食べたということです。
この一言で一も二もなく、喜劇王は氷川丸の乗船を決めたのだそうです。

さて、氷川丸にはこんなオリジナルがあるのですよ。
皆さんはドライカレー、お好きですか?

氷川丸のコックさんが、ある日カレー味をつけたひき肉とご飯を混ぜ合わせた
「ドライカレー」なるものを発明しました。
ウェットに対するドライ、このネーミングもなかなかのセンスです。
氷川丸発祥のドライカレー、このようにお土産で売られています。
さっそく買い求め、その日いただいてみました。

いかがでしょうか?

でも、食べてから思ったのですが、これ、ごはんと混ぜ合わせなくては
ドライカレー、って言いませんよね。
普通のウェットカレーとして食べてしまいました。



ところで、乗船見学中とっても不思議なことがありました。

機械室を抜けたところに、昔厨房だった区画があるのですが、そこを歩いていると
明らかに食べ物の有機的な匂いが何処からともなくしてきたのです。
料理をしなくなって何十年にもなるのに、その区画には昔の調理の際に壁や床に浸みついた煙や油の匂いがまだ残っているように思えました。
鼻が効く方、ぜひ氷川丸を見学されることがあったらそこで立ち止まってみてください。

かつてここで調理された豪華なお料理の匂いの片鱗がまだ残っているかもしれませんよ。




映画「野戦軍楽隊」

2012-08-13 | 陸軍

「乙女のゐる基地」
という映画について書いたことがあります。
この映画に出演した、と言って出撃していった二人の特攻隊員のことは、
知覧の特攻平和基地で購入した鳥浜トメさんの娘さんの手記で知りました。

さっそく映画を観たくなったのですが、この超マイナーな、しかも戦中の作品が借りられるわけもなく、
購入できるサイトを探しまくった挙句、見つかったのがなぜか台湾のDVD取扱店。
日本と台湾はリージョンコードも同じなので、日本映画ならどこの販売でもいいだろうと
購入したのですが、これが微妙に失敗でした。

このDVDは三本セットで売られており、「乙女のゐる基地」「ハワイ・マレー沖海戦」、そして、
今日お話しする「野戦軍楽隊」が入っていました。

いずれも戦中の作品なので、画質、音声共に最悪です。
おまけに台詞の言いまわしが甚だ理解しにくく、何を言っているのかわからない部分が多いのは
仕方がないこととしても、この台湾バージョン、DVD化にあたって中国語の字幕がつけられていて、
その間違いが気になってしまうのです。

例えば「乙女のゐる基地」で、主人公の婚約者の妹だか姉だかが、
「有閑婦人みたいに思われるでしょ」
みたいなことを言うのですが、この「有閑マダム」は当時の流行り言葉みたいなもので、
中国語の翻訳者がこれを知らず、「勇敢夫人」と字幕が出ていたのには笑ってしまいました。
勇敢では全く意味が通らないので、台湾の人々は皆「?」になったことでしょう。

この映画にも、当然ながらこのような字幕間違いが多々あります。
勿論わたしは中国語は少し勉強したことがあるくらいなのですが、そこは漢字ですから。
この映画の主人公、上原謙演じる菅上等兵は、「すが」と発音するのですが、タイトルロールに
「菅」と書いてあるにもかかわらず、字幕では「須磨」が最後まで連発されます。
細かいところは気づかないだけでもっといろいろあるのでしょうが、何と言っても映画の、
いちばん最初の字幕が、これ。

 

・・今、これを読んだ人たち全ての
「ちがうっ!」
という総突っ込みが聞えてきました。
いきなりやめてどうする。射撃を。

でも、いちいちこういうことに拘わっていたらきりがないので話を先に進めます。

映画は、軍楽士官である園田少尉が、(絵では中尉になっていますが、これは中国語字幕に
そう書いてあったための間違い)中国にある部隊に隊長として赴任してくるところから始まります。
戦争映画によくあるパターンで「Go For Broke!」(日系部隊)や、零戦黒雲一家、
最近のものではイラク戦争の爆破処理を描いた「ハート・ロッカー」もそのパターンですね。

ここで結成された21名の軍楽隊を一人前にするためです。
この21名が、どういう経緯で軍楽隊員になったのかは語られないのですが、
何しろ驚いたことに21名中12名が楽器の経験が全く無い素人です。

残りの11名にしたところで、ちゃんと音大をでた菅上等兵以外は、
三味線弾きだったり、趣味でハーモニカを吹いていただけだったり。
「経験がある」というのは「会社のブラスバンドに入っていた」という程度だったりします。

こんな素人集団に、三か月後に演奏会をさせろ、と大佐は無茶を言います。
笑ってしまったのが

「三ヶ月は無理か」

「はあ」
「でも、大丈夫だ」

って、何を根拠にこれが大丈夫なことになってしまうのか、全くわからんのですが、とにかく、
無茶を可能にするのが軍楽隊であるということだと理解しました。

何しろ半数が素人なのですから、園田少尉は「対番制度」でマンツーマン練習を採用。
経験者と未経験者を「夫婦」としてペアを組ませ、

「貴様らは夫婦だ。音楽は貴様らの子供だと思え」

と怪しげなハッパをかけます。
夫婦にされてしまったカップルは早速猛練習に励みます。

 トランペット。

三味線の師匠であった眼鏡の新井上等兵。大阪弁でいい味出してます。

トロンボーン。

音どころか、持ち方からやっているんですが・・・。
この「試看看」は、「ちょっと試してみろ」ですかね。

 ハーモニカ。

ハーモニカすら吹けない者が軍楽隊で管楽器を吹けるのか?



ヘアカットしながら歌唱指導。
三味線のチントンシャンを、ドレミになおして歌うテスト。

 楽典の指導も行われます。

知っている歌(雪の進軍)を音階で歌う練習をしている・・・・のはいいのですが、
この指導、教える方もかなり怪しくて、明らかに二か所音名を間違っております。
映画スタッフも誰ひとり気づかなかったようです。


それにしても、こんなレベルで人前で演奏になるのか?
人ごとながら心配になってきたぞ。



そしてこの二人です。
右、菅上等兵(上原謙)。音大卒。左、佐久間上等兵(佐野周二)、経験無し。
二人はクラリネットを割り当てられます。
しかしながら、佐久間はなぜか菅を毛嫌いし、まともに教わろうとしません。



この「音だし練習」のときも、園田隊長が見周りに来て、「ちゃんと聴け」と言われると
菅の吹くのを聴くふりをしますが、行ってしまうとすぐさま、またそっぽを向く。



字幕は「おれによくよく教えさせろ」みたいな感じですかね。
普通の人間ならとっくにキレて園田隊長に言いつけたりするのでしょうが、菅は根気よく
佐久間を説得します。
っていうか、この映画、どうして佐久間が菅を嫌うのか、全く説明がありません。
「虫が好かない」
程度で、ここまで反発するという意味がわからないまま、映画はどんどん進行します(笑)

しかもその反抗というのが

「なあ、やろうよ」

「やだ!やだやだやだやだ!」

・・・・・子供かあんたらは。

二人の確執は続き、ついにある日、佐久間が手に持った楽器を
菅に思わず振りおろそうとするに至ります。



菅は思わずその手を押さえつけ、異常接近する二人。

「楽器は・・・・兵器なんだぞ!」

見つめ合う二人。
二人の間に何かが生まれた一瞬でした。(本当か?)

菅上等兵、さすがです。
しかし、いくら音大を出ていても、専攻が声楽の菅上等兵にはクラリネットは吹けないのでは?
と根本的なところで突っ込んでしまうわけですが・・・。

そんなある日、大阪弁の新井上等兵が中国人のお手伝いのあかちゃんを抱いてあやしていると、
(軍のそこここになぜか中国人従業員多数。日本軍に虐殺されずにすんだんですねー(棒))
そこにいきなり園田隊長登場。
やっとやる気を出して練習を始めた佐久間のクラリネットを取り上げ、子守唄の一節を奏でると、
あら不思議、今まで泣きやまなかった赤ちゃんが、ぴたりと静かになるではありませんか。

「どうだ、佐久間。泣きやんだな。
いいもんだろ? 
これだよ。
強いばかりが日本軍人じゃないぞ。

これだよ。
これが、音楽の力だ」


と決め台詞の園田少尉。
・・・ええまあ、ごもっともですが、赤ちゃんが泣きやんだくらいでこんなに得意になられても。

このストーリーは、一般公募された「入選作品」なのだそうですが、この程度なら、
小学校2年のとき、クリスマス会の出し物のためにエリス中尉が書いた人形劇、
「森のなかまのクリスマス」(担任が絶賛して母親に報告)や、
エリス中尉の息子が10歳のときに書いたハードボイルド小説、
「20年前の犯罪」(担任が絶賛して母親に報告)の方が、
まだひねりが効いているのではないか、という気がしました。
(感想は個人差があります)

それはともかく、園田少尉のパフォーマンス効果はてきめん。
すっかりやる気になった佐久間、こんどはいきなり菅に「教えてくれよ!」と激しくアプローチ。

「今までのこと、怒ってるのか?なんなら殴れ!」
「よし!」

言うが早いか、佐久間を柔道で投げ飛ばす菅。
やっぱり怒ってたのか・・・。



「本当にやるんだな?」「ああ、やる!」

見つめ合う二人の心に、アツい何かが生まれた瞬間でした。(もうええって)

 

そして、いよいよというか、いきなり練習の成果を発揮する演奏会の日がやってきました。
曲目はご存じ「愛国行進曲」

見よ東海の空開けて~♪

音大声楽科卒の菅上等兵、女性歌手と共にこの曲を独唱しています。
この人、こうして離れてみたときには確かに世紀の美男という貫録ですね。

美男と言えば、この映画の主人公三人、当時人気のいわゆる美男俳優で固めているのですが、
不思議なことにスクリーンの上ではあまりそれが実感されません。

映像技術や照明が悪く、それがために皆映りがかなり悪いせいだと思います。
佐野周二などは、やたらごつごつした輪郭だけが強調されて、まるでジャガイモのようですし、
上原謙もあの独特の鼻が目をひき、老けて見えます。
三人の中で、佐分利信だけは、それらしく映っています。
佐分利信、貫録のあるボスみたいな役でしか知らなかったのですが、二枚目役だったんですね。



進軍中に出会った、川に橋を架ける設営隊は、元大工だった佐久間の原隊です。
偶然この部隊のために演奏することになった軍楽隊。
園田隊長は、佐久間に花をもたせるために特にソロ演奏を命じます。
誇らしさに顔を輝かせ、クラリネットを見事に演奏する佐久間。
頑張っていれば報われる。そうだよね!



しかし、進軍する彼らは次第に激戦に巻き込まれます。
全身に偽装の葉っぱを付け、みの虫のようになって演奏する軍楽隊。
弾丸雨飛もものともせず演奏を続け、最後の一音が終わるなり隊長は

「伏せ―っ!」

軍楽隊は武器を持ちませんから、彼らはただただ身を伏せて攻撃をやり過ごすのみ。
ここで実に不思議な演出があります。



偽装の葉っぱを付け、やはり伏せたままの中国人歌手(槇芙佐子。美人)
がなぜか軍楽隊と一緒にいて、砲弾が降り注ぐ中、中国語で滔々と
「日本と中国がどうしたこうした」みたいなことを演説しだすのです。
ところが、ここに付けられている日本語字幕がかすれていて全く解読不可能。

どうやら日本軍は中国人を敵にしたくてここにいるのではなく、
我々の共通の敵は、大東亜を侵略しようとする大国である、と言っているのではないかと、
中国語字幕から解釈してみました。

この戦闘後、軍楽隊のメンバーの誰が死んだとか傷ついたとかのストーリーは全く語られぬまま、
菅上等兵が中国人の子供に歌を教えている最初のシーンをリフレインし、映画は終了。
最後は「陸軍分裂行進曲」風のテーマが流れます。


ところで、軍楽隊が演奏する「愛国行進曲」。
この歌詞に付けられた翻訳がいちいち突っ込見どころ満載なので、一行ずつ並べてみました。


見よ東海の空明けて  
      (不管風雨有多大)

旭日(きょくじつ)高く輝けば      (只要雨過天晴的話)

天地の正気潑溂(せいきはつらつ)と (戦争的男児最英勇)

希望は踊る大八洲(おおやしま)   (勇敢殺敵当先鋒)

おお晴朗の朝雲に         (為了偉大的大日本帝国)

聳(そび)ゆる富士の姿こそ      (団結一致 不畏艱難)

金甌(きんおう)無欠揺るぎなき    (敬愛的天皇)

わが日本の誇りなれ        (我メン赦忠ニン)


最後のメンは我々、という意味のにんべんに門、ニンは敬称のあなた、という意味です。

というか、日本語の内容と中国語って、全く別のものじゃないですか?
もしかしたらこれは当時日本でもあった台湾でのみ歌われていた「愛国行進曲」の歌詞?
と思って、うろ覚えの発音で歌ってみたら、ぴったりと歌えてしまった・・・・・・。

「♪ぷーくぁんふぉんゆーよーたーたー♪ちーやおゆーかーてんちんだほわ~」(←いいかげん)


実のところそうなのか、いい加減な翻訳なのかはわかりませんが、
こうして見ると、日本の軍歌が自然賛美の中に精神性を求めている美しい詩であるのに対し、
中国語のそれはまるで共産党賛歌や北の将軍様を讃える歌みたいで、センスありませんね。

ヘンなところで実感してしまったのだけど、やっぱりこういうところに現れる日本人の精神性って、
世界に誇っても良い洗練されたものと言えませんでしょうか。



そうそう、全く忘れていましたが、この映画、李香蘭こと山口淑子が、
これを最後に李香蘭をやめて日本に帰った、というものだそうです。
しかしその割には、ちょいと出てきて顔を隠しながら一曲歌って走って逃げて終わり。

あまりにブリっこしているので、てっきりデビュー作かと思ってしまいました。(笑)







シリコンバレーを歩く

2012-08-12 | アメリカ

ボストンで州立公園を歩いていたように、朝はできるだけ外を散歩することを心がけています。
旅行に行ったときも、街の探求を兼ねて朝一人で起き出し、歩いてみたり。

モントレーではアシカの群れが泳いでいるのを見ながら、
ナイアガラでは瀑布を眺める道に沿って、
パリでは朝市のおじさん達に訝られながら、(フランス人はウォーキングなんてしないらしい)
フロリダでは大西洋から昇る朝日に照らされてどこまでも続く砂浜の海岸を、
セント・トーマスではイグアナの群れを追い払いながら・・・・。

ここスタンフォードに一カ月滞在することになり、勿論ここでも歩いています。
それが写真の「スタンフォード・ディッシュ・トレイル」。

息子をキャンプに送っていく途中の道に、なだらかな丘陵の連なる一帯があり、
ゲートを入っていく「ブリスク・ウォーク」(アメリカのウォーキングの言い方)スタイルの人々がいました。
ここはいわゆる「トレイル」(歩くために開発された公園)に違いない!と、
息子を降ろしてすぐ行ってみました。
近くの道は駐車可なので、みなそこに車を停めて歩くのです。


 

自然の地をトレイル部分だけ舗装し、「それ以外のところには立ち入らないように」
この道を辿っていくと、一時間くらいで一周して同じ所に帰ってきます。



いちばん高い部分にはこのようなレーダーが二基。
これ、いつできたんだろう・・・。
まさか、日本と戦争してたとき?

ところで、ここは野性の生物がたくさんいます。
カリフォルニアのなかでもベイエリアは野性動物の保護区だからです。
だからといって、人が立ち入れないようにするのではなく、あくまでも控えめに、
彼らの領域に「おじゃまする」という感覚で自然を楽しむわけです。
ここも、道路こそ舗装していますが、自然をできるだけ弄らないように、柵も必要最小限。
日本にはありえない「放任主義」です。


毎日カメラを持って歩き、画像がたまったので、一気に放出。

リス。

最初にここに足を踏み入れた瞬間リス発見。
「うわああああ!かわいいかわいいかわいいー!」
と興奮して写真を撮りまくったのですが、通り過ぎる人は全く無関心。

それもそのはず、この一帯はこのリスの群生地になっていて、
少し歩けば踏んでしまうほどたくさんいるのですから(じっとしていればだけど)
ここの住民にとっては珍しくもなんともないの。
わたしも何日目かにはカメラすら取りださなくなりました。



ボストンのリスも日本のリスもシマリスですが、ここのはこういう斑点なんですよ。
ブツブツ模様のリスなんか見たことが無かったのでかなり驚きました。
調べてみると、この辺特有の種で、

「カリフォルニアジリス(California ground squirrel)」

だそうです。

ジリスってのは、ジ・リス、つまり地リスです。THE ・RISU、ではありません。
因みに「リス」の英語は日本で全く普及していないため、読むのに皆苦労するようですが、
「すくうぉえお」
をこのまま読んだものの発音に近いです。

グラウンド・スクウォエオだけのことはあって、こやつらのお家は地面に掘った穴。



家から顔を出していたので撮ろうとしたらひっこんでしまいました。
もう一回顔を出すのを待っていたのですが、出てきてくれませんでした。
もしかしたら、別に出入り口があるのかもしれません。



仲良しリス。
このあたりは夜猛烈に寒いですから、穴の中でくっつきあって眠るのでしょう。


 

まゆげリス発見。



ところで、リスの天敵もここには数多くいる模様。



立て札には「マウンテンライオン、コヨーテがいます」
「出会ったら大きな声を出すか地面に伏せてじっとしていてください」
死んだふりってことかな。

え?

コヨーテって、横たわってる、つまり死んだものを食べるんじゃなかったっけ。
それはハイエナか。
とにかく
「襲われても絶対に戦わないように!」(Fight back!)
戦いませんよ。お願いされても。



閲覧注意。

って、見てしまってから書かれても。
ヘビ嫌いなのに見ちまったどうしてくれる!という方、すみませんでした。

おそらくリスの天敵なんだろうなあ。
向かいから歩いてきた女性が、
「気をつけてね、ヘビがいるから」
と教えてくれました。非常に目だつ模様なので、教えられずともわかったでしょう。

わたしはヘビ、顔が可愛いので決して嫌いではないのですが、
シュルシュルと道を横切る姿は、何とも背中がぞくぞくする気持ち悪さがありました。

因みにこれは

「カリフォルニア・キング・スネーク(califoenia king sneak)」




閲覧注意。

出してから書くな!おまけに死んでるじゃないか、という方、すみませんです。
これは、コーチウィップ・スネークという種類のようだけど、これも、キング・スネークも、
ペットショップで売っていたりするんですって。

世の中には「ヘビ好き」というニッチな趣味を持つ方々も当然おられるのですが、
あるサイトで
「気性が荒く噛みつかれるので、初心者や猫可愛いがりしたい人には向いていないかも」
って書いてあって、思わずウケてしまいました。

猫可愛がり・・・・。

コースは、いきなりハードな上り坂から始まり、アップダウンが結構あって、トレーニングには最適。



閲覧注意。

って、出してから書くな!
見たくもないもの見ちゃったじゃないか、と思った方、すみません。
この上半身裸のおじさんは、常連さんで、歩くだけで息が切れてしまうほどのこの坂を、
毎日のように駆けあがって走っています。
なのに、なぜ体が一向にそんな感じになっていないのか、不思議です。
もしかしたら、たまたま先週から走り始めただけなんでしょうか。

ここは朝から日差しが強烈で、わたしなど陽のあたっている部分がひりひりするので、
いつも長袖長パンツのトレーニングウェアで歩くのですが、アメリカ人は平気なのか、
女性でもランニングに短パンは普通です。
しかしこのおじさんのように上半身裸、というのはさすがに珍しいのと、
写真では分かりにくいですが、おじさんは背中にもじゅうたんのように毛が生えていて、
それにひどく感銘を受けたので、ついシャッターを切ってしまいました。



お母さん軍団。
写真が小さくて分かりにくいですが、皆ベビー・バギーを押しています。
普通に歩くだけで息が切れてしまうほどの斜面を、バギーカーを押して歩くとは。
おまけに、このうち一人のお母さんは背中に赤ちゃんをおぶっていました。

「いざとなると世界で一番タフなのがアメリカの女」と誰かが書いていたのを思い出しました。



歩いていたら
「きっ」「きっ」
と鋭い音が聞こえてきました。
何だろうと音源を捜すと・・・・・、



このリス。
口を開けているのがおわかりでしょうか。
このジリスは、時々こうやって警告音を発するようです。
何かを仲間に伝えているらしい。

人間がしょっちゅう横を通るので、すっかり慣れっこになっているらしく、
よっぽど接近したり追いかけたりしない限り、横を歩いているだけなら平然としています。
大きいものは両手に余るくらい巨大化しています。

 

それにしても、リスの可愛さって、このしぐさですよねー。
いちいち目を奪われながら歩いていると、一時間なんてあっという間です。



散歩コースから見えているこの塔は、フーバー・タワー。
フーバーとはスタンフォード卒だったFBI初代長官ジョン・エドガー・フーバー。
フーバーダムでも有名です。

去年の暮、フーバーがルーズベルト大統領のことを「狂気の男」と評していたというニュースが、
今さらのように出てきていたのをご存知でしたか?

「ルーズベルトは対ドイツ参戦の口実として日本を対米戦争に追い込む陰謀を図ったのだ。
真珠湾攻撃はそのための口実だった。
在米日本資産の凍結など、41年7月の経済制裁は、対独戦に参戦するため、
日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」

と、マッカーサーとの対談で語ったということです。

一般的には「黒い長官」と言われ、その手段を問わないやり口のため毀誉褒貶の激しい人物ですが、
この話を聞いてから、わたしはすっかりフーバーのファン?になってしまいました。
ディカプリオの「J.エドガー」も今度観てみようっと。

と、散歩とは何の関係も無い話題でした。

さらにどんどんと歩くうち、あれ、耳の大きなリスがいるぞ?と思ったら、



これは野兎でしょう。(多分)
ボストンにもいた、「手のひらサイズのウサギ」です。

さらに、土の中から顔を出しているリスがいる!と思ったら、

 

なんと、モグラでした。
そういえば、モグラなんて生で見たの初めてかもしれない。
モグラくん、いかにもまぶしそうに目をしょぼしょぼさせて、
穴から潜望鏡のように顔をめぐらせ、鼻をひくひくさせていました。



ところで、リスたちは時々、何もせずにじーっと太陽の方向を向いていることがあります。







なんだか哲学的思索でもしているかのような神妙な顔つきです。




シリコン・バレーには自然公園が他にもたくさんあるそうなので、
ここも滞在中に訪れて、今度は鳥の写真でも撮ってこようと思います。
実は、

カメラを買ったんですよ。

うふふ。
勿論今日の写真は、いつもの奴(10年前に二万円で買ったサイバーショット)ですが。
これで、ボケボケの写真を心ならずもお目にかけることにならずにすむ・・・・

・・・と信じたい。







きけ、わだつみの声~軍隊内学歴ヒエラルキー

2012-08-11 | 映画

R・アッテンボロー監督の「素晴らしき戦争」をご覧になったことがおありでしょうか。
舞台の上でレビューの歌手が
「今私たちが欲しいのは兵隊さんよ!兵隊さんとならいいことしてあげる!
私たちのために立ちあがって!戦争に行くのよ!」
と色気たっぷりに(死語?)客席に呼びかけ、不純な動機で立ちあがった青年たちがそのまま
契約書にサイン、その日から戦争へ。

戦争ミュージカルならではの場面ですが、ここで入営を決意する青年たちは、決して貧困層でも
労働階級でもなく、プチブルの、学生がほとんどでした。

第一次大戦の開戦は、当初ヨーロッパでは熱狂的に歓迎され、貴族はノブレス・オブリージュ
からすすんで、そして一般市民、なかでも学生たちは続々と志願して戦場に赴きました。
第二次大戦下における我が日本のように、負けてきたからしかたなく引っ張り出された学徒とは、
彼らの自覚の点からして全く違っていたのです。

しかし、心ならずも戦場に赴いた学徒たちが、必ずしも軍や国の言う「大義」「聖戦」という言葉を
信奉していなかったか、と言われると、今日「わだつみの声」に見える声がすべてではないと
言うところから話をしなくてはなりません。


わだつみの声は、戦没学生たちの手記を編纂したものです。
しかしながらこの本には当初から大幅な遺書からの削除、追加つまり捏造された部分が、
遺族との間に訴訟問題まで引き起こしています。
戦後一貫して「反体制、反天皇、そして反靖国」の旗印を揚げてきた「わだつみ会」ですが、
つまりはいつの間にか「遺族」ではなく「そういった思想活動」の温床になっていたというわけです。

手記を改竄された遺族たちは別に「わだつみ遺族の会」を立ち上げたようですが、
なにやらこのあたりのきな臭い話は、また別の日に。

もうお分かりでしょうが、この映画においても、当時の学生たちが学問の世界から追われた、
ということや、モンテーニュの思想から死を理解しようとする様は描かれますが、
当時の男子がその教育と社会的規範からごく自然に持っていた「天皇観」や「護国思想」
そういったものは、徹底的に無視されます。

そして、この映画で無視されたこの部分こそが、つまり「きけ、わだつみの声」の遺書から
意図的に削除された部分でもあるのです。

初版の「きけ、わだつみの声」には、立花隆のいう上記のような「左側からの歴史の改ざん」
のほか、「東大出身の兵士だから特別に戦死を惜しむということか」という究極の学歴差別
に対する批判があります。

簡単に言うと、「東大生の命は、無学の輩の命より大事なのか」といった反発なのですが、
もともとこれを世に送る側の意図として「ノブレス・オブリージュとしての学徒の犠牲」を、
広く一般大衆に知らしめたいということがあったわけです。
しかし、この「ノブレス・オブリージュ」という言葉が学徒出兵にあてはまるかという前提は、
少なくとも「高貴でない側」即ち庶民の側から認めてもらわなくては成立しません。

その点、日本のように、立身出世の自由が誰にでも与えられている社会において、
高学歴であることイコール「高貴」であるとは、今も昔も誰も信じない前提でありましょう。

そして彼らが決して「高貴な義務を持つ者」ではなかった、ということの証左と思われるのが、
この高学歴兵士たちの間には、彼らの中での「厳格な学歴差別」があったという現実です。


この映画「きけ、わだつみの声」にも、どこの学校出身かが、非常に細かく提示され、また、
その学校の持つイメージが出演人物の特徴ともなっています。

まず、三高(京都大学)出身の青地
東大の牧(見習い士官)と違い、まだ軍曹。階級にして二階級差がついています。
牧は、予備士官学校で将校教育を受け、今の見習い期間が終われば、予備士官というところ。
青地はなぜか、この甲種幹部学生ではなく、乙種(原隊で訓練を受け、軍曹になる)であった
という設定です。
これは、青地が出来が悪かったということではなく、彼の「やる気の無さ」「体制反発」を
このような形で表現しているということができます。

皆を診察し、誰を置き去りにするか決める野々村軍医は慶應大学出身
歩くことができない早稲田出身の秋山二等兵
「野球場のスタンドでもしかしたら会ってるな」などと言います。

左翼活動で投獄させられた東大の元活動家、河西
彼はなんと、鶏泥棒の罪にかこつけて陸士卒の中尉に背後から射殺されてしまいます。

「こんな強烈な色彩ばかり見ていると、セザンヌの柔らかいあの色が懐かしくなる。
日本の山が、川が・・・」
とつぶやく室田一等兵は美術学校生
幹部候補生試験には「絵ばかり書いていて落ちました」と軍医に説明します。

木村見習士官は動けなくなって隊におきざりにされることになったとき、
「出陣学徒としてもとより生還は期していませんでした。
たとえ聖戦の半ばに、ここで斃れるとも、魂魄留まって戦場の山野を駆け巡ります。
どうぞご安心ください」
そして、絶望する他の皆に戦陣訓を朗してみせます。

ジャングルに手りゅう弾とともに残された病兵たちは一人ずつ爆死していきますが、
この師範学校の学生は、いざとなると手りゅう弾を投げ捨ててしまいます。
死にきれずに呻く木村に
「チョッ、とんだ戦陣訓だ」と呟いて自分の手りゅう弾を投げつけ殺してやる早稲田の秋山

「われわれは絞るような死を経験するんだ」
皆においていかれたときこのように呟く彼は、早稲田らしく、最後まで批判精神に富む人間に、
そしてこの師範学校の学生が今一つ「さえない」人間に描かれている点にご注目ください。
真面目に幹部試験を受けてそれに合格し、青地や秋山のようにあからさまな反発を持たず
軍に入ったらしいこの学生は、この隊の学徒の中でも愚直なイメージを負わされています。

師範学校では官費で勉強することができたため、貧困層の学業優秀な子弟が進む傾向にあり、
少なくとも慶応や早稲田の学生とは違う家庭環境の学生が多くいたこともあるでしょうが、
かれらを「亜インテリ」と揶揄し、下に見る傾向は当時色濃く在ったとされます。

ナベツネ、渡邊恒雄は「軍隊時代、俺が殴られたのは東大だったからだ」と言いきっています。
「一番殴ったのは早稲田だ」

なんと、学徒の中でこんな「平時の仕返し」が行われていたという証言ではないですか。
インテリたちの間でも厳然としたヒエラルキーが戦場に持ちこまれ、
その、より下のものが、この「疑似デモクラティック」のカオスの中で、
千載一遇のチャンスとばかり日頃の怨嗟を噴出させていたということです。
このようなうっぷん晴らしに汲々としているのは、無学な庶民だけではなかったのです。

この映画で美しく助け合っているように見える学徒兵たち。
しかしこの設定が現実なら、実際は東大の見習士官は内心、幹部試験に落ちた京大生を蔑み、
早稲田は愚直な師範学校出を嘲り、師範学校ですら「絵を描いているだけで学徒か」と
美大生を下に見ていた可能性だってあるわけです。
そして、階級は下の京大生に向かって「軍人勅諭をその帝大の優秀な頭脳で唱えてみろよ」
と苛めていたかもしれません。

学徒たちの美しく悲しい戦死を描きながら、微妙に差別的な描写について、
何か手掛かりは無いかともう一度観直してみたところ、


後援 日本戦没者学生記念会 と並んで、

東京大学消費生活協同組合
映画サークル東大支部
全日本学生自治会総連合


というなかなかに香ばしい名前が・・・・・・。

なるほどなあ。



こういうバックグラウンドを見せられてしまうと、学問途中で無念の死を遂げた学生たちの死を、
本当に悼むつもりでやっているのか?とつい疑いの眼差しで映画を観てしまうので、
タイトルに続いてこの字幕を出したのは、戦略としては失敗だったと思います。

せっかく、それ自体は戦争の悲惨をこれでもかと訴える、いい映画なのに。






「わだつみの声」~高学歴兵士の戦場

2012-08-10 | 映画

丸山眞男が軍隊社会内におけるヒエラルキーの崩壊と逆転について、
これを一言で喝破した有名な言葉があります。

(軍隊の中では)
疑似デモクラティック的なものが社会的な階級差から来る不満の麻酔剤になっていた。


この映画「わだつみの声」は、同タイトルの戦没学生の手記から戦後わずか4年で制作されました。
東大の仏文科助教授で、末期的兵士不足のための員数合わせで徴兵されたに違いない、
大木助教授
二等兵なので、戦地で学徒動員された見習士官の教え子より下級です。



映画「ああひめゆりの塔」でも先生役をしていた新欣三が演じています。
この画像は「ひめゆり」のもの。


例えば、大木先生の最後のフランス語の講義のシーンに時間を割いていることから分かるように、
この映画は「学問の徒が心ならずも巻き込まれた狂気の戦争」を描くことに重心を置いています。
ですから、登場人物はその「出身校」を一つの重要なアイデンティティとして背負っています。

東大助教授、大木二等兵。
東大仏文学生、牧見習士官。
三高出身、青地軍曹。
慶応出身、軍医。
早稲田出身。
美術大学出身。
師範学校出身。
そして陸軍士官学校卒の陸軍士官たち。

それぞれに、今まで過ごしてきた場所がかれらに与えたものが透けて見える仕掛けがあります。
その不思議なくらいの描きわけの裏にあるものについては、また稿を別にするとして、
今日お話したいのは、彼ら、つまり世間では平和時であれば、
日本の階級社会の上方に確かな位置を占めることのできた高学歴な人々が、
軍隊という「平等社会」に放り込まれたとき、そこで起こった「いじめ」についてです。

士農工商の身分廃止後、公的には四民平等の世の中で、次にいつの間にか形成されたのが
「学歴」という身分制度でした。
日本の帝国大学が、成績さえ優秀なら如何なる身分のものをも受け入れる、という体制を
布いたとき、ある意味それは「立身出世の平等」がわが国には誕生していたともいえます。

厳格な階級制度がその一生の彼我を決定し、また本人たちも互いを
全く別の世界と認識していたイギリスのような国とは違う「平等な社会」です。


彼我の差異を認識し別世界のこととして諦めるというところに、嫉妬は生まれようもありません。
しかしながら、何らかの方法で手の届くところにありながら、自分の持ち得なかったものを、
手にすることができた者に対して、嫉妬は生まれてくるものなのです。

「東大出てるくせに」
「東大出ているけど馬鹿な人間はいくらでもいる」

現代でも、できの悪い東大出身者に向けられるこのような嘲りの中には、

「学歴なんて、何の意味もない。おれは東大なんか出ていないが・・・」

という断定となり、その一部の東大出身者の不祥事から、ひいては東大そのものの価値を
認めまいとすることで、実はその絶対的価値に自身が屈していたということを
こう口にすることによって暴露してしまう結果となっているのです。

人の世で、ヒエラルキーを形成する要因は、学歴に限りません。
人間の集合体があれば、必ずそこには何らかの序列があるのが自然の摂理ですが、
序列が下のものが上に嫉妬する、という構図もまた絶対の真理であると思います。

(お断りしておきますが、社会単位で物事を語っています)


我が国の陸軍は、平等であったと言われます。
ネット上ですが、なぜか峻烈に海軍の無能さを糾弾し、「海軍がバカだから戦争に負けた」
という証拠としてあらゆる資料を綿密にあげたブログがあり、興味深く読んだのですが、
海軍の「学徒は最初から上官扱い」と陸軍の「平等」を比して、
「これが海軍のバカな理由」としていたのには是非異議を唱えたいと思いました。

軍隊を機能だけで考えると、それもまた一理あるのでしょうが、結果、それは本日テーマの
「凄まじい初年兵苛め」「学徒、インテリ苛め」となってあらわれたからです。

ここで話が前後するようですが、今の大学生と当時の大学生の社会的地位の相違を、
もう少しおさらいしておきましょう。

帝国大学に正式に進学することができる旧制高校の学生は、真のエリートであり、
本人の自覚もその選ばれた一握りのエリートであることの上に成り立っていました。
中には、この特権階級に胡坐を描いた、鼻持ちならない若者もいたでしょうが、
ともかくもこの一握りの人間が、庶民の怨嗟の的、といってもいいくらいだったのです。

その怨嗟の的が、自分より下の位に降りてきて、生殺与奪は自分の手に委ねられる。
娑婆の学生に与えられた特権へのルサンチマンとも言うべき反発を持ちつつも、
今までは手に届かぬ所にいたために「別の世界のこと」として諦めていた「復讐」の喜びに
無学な古残兵たちが舌舐めずりするのも当然のことだったのです。

この映画でも、わざわざ東大助教授の二等兵大木先生に、「犬になれ」と命じ、わんわんと
吠えながらニワトリを口でくわえさせて運ばせるシーン、
そして隊長の馬を殺して食べたことを、部下を救うために名乗り出た三高の青地軍曹に
「お前の学校では泥棒のやり方を教えているのか!」
と殴打し、「牛を食わせてやる」と長靴のつま先を口にくわえさせるシーンに、それが描かれています。

ただ、この映画において、批判の対象になっている点でもあるのですが、
ここで学徒を苛めるのはお約束の古残兵ではなく、陸士卒の若い中尉と大隊長です。

「大学では何を教えておったんだ」
「フランス文学です」
「適性文学だな。フランス文学といえば偉いのは誰だ。シェークスピアか」
「・・はあ」
「あれはたいしたもんじゃないぞ」

このいかにも無教養そうな隊長も、「学徒兵が、つまり教育のある人間が憎くて仕方がない」陸軍中尉も、
この映画においては下級のルサンチマンを持つ者として描かれています。

しかし(勿論どんな高等教育を受けても教養の無い人間はいるでしょうが)いくらなんでも
これは国家のエリート軍人養成機関である陸士の出身者の台詞には思えません。

また、婚約者からの
「今日行ったコンサートで、あなた様と一緒に聴いた曲が演奏され、悲しくなってしまいました」
という手紙を読みつつその音色を頭に浮かべる牧見習士官に、隊長は、
「なんだ?女か。そういえばあそこのあれはいい女だったのう。ケツがでかくて・・・ふひひひ」
と卑猥なからかいを投げかける。

徹頭徹尾、無教養で品性の劣った「庶民」として描かれているこの映画の二人の軍人は、
最後には隊を置いて自分たちだけ逃走を図る、というところまで貶められています。

これは、戦後、まぎれもなく「被害者であった」この映画製作者の「軍」「国」に対する
「逆のルサンチマン」によって、意図的に陸軍士官の実態が歪められているといった感を
持ちます。

この映画は「美しい学問の楽園」を追われ、そこに存在する魑魅魍魎のような「庶民」のなかで
「疑似デモクラティック」の洗礼を受ける学徒(この場合は学究の徒)達の憂鬱が描かれています。

陸軍の古残兵、ことに上等兵が学徒を苛めるというパターンは、周知のものとして
映画を始めあらゆる媒体でおなじみです。
超大作左翼映画の「戦争と人間」でも、左翼活動に走った東大生という設定らしき青年、
山本圭が、農民出身の上等兵に特に酷く殴られていました。

疑似デモクラティック(とはいえこれもまた秩序崩壊後の新たな階級社会と言えるのですが)
の中で新たな下級となった高学歴兵士たちの「兵隊としてのつかえなさ」を、
小学校しか出ていない古残兵たちは、むしろ大歓迎したのです。

「上等兵どの、自分はどうすればよろしいのでありますか」
「そんなこと、俺あ知るかい!」
上等兵は太い咽喉を一層ふくらせていた。
「大学へ行ってな先生におしえてもろてくるんやな」
彼は声をひくめていやな響きの声で言った。(略)
「俺のような小学校出にはわからんとよお」
彼はこのような表現に一生懸命力を入れていた。
彼の平らな皮膚の厚い顔は、また嬉々として喜びに満ちてくる。
(『真空地帯』 野間宏)


この映画のラストシーンは、戦いが終わり、死屍累々の戦場、自らの骸から立ち上がり、
いずこかへと向かう死者の魂が描かれています。
一般に言われていた古残兵の苛めは描かれず、職業軍人が悪役に回ったことで、
このシーンにこれまで出演していた部隊の面々が、
学徒たちと同じように仲良くどこかに――それは間違いなく「祖国」でありましょうが―
向かっていることに違和感を持たずにすむという仕組みです。
(このあたりが、わたしがこの映画を欺瞞的だと感じる部分です)

敵弾に共に斃れながら、モンテーニュを口ずさみ、それを聴きながら死んでいく学究の徒二人。
彼らが帰って行くのは、互いを尊敬しあい、真理を追求する学問の城、
かつて自分たちが身を置いた、懐かしい象牙の塔であるに違いありません。


いずれにせよ、戦争の大罪の一つは、社会秩序の崩壊を産むことです。
平時であれば起こらない下剋上が、庶民たちのサディズムを掻き立て、その結果
怨嗟を一手に負わなくてはいけなかった高学歴兵士たち。

誇り高い彼らにとって、それは死することよりあるいは苦痛に満ちたことだったかもしれません。





ロンドン五輪のミステリー

2012-08-09 | 日本のこと

二日続けてオリンピックの話題です。

「イヤな気分になることは極力目にしない」

これが座右の銘でもあるエリス中尉、イヤなものを見る、イヤな話を聞く可能性のあるところには、
どんなに好奇心がそれをそそのかしても、頑として立ち寄ることはしません。

しかし、日本に生まれ自分をはぐくんできたこの国と自らの父祖に対し愛情を持つがゆえに、
またこの国の行方を憂うものの一人として、今の日本がどのような状況におかれているのか、
それを知り、(戦えるものなら)戦うためには、情報から目をそらすわけにいかないのも現実。

従ってインターネットで情報を得るわけですが、これにはなかなか辛いものがあります。
インターネットに流れる政治経済国際ネタなど、ほぼ毎日血管キレそうに腹立たしいニュースが満載。
わたし一人が一切耳目をふさいだところで、世の中の動向に何の変わりがあるじゃなし、
全ての不愉快なことに無関心でいればさぞかし気分良く毎日を過ごせるのに、なぜかそれができない。

心和む動物の動画や面白い話題で精神を中和する一方、せめて自分のブログだけは
ネガティブな気持ちを人に与えるものにはすまいと考えております。

従って、根拠なく感情的な人の誹謗などもってのほか、何かを批判するときも、
それによって何かが相対的に救われる、と判断した話題を取り上げているつもりです。




それはさておき。

今インターネットでわたしが最も不快に感じているのが、ロンドンオリンピックの開会式において、
日本代表が全員行進がすんだ後、誘導されて会場の外に出されてしまったという話題です。

何かと運営の拙さが話題になり、遂には当事者のイギリスも「これはまずいのでは」
と慌てだした、というニュースを見ましたが、これは事の次第によっては「まずい」などという
レベルでは済まない問題を孕んでいるように思われました。

単なる運営のミスではない、という説がネットで流れ出すと同時に、このような噂がツイッターで
流されたからです。

野田首相が出発前に選手たちにお守りとして福島の瓦礫製のバッジを贈った。
選手団はヒースロー空港を通過したが、 これをIOCが問題視した。
開会式の入場で英BBCらはこの事実を生放送していた。
NHKは急遽その場で無言で放送。
300人の日本選手は一周した後に誘導されて会場外へ出されてしまった。
JOCはこの事実を認めず「選手らが間違って外へ」と説明している

勿論これは何の根拠もない「個人的感想」であることは、最後の行の
「選手が間違えた」と運営が言っていることがありえないことを考えれば明白です。

この件について、時系列で生まれた「なぜ日本選手団は外に出たか」については
わたしの知る限り以下の通り。

  • 運営の手違い
  • 開会式を切り上げて調整のため早く退場させてくれと日本選手団が申し入れていた
  • BBCが日本選手入場のときがれき製のバッジに触れ、
    それに反応した「何らかの筋」が日本を追い出した


この件について、耐えがたき精神的苦痛に耐え、ネットサーフィンを繰り返し、
わたしはこれに対するネットの意見を拾ってみました。

するとびっくり、「放射能説」はあることを糊塗するための工作であるという意見が出てきたのです。

開会式場から日本選手団が追い出されたのは、ロンドン五輪のスポンサーである
サムスンが日本を貶めるために仕組んだことである。

放射能を帯びているメダルを持っていたことが絶好の口実として使われた


確かに、ヒースロー空港で日本からの選手は勿論一般客も、むしろ他国の客より優先的に
フリーパス状態で入国できたという事実を考えると、「がれきのバッジ」=放射能=退場
という図式は全く矛盾しています。


昨日「メダルと日本」について書いたわけですが、この記事の趣旨は

「金を取れというなら金を出せ」

ということに尽きるかと思います。
せめて国が他の先進国の半分の強化費用を出していたら、
もっといい成績を残せる競技はたくさんあったと思われるからです。

日本人がオリンピックで活躍することなどどうでもいい、とどうやら国が考えているらしいことは、
つまり「政府は日本人嫌い」の表れではないかなどとつい勘ぐらずにいられないのですが、
この日本と全く対極の姿勢にある国として昨日韓国の話題を挙げました。

ワールドカップ、バンクーバー五輪に韓国の、というよりサムスンの資金が流れ込んでいたのは、
もはや誰もが認める不自然な結果となり、それが証拠にもなって残っているわけですが、
「今最も世界に国力を認めてもらうことを渇望している」らしいこの国の最大企業が、
ロンドン五輪で、自国の優秀性?を証明するために資金をつぎ込んできていることは、
ここアメリカで、テレビを見ているだけのわたしにも何日目かに気がつきました。

開会式でMr.ビーンに使用させたギャラクシー。
テレビでしつこいくらい繰り返されるCM。(まあ、これはスポンサーなら当然かもしれませんが)
サムスンは選手たちの間に流行っているドクター・ドレの使用を禁じたと言うニュースもあります。
合間に挟まれるロンドンの街の様子、街角に写される「エスニックなコーナー」では、
なぜか大きな韓国旗を掲げた韓国料理の屋台だけが。
そして、ありがちなスポーツ選手の戦う姿をビジュアルにうったえるコマーシャル・フィルム。
アメリカ人と共にトレーニングしているのは見るからに韓国系のアスリート。
全く不自然にアップされる韓国旗。



アメリカで象徴的に扱われる国は(昔の)「中国」、フランス、イギリス、ドイツ、日本といったところで、
大抵のアメリカ人は韓国と北朝鮮の違いも分かっていないのが普通だと思うのですが、
少なくともオリンピック関連のCMには、日本というものを感じさせるものは何もありません。

それだけではなく、ここでは日本の試合、日本のアスリートは全くと言っていいほど映されず、
勿論のこと選手は碌に紹介もされないのです。


ここはアメリカですから、アメリカの対戦相手が日本だった場合、そして水泳のように
日本選手が入ってきてしまう場合は勿論その限りではありませんが、
それ以外では、日本を報道すること自体、むしろ意図的に避けられているという感があります。
露骨なのは、日本が入賞した場合、「三か国の国旗」を決して映さない
アメリカ選手のアップ、アメリカ国旗のアップ、終わり。
国旗掲揚も表彰台も、引きのアングルがいっさい無いのです。
不自然です。

これは日本人の被害妄想ではありません。
ある時点で気づきだしてから注意して見ていたところ、
ほぼ意図的なものではないかと確信するに至りました。
なにしろわたしは、ここで一度も掲揚台の日の丸を見たことが無いのです。


「ここのオリンピックはビーチバレーと女子体操だけなのか?」
というくらい、何度も放映し、一人一人の家族模様まで事細かに紹介していた体操女子チーム。
ところが、男子体操はその「家族模様」を紹介しながら、
その競技で優勝した日本の内村選手の演技を映したのは一度だけ。
日の丸が揚がる表彰式どころか、優勝の瞬間さえも映しませんでした。
そして男子の団体なども、いつ行われたのか分からないうちに終わっていました。

「これは・・・・サムスンのご意向だな」

そう確信したのはわたしだけではありますまい。
それでなくても、

  • 明らかであった韓国水泳選手の違反がいつの間にかなかったことになっていた
  • 柔道で、審判三人が明らかに負けていた韓国選手に全員旗をあげ、判定で覆った
  • 体操で、内村の得点が全く加算されず、4位になっていた日本が抗議して2位になった


など、本来起こりえない不思議な現象が多々起こっている、それが今回のオリンピックです。


わたし自身は、開会式の件については、あくまでも現地運営のグダグダから来るヒューマンエラー、
考えたいのですが、ここアメリカでTVから受ける「日本に対する妙な不自然さ」が、
どうも思考を疑惑へと傾けずにはいられないんですねえ・・・。

つまり、
「日本より先に入場したい」という一念で国名の表記すら変えようとしたこともある国であれば、
日本人がさほど屈辱とも感じていないようなこと(会場から追い出された)を、
「日本に恥をかかせることができる」と考えそれを謀るということもありうるかもしれないと。

 


ここアメリカで日本が総合メダル数5位でありながら「全く存在感のない国」になっているのは、
何とも不思議な感じです。
信じられないでしょうが、男女ともに日本はサッカーの試合すら一度も放映されていないのです。
アメリカが相手の試合でなかったから、という理由なら、イギリス対韓国は放映しましたし(棒)

そして何より。この疑惑にさらに一層の拍車をかけているのが、
なぜかこのことを日本のマスコミが全く報じていないことです。


もし男子サッカーの三位決定戦で日本対韓国という組み合わせになったら、
それは必ず放映されるでしょうから、そのときに果たしてこの五輪スポンサーが、
日本に対して常に潔白であるかを、とくと見届けたいと思います。



というわけで、ここでTV観戦をしていて、溜まりにたまった疑問をぶちまけてしまいました。
いつものブログポリシーに反してしまったことを、深くお詫びいたします。




スケートのアポロ・オーノがオリンピックを紹介するコーナー。
韓国人にとってはオーノ選手は天敵ですが、ここでは人気者です。
サムソン的に、アポロくんの採用はOKだったのだろうか?と思っていたら、



スポンサーはやっぱりサブウェイでした。






メダル数は国力か

2012-08-08 | 日本のこと



柔道の男子が今回一つも金を取れず、監督が泣いて「国民に謝った」ことについて、
「何も泣かなくても」「国のために戦っているわけでないだろう」などという声がありました。

しかし、もしあの場で「国のためではなく自分のために力を尽くして戦ったのだから満足です」
などという言辞があったら、それはかなり奇異なことに思われるに違いありません。
全ての選手は国の代表であり、彼らは国を背負って戦う、それがオリンピックというものだからです。


問題は、この「国を背負って戦う」という構図に対してなぜか斜に構える日本という国の姿です。
そして、その原因となっているのが、案の定この国のマスコミではないかとわたしは思っています。


「ガンバレ、日本」
そうお題目のようにキャッチフレーズを繰り返すマスコミですが、金メダルを取ればちやほや、
取れなければ叩く、戦略的な試合をすれば「フェアでない」などと言って叩く。
傑出した選手も、自分たちの意に染まない態度を取ると印象操作、時には捏造までして叩く。

つまりメディアというのは常におのれの仕事のネタとしての「物語」をスポーツに求めているだけで、
決して選手たちを応援しているのではない、ということなのです。

マスコミにつぶされ、或いは精神的に追い込まれたアスリートは円谷幸吉だけではありません。
「国民の期待」
そもそもこの言葉にしても、実はそれはマスコミが作りあげた「雰囲気」にほかなりません。
国民全員が期待するにいたる過程は、マスコミの誘導なくしてはありえないのです。

千葉すず選手が、結果を残せなかったことを某キャスターに揶揄され、ブチ切れた話があります。
このとき、彼女は「日本人はメダルきち○い」と言ったそうです。
彼女の認識における「メダルにこだわる日本人たち」。
彼女は見誤っていたようですが、それは実はマスコミの作りあげた「空気」に過ぎないのです。

選手たちはマスコミによって醸成され強制的に背負わされる「金メダルの期待」を、
たとえば千葉すず選手のように「日本」からのものだと勘違いしてしまうのです。

「国が期待している」
というのは、具体的には選手が金メダルを取れるような環境を国家ぐるみで整えることを言います。
中国のホテルで支配人をしていた知人が、
そのホテルで開かれた優勝選手の祝賀会の詳細を語ってくれたことがあるのですが、
何でも中国では、オリンピックで優勝すると賞金は勿論、一生年金で暮らすことができ、
家、車も国から賞与されるとのこと。

優勝した選手にたかだか50万円くらいしか出さないのが日本。
選手がアルバイトまでして競技に臨む様子を、むしろ美談として報道するのが日本のマスコミです。
かたや、優勝すれば一生安泰に暮らせるような国で、可能性と才能のある人間がスポーツを志す、
その数は競技人口の差にすらなってきて当然です。

特に社会主義国にとって、オリンピックは国威発揚の場です。
例えば旧東ドイツでは、選手強化に多大な国費が投じられたばかりでなく、
ほとんどの選手が成長抑制や筋肉増加の薬を摂取させられていたと言われています。
東西ドイツが統合したとたん、ドイツはそれほどメダルを取れなくなってしまった、というのは
国家が国力を注ぎ込むことが有効であるかの証左でもあると思うのですが、
日本の成績は「金を出さない国がどういう結果を出すか」のこれもまた証左であろうと思われます。

ここに北京オリンピックのときの各国のオリンピック選手強化費用をあげます。

アメリカ 165億円
ドイツ  274億円
中国   480億円
イギリス 470億円
韓国   660億円
日本   27億円


それにしても、この日本の金額の少なさは、涙が出るほどです。
しかも、この27億円にあのレンホーたちが目を付け、行政刷新会議の事業仕分け対象になり、
「これ以上減らされては」
と、五輪メダリストたちが共同会見を開き訴えをした、というニュースもありました。

(民主政権になってから、特に武道に対する強化費用が異常に減らされてしまったそうですが、
これは何を意味しているのでしょうかね?)

こういう仕打ちを国がしている限り「金メダルに国が期待している」などとは言えないでしょう。
つまり「国は全く無関心、その当然の結果をマスコミが国民を代弁したふりをして叩いている」
に過ぎないのです。

それにしても、こうして各国の数字を見ると韓国の異常さが際立っていますね。
韓国はGDPにおいて日本の5分の1以下の国ですし、IMFのお世話になったばかりです。
しかし、これほどの強化費用を、射撃やアーチェリーなどの隙間的スポーツに注いだ結果、
金メダルの数だけはいつも日本を上回るまでになりました。
後進国、中進国ほどこういう国威発揚のために国費を注ぎこむものですが、この異様な金額。
おまけに、今回はサムスンが公式スポンサーになっていますから、
このあたりから出た資金の何割かは、もしかしたら審判への袖の下に・・・・おっと。

そこで、最近とみに韓国ヨイショの目立つマスコミです。
バンクーバーオリンピックあたりから、この結果に狂喜せんばかりに、
日本は駄目だが韓国はこんなに凄い、といった調子でいつも過剰報道を行っているそうです。
(わたしはリアルタイムでTVを観ないので、あくまでも後からの総合的判断ですが)

その報道も、各国の、特に韓国の異常な強化費用の多さ、対する日本の惨憺たる状況をあげて、
対費用効果を出したうえで客観的に報じるなどということは決してせず、
ただ「日本のダメぶりと韓国のすごさ」を単純に比較していたのであろうと容易に想像できます。

しかしみなさん、公平にこの強化費用から判断してみると、逆にこの少ない費用で、
日本選手は頑張っているではありませんか。
どこかのサイトで、対費用効果を比較しているものを見ましたが、

1、日本
2、アメリカ
3、カナダ

という順で、日本のコストパフォーマンスは断トツでした。
監督が泣き崩れた柔道にしても、銀2、銅2とメダルは四個取っているわけです。

「落日のお家芸」

したり顔でマスコミがすでにこんなことを言いだしているようです。
勿論金メダルを取れなかったのは初めてで、関係者のショックは一通りではないでしょうが、
これもどうなんでしょうね?

今回いくつかの柔道の試合を見ましたが、審判に何やら買収されているらしき動きあり、
腕を壊しに来たり、勝ったら選手に馬乗りになったままガッツポーズをしてみせたり、
つまりはもう「柔道」じゃないんですよ。
武道の「道」なんて薬にしたくともない、単なる日本発祥のスポーツじゃないですか。

東京都知事は「けだもの同士の戦い」と言って、一部の非難を浴びているようですが、
言葉のセレクトの是非はともかく、「オリンピックのJUDOはもはや武道とは言えない」
と言いたかったのでしょう。

根本の形が変わってしまった以上、強化費用の潤沢な国が徹底的な研究と対策をしてきたり、
そして礼儀を重んじるなんて一文にもならんことより、審判を小金で買収してでも勝てばよし、
と考える国が出てきたりすると(どことはいいませんが)とても精神論で勝てるとは思えません。

「日本は銀銅コレクターか」

中国のネット言論がこのように今回の日本を揶揄していると聴きました。
確かに、水泳など見ているといつも当たり前のように二位か三位に日本選手が入っていて、
その安定ぶりに「またw」とつい笑ってしまうほどでした。
金金と五月蠅いマスコミには、金以外はメダルではないのかもしれませんが。

しかし、繰り返しますが、世界(実質)2位の経済大国にして、この強化費用、
そしてこの強化費用にしてこのメダル数です。
マスコミは、金が取れないと文句を言うなら、選手にではなくまず国に言うべきです。



しかし、我々はうわべのメダル数に一喜一憂するべきではありません。

あるスポーツジャーナリストによると、オリンピックにおける国の実力は、メダル数より、
むしろ参加種目数と入賞者の数で見る方が公平だということです。
日本はハンドボールやバスケットボールなど予選で負けた競技も入れると、
ほとんどの種目に何らかの参加を果たしていますし、歴代大会の入賞者数は決して悪くありません。


マスコミが駄目だと言い募るほど、日本は駄目でもないのです。
そのマスコミの大好きな民主政権が、パフォーマンスのため仕分けで費用を削った結果、
「二位じゃなダメなんですか」の呪い、あるいは当然の帰結として金が取れないのなら、
それは彼らの自業自得とも言えます。

選手にはいい迷惑ですが。

ところで、再び韓国についてですが、とにかく勝ちを取るためにどんな手でも講じるといった姿勢が、
2002年のサッカー・ワールドカップで世界の明るみに出たのは記憶に新しいところです。

そうやって取ったスポーツ大会の結果を、国力やましてや民族の優秀性につなげられたり、
あるいは前述のように日本のメディアがやたらヨイショするのも本当にうんざりするのですが、
こんな話があります。

今回のロンドンオリンピック、韓国勢がメダルを取りまくるアーチェリーで、日本が銅を取りました。
これは、わたしも全く知らなかったのですが、日本にとって初めてのことだったそうです。
3位になったのは早川漣選手。
帰化した元韓国選手だそうです。

さっそく韓国は「実質韓国の勝利だ」「日本は韓国人の力を借りないとメダルも取れない」
と日本を貶めついでにはしゃいでいたそうですが、早川選手本人はこう言ったそうです。

「韓国では4位になると何をしているのかと叱られるが、日本では皆入賞したと誉めてくれる。
日本に来て競技するのが楽しい」

彼女が韓国では決して与えられなかった、スポーツ競技に元々あるべき精神的喜びが、
日本では与えられたということのようです。
早川選手はそんな日本のためにメダルを取って、それに報いたとも言えます。

また、今大会では買収疑惑でオリンピックを追放された審判があったそうですが、
日本人の審判は常に公正で、日本選手もそのフェアプレーぶりには定評があるそうです。


いつも愚直なくらい公正で、どんな競技も道を究めるために精進し、健闘の結果を讃える。
敗戦を語る将は決して選手を責めず、勝ては選手を称えるのが、日本の、
いや民度ある国の(先進国とは限らない)スポーツのあり方なのではないでしょうか。


マスコミの言う「国民の期待」などに答える必要はありません。
しかし、誰のために戦おうと、選手は日本の代表なのです。
勝利した選手が表彰台に立つとき、ポールに揚げられるのは選手の属する国の国旗であり、
選手の勝利を讃えてその国の国歌が流されます。

全ての選手が自分を讃えてくれる国旗国歌のために戦って欲しい、と願わずにはいられません。


因みに、ここアメリカではしょっちゅうメダルの獲得数をテレビで流しますが、
日本はいつも上位にランクされています。
金メダルの数ではなく、金銀銅の合計数で順位をつけるからです。

日本も、そうしたらどうですか?








海軍士官の妻

2012-08-07 | 海軍





セシル・ブロックという英語教師が、江田島の海軍兵学校で教鞭を取った
三年間の想い出をもとに著した本「英人の見た海軍兵学校」の初版を持っています。
奥付に記された発行年月日は昭和18年の8月。

本の序には海軍大本営報道部、某海軍少佐の
「大東亜戦争開戦劈頭のハワイ海戦、マレー沖開戦以来、帝国海軍の挙げた戦果は
実に全世界を震撼する嚇々たるものであった」
などという言葉が入っており、戦時の出版であることをあらためて実感します。
(このセシル・ブロックの本についてはまた別の日にお話します)

26歳の独身青年であったブロック先生の観察は、兵学校生徒だけでなく、
一般の日本人や日本の風土にも及ぶのですが、その中で興味深いのは、
日本の婦人に対する素直な驚きが描かれた部分です。

婦人、と言っても、ブロック先生の見る日本婦人のほとんどは、
江田島の官舎にいる、教官の妻たち。
つまり、海軍士官を夫に持つ婦人たちです。

ブロック先生が仲介役となって、本国イギリスの巡洋艦バーウィックが友好のため
江田島を訪れたことがあります。
このとき、歓迎の午餐会が催され、兵学校教官の妻たちも列席しました。

会場では、すでに男性の賓客は席についており、婦人たちが入る番なのですが、
校長夫人がやってくるまで誰も動こうともしません。
平社員や講師助教授が、上司や教授の夫人にペコペコしなくてはならない、
この「夫の地位は妻の地位」の構図はここでも当然のように生きていたようですが、
日本社会では当たり前のことでも、ブロック先生の目には実に奇異なことに映ったようです。

余談ですが、うちのTOがある社会貢献型クラブに入会した時のこと。
「会員婦人会という、親睦を兼ねた、ボランティアの会があるのだが、参加しませんか」
というお誘いを同時に頂きました。
会長は誰が聞いても知っている大会社の社長夫人。
皆で集まって何をするっていうのですか、と、こわごわ聞いてみると、
「老人ホームに寄付するおむつを皆で縫います。茶話会や歌舞伎鑑賞も」

もう、瞬時に慎み畏み御辞退申し上げた次第ですが、ただでさえ怖い女性だけの団体の、
しかも名士やら有名人やらの奥さんがひしめいている世界にわざわざ飛び込んで、
その大奥のような女社会の荒波に揉まれようっちゅう勇者がこの世にいるであろうかと
心から疑問に思った次第でございます。(いるから会が存在してるんですが)

教官の奥さん同志の「女の戦い」については、ある士官がこのように語っています。

「教官の夫人同士の見栄の張り合いが傍目にも目立ち、どんなものを着るかとか、
何を持っているかがお互いの関心事になったりする傾向をかねてから憂えていたので、
自分の妻にはそのような集まりに出かけることそのものを禁じた。

ところが、そのときにははいはいと言うことを聞いていた妻が、戦後になって
『あの時に午餐会に参加できなかったのは残念だ。あなたのせいだ』
と言いだし、そしてその愚痴を聞かされ続けて現在に至る」


さて兵学校の午餐会ですが、校長夫人が副官に促されて歩きだした後、誰が後に続くのかで
婦人たちの間に騒ぎが起こります。


夫人達は、たがいにお辞儀をしあい、片手を丁寧にゆつくり動かしながら、
「どうぞ、どうぞ」
と言ひあつてゐるばかりであつた。
やがてその中の一人が、水の中へでも飛び込むやうな様子をして進み出、
他は皆これに従つて中に入つた。

ブロック先生、呆れてます。
誰か一人が、もし、何のためらいもなく校長夫人の後に従うようなことがあったら、
後から彼女は皆に「でしゃばり」と言われるかもしれないことを、
そしてそれが彼女らの最も恐れることであることを、
おそらく若いイギリス人であるブロック先生は夢にも知らなかったに違いありません。
しかし、それからがまた大変。

彼等が食卓のところに来ると、またまた何度もお辞儀をし、
「どうぞどうぞ」と言いあって後、上官の夫人から順次に着席した。

ちゃっちゃと上官の夫人から座ったらんかい、というブロック先生の声が聞こえてきそうです。
でも、その上官の夫人といっても、いろいろその中で順列があるわけで、
若し何のためらいもなく席に着いたりしたら後から皆にでしゃばりと(以下略)

今書いていて思ったんですが、こういう風に物事を見る人間は、少なくとも
「上流婦人ボランティアおむつ作りの会」には絶対参加すべきではありませんね。

ブロック先生は知っていたかどうかわかりませんが、
当時海軍士官の奥さんになれるのは、いわゆるちゃんとしたお家のお嬢さんだけ。
家柄は勿論、社会的に地位が高いとされている層に「別嬪さん」が集結するのは自然の理。

この午餐会の写真が残されていますので、ちょっとご覧くださいます?




全員とは言いませんが、なんだか綺麗な人ばっかりではないですか?
ブロック先生もこのあたりには素直に感動し、

「一体日本人女性ほど礼儀正しく親切で魅力ある夫人は見たことがない」

赴任した時に訪れた教官たちの夫人についても

「美しい日本婦人がどこにいっても女中の後に出てきて」

などと、激賞しています。
彼女らが決して「日本の平均的夫人」ではないと知っていたかどうかは、わかりません。
しかし、ブロック先生が彼女らを美しいと思うのは、
夫人達がいつも和服を着ていた所為でもあるかもしれません。

立派な制服が軍人の士気に大きな影響を与える、というイギリスと違って、
日本の海軍士官の軍人はたいてい生地も仕立てもあまりよくない軍服を着ている。
そもそも、元来日本人に洋服は似合わないのだ。
彼らは機会さえあれば和服を着たがるし、男でも女でも和服を着た姿は品位がある。

「洋服の国の人」であるブロック先生の、日本人全般に対する批評は辛辣です。
しかしこれは、特に当時の日本人に対する評としては、正鵠を射ているともいえましょう。

特に江田島のような礼節のやかましい場所では、
日本婦人はさらに従属的な待遇を受けている。

彼女らの唯一の存在理由は男性に奉仕することであって、然も日本の男は
彼女らを召使のように取り扱う。

海軍士官の夫人である彼女らを見て、「男に仕える日本女性」の伝説が
このイギリス青年に一層強く印象付けられたようです。

そこで冒頭の漫画です。
「女性は男性の付属品であり従属物である」というのは社会通念でもありましたから、

「士官に敬礼したら後ろを歩いていた夫人にもニコニコして頭を下げられ、
『かみさんに敬礼したんじゃないわい!』と屈辱を感じる」
下士官兵がいても、全く当時としては不思議ではありませんでした。

ところで、軍隊内の中で敬礼したの欠礼したのと、争いの種になるほどに、
この「敬礼問題」は精神的にいろんな禍根を残したようです。
連合艦隊の停泊地では、別の艦のペンネントを目印にイチャモンをつけ殴り合い、
見物人は自分の艦の水兵を応援し、などということがしょっちゅうあったと言います。
それは大抵、敬礼がきっかけで始まりました。

まあ、ベルサイユ宮殿の中でもマリー・アントワネットが声をかけるのかけないので、
国体ひいてはフランスとオーストリアの仲すら危うくなった、って話もありますし、
我々の日常生活においても、
「先に『おはようございます』という言わないで軋轢が起きる」なんてレベルの話もあります。

社会の潤滑油のはずの挨拶がもめごとのタネになるというのも人の世の常。

旦那が士官でもカミサンは上官じゃねえ!一緒になって敬礼に反応するなよ!
下士官などは、上陸地で夫婦連れの士官に出会うたびにムカついていたようです。

士官の奥さんにしてみれば、向こうが挨拶しているのに知らん顔するのは失礼、
という感覚かもしれませんが、知り合いならともかく、軍隊内の部下ですからねえ・・。
それが余計なこととは夢にも思わない人が多かったのでしょう。

部下思いだった戦闘四〇七飛行隊長の林喜重大尉は、上陸のとき軍服を着ませんでした。
街を歩いていて年配の下士官が家族と一緒に歩いているのに遭遇すると、
年若い自分にも彼等は敬礼をせねばなりません。
それは家族にも見せたくない姿であろうと、気を遣ってのことであったそうです。

冒頭漫画の水兵の歯ぎしりも、プライドが大きな意味合いを持つ軍隊社会なればこそ。
因みに、下士官の夫人達は、そのような場合、知らん顔をしていることが多く、
下級の者にとっては、こちらの対応の方がずっとありがたかったということです。







スタンフォードで医者にかかる

2012-08-06 | アメリカ

先日、息子の副鼻腔炎でスタンフォード大学病院のERに行った話をアップしました。
危急の場合でもないのにERに行かなければいけないのは、つまり我々がここでの「ヒストリー」が
ないからで、取りあえず「面通し」の意味だった、ということをお話ししたわけですが、
そのとき保険会社の方から言われたのが
「ERですから、多分待ち時間が長いので覚悟しておいてください」

受付で10分、中に入って1時間、治療室に入って1時間、治療を受け出してから終わるまで1時間、
5時に病院に入って終わったら8時でしたから、待ったといえばそうなのですが、
例え予約をしてあったとしても治療までしばらく待ち、さらに終わったら会計で待ち、薬で待ち、と
何かと時間のかかる「半日仕事」である日本での医療を考えると、こんなものだと思いました。

ERではカルテを作成するのみで、診断は本ちゃん?の医者だけが行います。
ERが終わったときに、肉体派(笑)のナースがくれた紙に「二日以内に病院の予約を取ること」
と書いてあり、この予約をカード会社のメディカル部門に全部やらせようとしました。
ところが、係の方が
「間に私どもを挟むのは時間の無駄だと先方が言うので、お客様がご自身で予約をお取り下さい」

ちっ・・・・。

英語で電話のやり取りするのが面倒なので保険会社を通訳代わりにこき使おうとしていたのが
ばれてしまったのなら仕方がないな。

「スタンフォードの方から電話を入れてくれる予定ですので」
これも、日本の病院ではあまりないサービスです。

翌日電話がかかってきたのですが、その係というのが
「インターナショナルメディカルサービス」という部門。
どうやらヒスパニック系の「R」を強く巻く発音の女性でしたが、英語が非常に分かりやすい。

このときつくづく思ったのですが、我々日本人はネイティブの英語より、若干訥々としていた方が
ずっと聴きとりやすいようです。

英語、フランス語、スペイン語、中国語と、この順番で少しずつかじった程度ですが、
この範囲で言うなら、実は一番日本人に聞きとりやすいのがスペイン語なんですね。
と言っても、聴きとる聴きとらないの段階まで勉強したのはフランス語だけなのですが、
少なくともフランス語も、英語などよりずっと聴きとりやすい気がします。

これは言語に使用する波長域の共通部分が、英語と日本語はかけ離れているというからだ、
と聞いたことがありますが、同じ英語でもアメリカ人の英語より、イギリス英語の方が、
日本人には(というかわたしには)聴きとりやすいように思います。

おまけにアメリカには普通に多数民族が住んでいますので、見かけが東洋人だからと言って
最初から分かりやすいようにしゃべってくれる配慮など、まずありません。

というわけで、その分かりやすい英語の予約係と、診察の日にちを決めたのですが、
向こうから「月曜日の3時半はどうですか?」と提案してきて、こちらが
「それで結構です」
というと、「Good!Good!」
そんなに喜んでくれて、こちらも嬉しい!という気分になります。
あまり意味は無いのかもしれませんが。

前回も少し書きましたが、この後この人(フィオレンツァというきれいな名前だった)から、
病院への来方と予約の確認をかいたメールが来て、実に丁寧だと感心した次第です。

さて、診療当日、息子のキャンプは4時半までなので、途中で迎えに行き、病院へと向かいました。
と言っても、病院もスタンフォード構内なので、車でわずか10分ほどです。
それが冒頭画像の「Blake Wilbur」というクリニック。
ご想像の通り、Blake Wilburというスタンフォード卒の篤志家の寄付で建てられたビルです。

名門大学は個人名を持つ建物がほとんどで、こういうのがアメリカ人の
「功なり名をあげた人物の大学への恩返し&自分の名を大学に刻む誇り」の象徴になっています。

それでは中に入ってみましょう。
おっと、その前に車を止めなくてはいけません。
建物の向かいにある駐車場は無料で、ゲートもありませんから何時間止めていてもいいのですが、
ERとか、予約の時間に遅れそうとか、駐車場まで停めに行って歩くのが面倒とか、
まあそういった諸事情をもつアメリカ人のために、この病院ではこんなサービスが。



ここで係に8ドル払えば、車を駐車場に停めてくれ、出てきたときには取りに行ってくれます。
こういうのをバレー・サービスと言いますが、これは病人と付き添いにとってはありがたいでしょう。
日本だと病院の駐車場すらお金を取られるところが多いので、
こういう商売はいろいろと難しく、成り立たないのかもしれませんが・・・。

因みにこのとき、ぎりぎりの時間だったので、バレーをお願いしました。

 

う、美しい・・・・。
病院独特の辛気臭さや暗さは全くなく、明るく爽やかなインテリアに、いたるところにかけられた絵画。
この受付に座っていた人に聞いて、三階に行き、そこでボードと問診票をもらいます。
ソファに座ったとたんに係が呼びに来て、診察室に通されました。
予約を取っているということは、こういうのが当たり前(のはず)なんですよね。



部屋には二つの椅子とドクター用の机があり、それも事務椅子みたいなものではありません。
「もうすこししたら、ドクターが来ますので、それまでのあいだ、問診票を書きながら、
リラックスして、ゆっくりとお待ちください」

直訳すればこんな感じでしたが、つまり「ごゆっくりとおくつろぎください」です。
10分ほど経ったとき、ノックの音がして、ドクター登場。

「I'm doctor Chen. Nice to meet you!」

にこやかな微笑みと共に入ってきたのは歳の頃30、石鹸で洗ったような爽やか系中国系青年。
診察をしてくれる予定の医師が「ドクター・ジミー・チェン」であることは前もって知らされていましたが、
なぜか中国四千年みたいな貫録の中年医師を予想していたので、全くのイメージ違いです。

そしてさらに驚いたのが、彼が握手の手を差し伸べて
「How are you?」
と聞いてきたことで、病院に来る患者にご機嫌を伺うと言うのも、相手によっては
「いいわけないだろ!」
と絡まれる危険もあるとつい思わないでもないのですが、とにかくそういう挨拶がありました。
まあ、これが英語圏のしきたりなんですね。
だから、答えるのに
「グッド、といってもいいのかどうか」などと深く考え込む必要もないのです。


さて、チェン医師は、カルテを見てだいたいのことは分かっているはずですが、それでも
「さて、今日はどんなことでここに来られましたか?」
とまず患者に説明を求めることから始めました。

日本でも、診察室に入ると
「どうしました~?」って先生が聴くでしょ?あれと同じ。
日本の先生が、それをカルテを見たまま患者の顔も見ないで言うのとは随分違う雰囲気ですが。

息子は英語が堪能ですが(チェン先生にも、『英語上手いねえ』と誉められていた)、
さすがにこういうとき順序立てて経過を説明すると言うことができないので、
わたしがそれを説明し、あとは先生がいくつかの質問をしていきます。
さらに、診察台に息子を乗せ、喉の奥や耳の穴、鼻などを診て、

「典型的な副鼻腔炎です。
かれはアレルギー体質ですか?」

アレルゲン検査をたまたま出国前にしていたので、

「ハウスダスト、ポーレン(花粉)、食べ物、ラテックス(果物など、ゴム質のこと)全てに
結構なアレルゲンがあります」

というと、

「おそらく日本からボストンに行ったときに空気中の何かにアレルゲンがあり、
アレルギー性の副鼻腔炎を起こしたものと思われます」

診察を待っているときにわたしが

「案外アレルギーが原因かもしれないね」

というと、反抗期の息子

「そんなわけないよ!」

と、全く意味なく反発してくれたのですが、当たっていたというわけです。

「当たってたでしょ?アレルギー性だって」
「・・・・・・」

ドクターは診断書と処方箋をさらさらと書いて、「何か質問はありますか?」
30分で診察は終わりました。

前回のERのドクターのしゃべり方でも感じたことですが、アメリカの医師の質問や説明は
どうしてこうきっちりと分かりやすいのでしょうか。
だらだらとしゃべることなく、要点とポイントだけをさくさく聴いていき、説明も修辞なしで、
ずばりと結果だけを言う。

始まりと終わりの挨拶は非常に安心感を与えるべくにこやかに、爽やかでありながら、
診療はきびきびと的確に、という感じです。
医学そのものもであるけれど、患者との「セッション」に対する方法も、
またそのようなトレーニングの成果、という感じのする診察でした。

さて、病院を出た我々は、ホテルの向かいにあるCVSに向かいました。
アメリカではこのCVS、Walgreenなどが、いわゆる調剤薬局を兼ねた大型スーパー薬局。
奥に調剤コーナーがあり、処方箋をここで出して薬を貰うのですが、
実質は日本の大型薬局のように化粧品も置いている「何でも屋」。
写真の現像、プール用品や、キッチン、生活雑貨、食料品、電化製品なども扱っています。

薬を処方している間、「店内を見てまっていてください」などと言われるのですが、
このあたりも日本の調剤薬局とはだいぶ違いますね。

この日CVSで発見した「こんなもの誰が買うのかシリーズ」のお菓子。



食べたとたん、なんか良くない病気にかかりそうな色をしています。



いわゆるテンピュールもどきの低反発マクラ。
それはいいとして、「ソバカワ」ってなんですか?
もしかしたら「そばがら」の聴きちがい?
「ニンジャ」に続く、怪しい日本語製品シリーズです。
さらに!



「ミヤシ」。
揉む、という字が一字あると言うのも、分かるようでなんか違う、って気がしますが、
この「ミヤシ」、「ソバカワ」と同じ会社のプロダクトによるもの。

「癒し」が伝言ゲームの段階で「ミヤシ」になってしまったんでしょうね。
いずれも「ちょっと惜しい」というところで間違っているのが涙をそそります。







映画「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」

2012-08-05 | 映画

山口多聞司令・三船敏郎
加来止夫艦長・田崎潤

先任参謀・池部良、通信参謀・宝田明、航空参謀・三橋達也、そして飛行長・平田昭彦

こんなイケメンだらけの聯合艦隊があるかあっ!

上層部だけじゃないよ。
鶴田浩二の隊長のもとに激戦をを戦う精鋭のパイロットは、主人公の偵察士官夏木陽介
夏木とは兵学校のクラスメート戦闘機乗りの佐藤充
そして飛行機に乗り込んでいるのがちらっと見えるだけの中丸忠雄
何とチョイ役で赤城の参謀長に上原謙ときたもんだ。
さりげなく元男前の安部徹も、士官室に一シーンだけ出現しているし。
推定イケメン率90パーセント。

会議の場面なんか見ると「これは男の宝塚?」ってくらい男前だらけ。
男前過ぎてさながら全員から水か滴るがごとし。
海軍だからそれも納得・・・って、ちょっと違うか。


という、東宝の総力を結集して作られたと思われる戦争映画、1960年作品。
どれくらい総力かというと、主人公の郷里の校長先生がエノケン、婚約者の父が志村喬
小林桂樹が戦務参謀、作戦参謀の加東大介とのサラリーマンコンビ復活。
なんと山本五十六はまったく五十六っぽくない藤田進
藤田進は一瞬しか出番の無いこの役のために、わざわざ髪を五十六カットの坊主にしています。
これぞ役者魂・・・・ってこれもちょっと違うか。


真珠湾攻撃に参加し、快進撃を続ける聯合艦隊の強さに酔いしれるも、
あのミッドウェーの戦いで痛恨の敗北を知る、偵察士官、北見中尉(夏木)
この若い士官の独白とともにストーリーは展開します。

純粋な若い青年士官が戦いに身を投じる姿、そして、愛する者たちとの別れが、
開戦から戦況の転換点ともなったミッドウェー海戦までの戦いとともに描かれます。

この主人公の経歴は、兵学校66期の藤田怡与蔵少佐と同じです。
開戦時、65期は大尉に進級していましたから、この北見、松浦中尉(佐藤)は、
兵学校66期という設定であるわけですね。

圧倒的な勝利を収めた真珠湾攻撃。
その後の南方戦線でも連戦連勝の敵なし(と思われた)聯合艦隊。
将兵の意気軒昂ぶりはとどまるところを知らず、
空母飛龍艦内では元気に各部屋の宴会が行われています。

士官室。


「友成(大尉)のワイフはナイスだそうじゃないか」
などと、比較的上品な話題で盛り上がる士官室は、第二種軍装での宴会。
皆さん、もう少しリラックスしてもよろしいのではないでしょうか。
まあ、この映画の監督は軍服フェチの松林宗恵
池部良鶴田浩二の「二種ツーショット」は、明らかに「観客サービス」であると見た。

因みにこの友成大尉とは、ヨークタウンに被弾後自爆し、これを沈没せしめたと言われる
友永丈市大尉(海兵59)がモデル。
この映画を、友永大尉の遺された「ナイスなワイフ」は、遺児を連れて鑑賞し、
「あれがお父さんよ」と言ったとか言わなかったとか・・・・。

因みに「ナイス」「手荒く」この海軍の流行り言葉は、例えば北見中尉の婚約者の写真を見た
松浦中尉が「手荒くナイスだな!」(すごい美人だな)と言ったりするシーンで使われています。



ガンルーム。
主人公の北見中尉は「北見中尉、五尺の身体を祖国に捧げん!皆はどうだ!」
と檄を飛ばし、クラスメート松岡中尉と共に皆盛りあがります。
見たわけでも聞いたわけでもありませんが、艦船の中における若手士官の宴会は、
戦争に勝っているときは実際にこんな雰囲気だったのかなあ、と思わせます。(涙)



下士官になると、士官室でテーブルに並んでいた洋酒が酒びんになり、グラスが茶碗になり、
歌う唄もなぜか「てるてる坊主」になったりします。
熱唱しているのは飛鷹乗組の菊池哲生上飛曹がモデルだと思いますがどうでしょう。



そして、問題のシーン。
何が問題なのかって?それは少し後に譲ります。

下士官以上が宴会をしているというのに、甲板でぐるぐる軍歌行進をさせられている兵隊。
これはこれなりにレクリエーションの一環であったりもするのでしょうが・・。
歌は「大東亜戦争海軍の歌」

この唄声を、同じ甲板で、山口司令と加来艦長がワインなどを飲みながら、
折り椅子に座ってしみじみと聴くわけです。
そのときの二人の会話。

「機動部隊にとってこの南方作戦は大きな道草じゃなかったのかな」
「どうしてですか」
「我々がやらねばならん敵がいなかったじゃないか」
「しかし、獅子はウサギを倒すにも全力を尽くすと言います」
「加来君、真珠湾でアメリカの戦艦は叩いた。しかし空母はそのままだ。
我々にとって正面の敵はあくまでもアメリカの空母だからな」

この後、山口司令は、山本五十六との会話でこの疑問を口にしますが、
これまでの作戦は全て南方の油田を確保するためであったことや、
工業力で圧倒的に劣る日本が戦争を長引かせれば確実に負ける、
したがってミッドウェーで相手を叩いたうえで早期講和を図り戦争を終結させる
という山本司令の言葉に、納得します。


さて、一方、美しい幼馴染の啓子と結婚式を挙げるために故郷に帰っていた北見中尉。
まさに今から祝言というそのとき、鎮守府から電報が!
そう、ミッドウェー出撃のための召集がかかったのです。

母が転げるように床の間から杯を持ってきて「固めの杯だけでも・・・」と懇願するのに、
北見中尉ったら「そんな形式的なことはいい」と断り、ただ美しい花嫁に「母を頼む」と一言。
衆目の中、愛し合う男女はお互いを抱きしめることもなく、ただ、握手を・・・・・。(涙)

このときの花嫁が美しい!
幼馴染、啓子を演じるのはこの映画で引退したという上原美佐

黒澤監督に「野性と気品の同居する異様な美しさ」とまで絶賛され、
「隠し砦の三悪人」で三船敏郎と共演までしたというのに、この女優さんは

「わたしには才能が無い」

といって、この映画を最後に引退してしまうのです。
どうよこの潔さ。
美貌だけで才能の片鱗もないのに女優と呼ばれている有象無象の芸能人とやらは、
この際上原美佐の爪の垢でも煎じて飲めばいいと思うの。

それを思ってみると、この映画における彼女の清冽な美しさの輝きは、
まるで燃え尽きる直前の蝋燭の炎のような光を放っているように見えるではありませんか。
(気のせいかな)

ミッドウェー海戦については、おそらくこれを読んでいるほどの皆さんであればその経緯を
良くご存じだと思いますので、省略しますが(おい)、ただ、赤城の南雲長官が
空母二隻を伴う敵艦隊があらわれたとき、

「戦闘機の援護の無いハダカの爆撃隊など出すわけにはいかん。
陛下よりお預かりしている将兵をむざむざ無駄死にさすことになる。
正攻法で行こう」

第二次攻撃隊は艦船攻撃の兵装に変更、これを聞いた山口司令が、
何とも言えない苦渋の表情を浮かべるのが印象的でした。

その後、敵は空母から雲霞のように飛んできて、それを避けるためのかじ取りで、
離艦中の飛行機が海にボチャンと落ちてしまったりします。
その後ご存じのとおり加賀、赤城、蒼龍が次々と被弾。
赤城は処分命令により沈没します。

「飛龍は健在なり」
そう打電した山口司令ですが、少ない飛行機で薄暮攻撃をかけようとしたそのとき、
すでに敵爆撃機は上空にあり、飛龍に襲いかかってきました。
ほとんど為すすべもなくやられる飛龍。

艦底で逃げ場も無くなった機関科、整備科(平田昭彦の飛行長含む)そして、
せっかく命を取りとめて医務室で身を横たえている負傷者たちも。
そして、艦橋で身体をくくりつけ、艦と運命を共にする覚悟の山口司令と加来艦長。
これらの人々がいまだに乗っている飛龍に向かって、味方の魚雷が発射されます。

魚雷がその艦体を貫くまでの飛龍に、わずかな、そして妙に静かな最期の静寂が訪れます。
人気の無い操舵室。皆でただ上を見つめる機関科の将兵たち。
そして医務室で静かに微笑みを交わす軍医と松浦中尉。

・・・・・・・・・・・。


ここで問題のシーンの続きです。
この後皆さんもご存じのように飛龍は海軍自身の手で海の底に葬られます。
海底に沈んだ飛龍の艦橋が映しだされ、そこには体を縛られたままの山口司令と加来艦長の
遺体が見えるのですが、ここでこういう声が聞こえてくるのです。

「これからもみんな勇ましく死んで、こういう墓場が太平洋に増えるんでしょうなあ
「もう増やしたくないがなあ」

つまり、死んだばかりの二人の魂がまだそこに留まっていて会話をしていると。

このシーンは、この映画を見るものにとって評価の真っ二つに分かれるところです。
どちらかというと「馬鹿馬鹿しい」「オカルトか?」とクサす現実派の非難のほうが若干多いかな、
と思われるわけですが、いや、わたしはここ、評価しますよ。高くね。


そこで先ほどの「問題のシーン」、つまり、この二人が甲板で軍歌行進を聞きながら会話する、
このシーンをリフレインしてみましょう。
そのとき兵たちが軍歌行進で歌っていたのが「大東亜戦争海軍の歌」

この歌詞はこのようなものです。

 

見よ檣頭(しょうとう)に 思ひ出の
Z旗高く 翻へる
時こそ来れ 令一下
ああ 十二月八日朝
星条旗まづ 破れたり
巨艦裂けたり 沈みたり


あの日旅順の 閉塞に
命捧げた 父祖の血を
継いで潜つた 真珠湾
ああ 一億は みな泣けり
還らぬ五隻 九柱の
玉と砕けし 軍神(いくさがみ)



実はこの海底の「霊の会話シーン」。
よくよく耳を澄まさないと聴こえないのですが、

二人の会話の後ろに幽かにこの同じ曲が聴こえているではありませんか。

つまり・・・・、
太平洋の海底に沈んだ飛龍には、この二人の魂だけではなく、
艦と運命を共にした将兵たちの想念もまた、留まったままになっているのだと。
そして、かれらはやはり以前と同じようにこの歌を歌い続けている・・・。
そういうことなのだと、わたしは解釈しました。

そう考えれば、このシーンにはいまだに太平洋の海の底でそのまま眠っている、
幾万の敵味方の兵士たちへの鎮魂の想いがこめられていると言えませんでしょうか。



戦いで生き残った北見中尉は、ミッドウェーの敗戦の真相を漏えいさせないために
他の生存した将兵と共に世間との連絡を遮断され隔離されたあげく、沖縄に出撃していきます。


「本土の最後の見納めに旋回しましょう」という部下の具申を、
自分が生きていることを妻と母にさえ知らせずに、最後の戦いに臨む北見中尉は
「その必要無し」と切り捨てます。

沈みゆく艦隊と級友の葬送を見届けた北見中尉の、すでに魂が現世に無いかにも見える
その絶望に満ちた覚悟の表情が、あまりにも哀しいラストシーンでした。










イスパノフォビア~情報戦に敗北した国

2012-08-04 | つれづれなるままに

オリンピックも佳境に入った今となってはもう旧聞に属する話ですが、
サッカーのオリンピック予選で日本がスペインを1-0で破るという波乱がありました。
「グラスゴーの奇跡」などと日本のメディアが評したのを、逆に海外、特にスペイン人には
「奇跡というのなら、試合が4-0まで点が取られなかったことが奇跡だ」
「スペインが酷過ぎたので当然の結果」
というような意見が大半で、要するに「あんな内容なら負けて当然、奇跡なんかじゃない」という
自虐的なコメントが多かった模様です。

この日本の勝利を「無敵艦隊を破った戦艦大和」などと表現していたのは中国メディアだったとか。
ちょっと待った(笑)

スペインが艦隊なのに、どうして日本が大和だけなの?
ここは「聯合艦隊」くらい言ってもらわないと、バランスが悪すぎるんですけど。



さて、その無敵艦隊ですが、無敵(invincible)であったのは、イギリス、オランダの艦隊に
英仏海峡でコテンパンに負けてしまうまでだった、と言うだけのことらしいですね。
「無敵艦隊」という呼称は、むしろイギリスの側から揶揄的に用いられたようなもので、
スペイン自身は「神の祝福を受けた艦隊」と称していたようです。

しかしとにかく無敵艦隊が無敵であった頃、スペイン帝国は史上最も繁栄の時期を迎えていました。
16世紀中期から17世紀前半までのこの80年間、この頃のことを「黄金の世紀」と称します。
そして「陽の沈まぬ国」と称えられていました。

アメリカ大陸の発見後、新しい広大な領土を得たスペインは、1521年にはアステカ帝国、
1532年にはインカ帝国を滅ぼして、南アメリカのほとんどを植民地としていました。
フィリピン、アフリカにも植民地があったため、いつも領土のどこかに陽が当たっていたのです。

しかし。
無敵艦隊も負けたように、一つの国が栄え続けたことは歴史上無い、
というこの世の倣いにそむかず、スペインはその後没落の一途をたどります。

ここでは本題でないので省略しますが、この後のスペインの凋落っぷりは、
19世紀までにスペインはほとんどの植民地を失い、世界での覇権を失うわ内戦は起こるわ、
やっと戦争が終わった現代においてもG8にも入れてもらえないと言う・・・・

G8の日本名称って、知ってます?

主要国首脳会議ですよ。
かつて陽が沈まないといわれたほどの国が世界のトップ8にも入れなくなってしまったのです。
さらに2000年代、欧州連合加盟後順調に経済成長を続けてきたはずが、
ついに2012年「スペイン経済危機」へと・・・。

いつだったかの国会で日本の経済状況を責められているとき、与党の誰かが

「スペインと一緒にしてもらっては困る。そこまで落ちぶれていない」

と言ったので思わずお茶を吹いたことがあります。
そう、それが今のスペインに対する世界の認識なのね・・・・。

今現在も欧州では大丈夫でない国の方が多いとはいえ、このダメダメぶり。
スペインの経済危機が報じられたとき、

「昔無敵艦隊とかいってすごかったのに、どうしてこうなった」

というような会話をTOとした記憶がありますが、今回の危機はバブルがはじけたため、と、
理由は欧州全土を飲みこむ流れの必然からきているとしても、
スペイン帝国時代の没落は、「はっきりとした情報戦の敗北」が原因であったと言われています。



もしかしたら皆さんの教科書にはこのような銅版画が載っていたかもしれませんね。
「陽の沈まぬ国」がいかに植民地を獲得したかを端的に表わす言葉に

「まず、商人が行く。そして宣教師が行く。最後に軍隊が行く」

そして、この絵に見られるような原住民の殺戮と迫害がはじまると言うわけです。

インディオの妻子を捕らえ、身代金を持ってくるまで水も食べ物も与えなかった。

荷を運ぶため鎖でつないで遠征に連れていき、立てなくなったら首を切断して鎖から外した。

犬にインディオを食わせてその数を競った。

インディオ同士を戦わせ、彼らに食べ物を与えずお互いを食べ合うようにさせた。


ありとあらゆる残虐な行為が、インディオを人とも思わぬスペイン人によって行われ、
その状況はこの世の地獄とでも言うべき酸鼻を極めるものであった・・・・・。


ちょっと待った(笑)


これがその通りに行われていたのかどうか、誰が後世に伝えたのでしょうか。
というか、この話、何かに似ていません?
そう、「南京大虐殺」です。
当時新聞が全く伝えていない、信じられない一般住民虐殺の様子を検証なしで本にしたのが
本田勝一というジャーナリストであることは今では有名です。
虐殺をしたと書かれた遺族からの訴えもあり、その信ぴょう性は疑わしい、ということも
今日ではかなり明らかになっているのですが、この「インディオ虐殺」における
「本田勝一」に相当する人物がいた、ということが明らかになっています。


バルトロメ・デ・ラス・カサス。


15世紀、ラス・カサスは従軍司祭としてキューバの侵攻に加わりました。
そこで見たスペイン軍の軍事行動に激しい良心の呵責を覚え、「良心的スペイン人」として、
「平和的植民活動」を行おうとするなど、インディオの人権?を取り戻すべく活動を始めます。
(この「平和的植民地」は、どういう理由でかインディオ達からそっぽを向かれてしまったようです)
ラス・カサスは次第にスペイン人たちから激しい反発を買うようになってきます。
彼は支持者の庇護の下、そこで目撃した惨事を事細かに書に著すようになり、それがきっかけで
「インディオスの報告者」「インディアンの代弁者」として彼の名は歴史に残ることになります。


ラス・カサスの情熱は、あくまでも人道的良心に基づくものであり、
インディオたちの人間としての権利を守ることでした。
ですから、その著書「インディアスの破壊についての簡潔な報告」などによる供述が、
ついつい伝聞や事実の曲解、さらに誇張やあるいは虚偽に走ったとしても、それは本田のように
「祖国を貶めるため」という目的のもとにされたわけではなかったでしょう。

あくまでも祖国による非人道行為のみを糾弾し、それを阻止する、
ラス・カサスの意図はここにしか無かったはずです。
しかし、この著書群は、ラス・カサスが全く意図しなかった方向に利用されはじめました。
本田の「中国への旅」が内外の反日勢力に利用されたように。


彼の死後、それはスペイン帝国の勢いに陰りが見えてきたころでもあるのですが、
その著作は各国語に翻訳され出版されはじめました。

スペインの敵であったイングランドとオランダはこの「告発」を歓迎しました。
いかにスペイン人が残虐な「神の教え」に背く行為をインディアスで行ったか。
両国はこの「黒い伝説」を大々的にプロパガンダとして利用するようになります。


上記に掲載した銅版画、これはスペイン自身ではなく、情報戦を戦う英蘭両国が、
「見てもいないのに見たかのように残虐行為を絵にして各国にバラまいた」ものなのです。

大衆はいつも目に見えるもの、分かりやすく「絵」今なら「写真」に目を奪われます。
日本でも死体写真を掲載した写真週刊誌が出た当初、人々がそれを道義的に非難しながらも、
掲載された写真を食い入るように見ずにはいられなかったように。
このような銅版画がそれこそ想像の限りを尽くして製作され、ヨーロッパに撒かれました。

効果はてきめん。
イギリス、オランダを筆頭にヨーロッパ中がスペインを非難するとともに、スペイン人自身が
その残虐性を恥じ、自信を失い、自国を誇ることもできなくなり虚無性に苛まれてしまったのです。

ちょうどそのころ(1588年)、無敵艦隊がイングランド海軍に敗戦を喫します。
スペインの没落は顕著となり、代わりにイングランドはアルマダ開戦の結果をなぞるように
国力をたかめ、その後七つの海を制覇する大英帝国へと発展していきます。

ヨーロッパには
「ドイツの悪口を言うのはフランス人、スペインの悪口を言ったらそれはスペイン人」
というジョークがあるそうです。

イギリス人とフランス人もかなり仲が悪いと聞きますし、一度ノルウェー人と話したとき、
フィンランド人はケチでスウェーデン人は自分勝手だ、みたいなことを言っていました。
上手くいっているように見えるアメリカとカナダもお互いを馬鹿にしあっているようですし、
つまり実質隣国と上手くいっている国というのは世界に存在しないと言っていいと思いますが、
特にフランス人のドイツ嫌いは傑出しているのでしょうか。

そういえばスペイン人の友人は、「ポルトガルには何もない」と馬鹿にしていましたっけ。
かつてスペインから独立したポルトガルですから、仲が悪いのは納得できます。
しかしそれ以上にスペインを悪く言うのはスペイン人自身であるというのです。

スペインはいつしか「自虐の国」となり、「イスパノフォビア」とそれを表わす単語までができました。
「イスパノ」はスペイン、フォビアは嫌悪とか恐怖症などと訳したりします。


スペイン人たちがイングランドとオランダのプロパガンダにまんまと乗せられて自国嫌いになり、
だから国は衰えてしまった、それは「イスパノフォビア」のもたらしたものであった、
と考える歴史家がいます。

このことについてはわたしなりに考えたことがあるのですが、それは次に予定している
「ジパノフォビア」(日本嫌い)について語るときに譲りたいと思います。



かつてワールドカップで優勝したことすらある「無敵艦隊」のスペインサッカーが、
昨日今日出てきたような東洋のサッカー後進国に敗れてしまった。
この瞬間、かつて本物の無敵艦隊が敗れた時と同じくスペイン人たちが申し合わせたように
自虐的になっている、というのは何か符号めいて見えます。

経済絶不調のスペインが、この敗退からさらに自信を失い、
国力衰退の一途を辿るようなことになりませんように。




ラス・カサスの著書に記された「スペインの残虐ぶり」ですが、検証すると、
やはり南京大虐殺の「二十万しかいない都市で三十万虐殺」や「死体がどこにも無い」
に相当する矛盾が随所に見られるそうです。

ラス・カサスが主張を通すためにかなりの捏造を加えたのはどうやら事実であるようです。








駆逐艦「梨」物語

2012-08-03 | 海軍









内容から何からやる気のない4コマで申訳ありません。
このエピソードは駆逐艦「梨」の物語にとってさほど重要でないのですが、
チョイネタとして作成してみました。

本土防衛も激しさを増した昭和二十年、瀬戸内海で日本軍はグラマンを二機撃墜。
それそのものは大きな戦果であったのですが、その後米軍のカタリナ飛行艇が一機飛来、
駆逐艦「梨」大砲の射程距離ぎりぎりに着水し、海中の搭乗員を救出して悠々と去っていきました。
向こうも必死ではあったでしょうが、何しろ鈍重な水艇に内海まで侵入を許したばかりか、
黙って去っていくのを見ているしかなかったというこの出来事は、
当時の我が軍がいかに防衛においてアメリカ軍からなめられていたかということを表わしています。

駆逐艦「梨」。
昭和19年から建造された「松型駆逐艦」に続く「橘型駆逐艦」で、昭和20年3月に就役、
終戦直前の7月28日、山口県光基地沖で回天と合同訓練中、米軍の攻撃を受けて沈没しました。

松型というのが、フネ不足の海軍が取りあえず数だけは何とか調達するために
わずか5カ月で作りあげた戦時量産型の駆逐艦でありました。
この型は松、竹、梅に始まり、

(松型)桃、桑、桐、杉、槇、樅、樫、榧、楢、櫻、柳、椿、桧、楓、欅、

(橘型)橘、堵、樺、蔦、萩、菫、楠、初櫻、楡、、椎、榎、雄竹、初梅

の(全部読めました?)32隻が就役にこぎつけました。
重複する木は「雄竹」「初櫻」にするなど、ネーミングに苦労の跡が偲ばれます。

本日の主人公「梨」。
決して果物ではなく「梨の木」という意味の命名ですが、
何となく軍艦にしては迫力を欠くと思われませんでしたか?

木の名前をシリーズにし、「雑木林」と呼ばれていた松型ですが、
これ以外にも建造中止になったり、全く未成のまま終戦を迎えた40ほどの船になると、
だんだん植物のサイズが小さくなり、
「薄」(ススキ)「野菊」
などという、健気に咲く野の花にまでなってしまっていました。
まだ命名されていなかった4143、なんていう仮の名前を持つフネが、
「薔薇」「撫子」「チューリップ」になるのも時間の問題だったでしょう。(たぶん)

もしかしたら、松型駆逐艦の名前を付ける担当の部署は、
この点に関してだけは戦争が終わってほっとしていたかもしれません。


さて、先日、「雪風は死なず」という項において「好運艦雪風」に対して「不運艦」を挙げました。
そのときにこのフネを挙げても良かったと思うほど、「梨」もまた不運でした。

「梨」は第11水雷戦隊所属で、そののち第一遊撃部隊に編入されています。
この部隊は、大和出撃のとき沖縄に突入することになった部隊です。
しかし、「梨」はじめ「雑木林」は、ことごとくこの作戦から外されてしまったそうです。
訓練もろくにできていない「雑木林」では役に立たないと判断をされたのは明白です。

もし天一号作戦に参加していたとしたら「梨」の命運は確実に沖縄で尽きていたでしょうから、
この瞬間は「好運」と言えたのかもしれません。

しかし、「梨」の不運はここからでした。
訓練といっても燃料不足のため、まともな戦闘訓練などできないまま(水泳訓練などをしていた)
「梨」は運命の7月28日を迎えます。

これは、冒頭漫画に描いた、「カタリナ飛行艇目の前で着水」の屈辱からわずか3日後。
国内で、米軍の攻撃により沈められたフネは多々ありますが、「梨」が不運だったのは、
この時攻撃したのが爆撃機ではなく、グラマンF6F戦闘機であったことです。

「梨」は戦闘機に沈没させられた珍しいフネ、という不名誉な記録を担うことになったのでした。

さて。

「梨」の運命はここで終焉を迎えたわけですが、この話にはまだまだ続きがあります。

戦後、スクラップを取るつもりで引き揚げたところ、なんと、「梨」は、ほぼ使用に耐える形のまま
海底にあったことが判明し、日本はこれを護衛艦として再利用することにしました。

しかし、平常であれば引き継がれる旧艦名は使用されませんでした。
なぜだかわかりますね?

「なし」

漢字なら問題のないこの艦名が、あら不思議、ひらがなにすることでネガティブで不吉な二文字に。
そこで「梨」には「わかば」という(一応木シリーズ)新しい名前が与えられました。

護衛艦「わかば」DE-261は、旧軍に存在した戦闘艦艇で、
戦後自衛隊で使用された、これも唯一のフネとなったのです。

しかし、「わかば」としての第二の人生は、必ずしも輝かしいものではなかったようです。
まず、もし時間があればこのような国会審議に目を通していただきたいのですが、

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0106/02801130106003a.html

この国会で、「梨」が一度民間の会社に払い下げられていたのを、国が買い戻した経緯を、
野党が批判する、という出来事がありました。
再デビューにもケチがついたというわけです。


デビューにこぎつけた後も、半年も潮水に浸かっていた「梨」は機関部に凄まじい異音が絶えず、
また、同型艦がないため、運用にはなかなか苦労が絶えなかったといわれています。

また、乗員の多くを「わかば」は旧「梨」乗り組みから採用しました。
沈没の記憶のなせる業か、「わかば」では、しばしば「略帽を被った旧軍乗員を目撃した」
というような幽霊騒ぎが起こったそうです。

「梨」はその沈没時に60名以上の戦死者を出しています。


国会で追求されてまで「梨」のレストアと運用が推し進められたのは、
戦後の海上自衛隊が旧軍を受け継ぐものであるという意志表明の下に、
旧軍艦をその表明のあかしとして持っていたかったのではないか、という説があるそうです。

「わかば」がすでに解体され、その高角砲と魚雷発射管を術科学校内に残すのみ、
ということになってしまった今になっては、本当のところを知る者はもういないのかもしれません。



「大和です」
という漫画を描いたとき、こんなお便りを戴きました。

「大和一隻で戦ったわけではないですから・・・」
「大和」でなかったらこの海自の人達は、どうしたのだろうか?と思ってしまう」

確かに、もしあの話が

「お爺様は何に乗っておられたのだ」
「梨です」

であったら、

「なし?」
「はあ、モモ、クリ、ナシの梨です」
「あったっけなあー、そんなフネも」
(一同)「ほー」

などという展開になり、盛り上がらないことおびただしい。

しかし、「梨」に乗って亡くなった60名の命も、「大和」戦死者となんら変わりない命です。
「大和の物語」がいつまでも人の心をつかんで離さないように、人々が戦争を語るとき、
そこに悲壮な、或いは勇壮な物語を求めるのは世の常かもしれません。

しかし、何に乗って、どんな戦い方をしたとしても、
英霊の死にざまに上下を付けることだけはあってはならないことでしょう。



振り向けば、日本

2012-08-02 | 日本のこと



たった今、内村航平選手、金メダルが決定しました。
おめでとうございます!
でも、男子の金メダルって、具志堅選手以来28年ぶりなんですってね。
いつもそれなりに成績を残していたような気がしていたけど、そんなものだったのですね。

でも、男子体操、見ていません。中継してくれなかったの・・・・ここはアメリカだから。
なんだかビーチバレーと女子体操と水泳ばっかりやっている気がするの。


日本では銅メダルラッシュ(笑)と内村選手のメダルでそれなりに盛り上がっているようですが、
ここアメリカでは・・・・・普通です。
オリンピックをやっているチャンネルは、NBC一局だけですし、実のところアメリカ人は
(お、今、バタフライでマツダタケシの名前を連呼している)
オリンピックなんかよりアメリカンフットボールや野球の方が好きみたいなので。
(マツダが三位になったようです)

しょっちゅう誰かが金メダルを取っているような国ですから、国を挙げて皆がテレビにかじりつく、
なんていうことはおそらく昔から無かったのではないかと思われます。

さて、そんな「冷めた国」アメリカで、これまでなんどか開会式を見ました。
前回の北京のときは
「彼らは柔道でたくさんのメダルが期待できるでしょう。なぜならそれを発明した国だからです」
という言葉がアナウンサーから聞かれたという記憶がありますが、今年は?

 

まるでNBCの放送に合わせたかのように、開会式は夜7時に始まりました。
この画像を見て、日本の人口が今1億2千700万人であることを知った次第です。

「日本は、金メダルが期待できる選手として、体操の内村航平がいます。
水泳で過去二回メダリストになった北島選手が三回目のメダルを狙えるかが注目です。
日本は昨年の三月に大きな地震とそれに続くツナミという災害に見舞われました」

ふーん、原発事故は無しか。

何しろ次々と国は入場してくるので、各国に対するコメントは皆一言だけです。
ただ、日本の少し前に入場したイスラエルについては、ミュンヘンオリンピックのときにテロが起き、
選手が犠牲になった話を結構延々と、と言った感じで続けていて「?」となりました。

・・・・なんか、色々ありそうですね。アメリカのテレビ界も。

 

この写真は、この辺の大型ショッピングモールのGAP店頭に飾られた「オリンピックTシャツ」。
なぜか、東京オリンピックのTシャツが無茶苦茶目立つところに飾られています。
ほかにもモントリオール、パリ、アメリカのものとオリンピック五輪のものがありましたが、
やはり何と言うか日の丸はデザインとしてキャッチーなんでしょうかね。

手に取ってみたら非常に肌触りの良い素材で、息子のパジャマにいいかなあと思ったのですが、
小さいシャツがことごとく売り切れてしまったらしくXLとLしか残っていませんでした。
それでも買うかどうか今迷い中。


最近、アメリカのテレビをつけていると、何度となく
「ハジメマシテ」
と聴こえてきてつい目をやってしまうCMがあります。
翻訳機能のあるスマートフォンの宣伝らしいのですが、主人公のビジネスマンが、
これを使って世界各国を股にかけ仕事をする、というストーリー。
日本では、お辞儀の正しい角度をスマホで調べて商談に臨んでいました。

二年前、テレビのコマーシャルにすっかり騙されてインターネット購入し涙を飲んだ
「フシギ」というタダのガラスボール(全然不思議じゃない)詐欺的商品の話をしたことがあります。
この商品名に日本語が使われていたように、不可思議な日本語がつけられる商品があります。


 

要するにジューサーになったりミキサーになったり、いろいろ使える調理器具なのですが、
なぜか商品名「ニンジャ」。
なぜニンジャ?
いろいろ様変わりして、使い方無限大、という一見お得な(でもすぐ使わなくなる)商品、
どうやら「形を変えるからニンジャ」という解釈のようです。

アメリカ人のニンジャ好きは異常なほどで、なにかというとニンジャが出てきます。

本当かうそか、アメリカの学校で日本人生徒が怪我をしたのに体育に出る、と言ったら先生が
「大丈夫か?」それに答えて
「大丈夫です。うちの祖先はニンジャなんで」
と言ったら、真面目な顔で納得された、という話を聴いたことがあります。

なんだか、ニンジャというのを「変身したりもの凄い秘術を使ったりするスーパーマン」
であると過大評価しているみたいなんですね。

先日サッカーで日本がスペインに勝ったときも、出るぞ出るぞと思っていたらやっぱり、
「ニンジャのように日本チームは戦った」と書いている新聞もあったようです。


さて、サンフランシスコについたときのレンタカー出口のおじさんの「サヨナーラ」をはじめ、
日本人だと分かると、知っている日本語で声をかけてくる人はたくさんいます。
まあ、我々が外国語の挨拶くらいはしゃべれなくても知っているレベルですが、
やっぱりそういう風な応対を受けるのは嬉しいものです。

東南アジアのリゾート地では、日本人を見分ける方法の一つとして、
「日本語であいさつしたら嬉しそうにする」というのがあるそうです。
あるいは
「手を前で合わせる挨拶をすると、同じように返してくるのが日本人」
「お店でこちらを呼びつけるのが中国人、韓国人、向こうから来るのが日本人」
というのも。特殊な例として
「トラブルになったとき、自分は日本人だと言ったらそれは絶対に日本人ではない」
というのもありました。

カタコト日本語はこのように、いまや普通のアメリカ人なら誰でも知っていますから、
そう驚くほどのこともありませんが、見るからにアメリカ人がぺらぺら日本語をしゃべりだすと、
これはなかなかにびっくりします。
世界で日本でしか使われていない言語ですから、習熟していること自体珍しいわけですし。

ところが、今回、その驚くことが立て続けに二回ありました。


一度目、息子のキャンプのサインアップ(登録)会場。
このデスクはメディケーションを申告するコーナー。
薬を服用しなければいけないキャンパーはここで預かってもらい、
いつ服用するかを親が申告しておくと、時間どおりに薬をだしてくれるのです。

それはともかく、このデスクでしばらく話していると、右側の男性がいきなり
「4時間に一回ですね」
と日本語ですらっと言ったので「へっ?」と驚いて絶句してしまいました。

朝の忙しいときにどこで勉強したかとか日本にいたのかとか聴くのもなんなので黙っていましたが、
後で息子と
「絶対あれ、日本に住んでたって感じの日本語だね」と言い合いました。

 二回目、楽器屋さん。

ボストンではオンラインで申し込めるレンタルチェロを利用し、非常に楽でした。
ここはとにかく来てみないと分からないので、ネットで調べたいくつかの楽器店に当たることに。

一つ目は
「チェロはやってないんだよ、すまんね」
と愛相のないおじさんが一言答えておしまい。

もう一つの楽器店には、前もってメールをしておきました。
HPは愛相のないもので、レンタルについて何の情報も無かったので、とにかく料金と、
最短期間を教えてほしい、と書いて送ったのですが、返事は無し。
ですから一軒目のようなものであろうとあまり期待していませんでした。

「メールしたんですが・・・・」
「ああ、あれね。一カ月なら100ドル、2000ドルのいい楽器を貸すよ」
ここも愛相のないおじさんの声で、こんどはこういうありがたい返事が。
最低料金なしでさくっと一カ月貸してくれるとは。

喜び勇んで取りに行きました。
狭いビルの階段を上ると、ドアを開けたところに店主のおじさんと話している客が。
「チェロのレンタルの件で来たものですが」
「ああ、ちょっと待っててね」

すると、店主と話していた男性が
「日本の方ですか?」(『方』よ。『方』)
朝いきなりの日本語にびっくりしたばかりで、その日の午後またしても驚くエリス中尉。

「日本人の英語は聴いていてすぐわかります」

だそうですよ皆さん。
息子はチャットなどで英語に全然訛りがないと驚かれるそうですが、わたしは日本訛りありまくり。
いいんだよ、日本人の英語下手には定評があるんだから。


この男性もどうやら日本にいたのではないかと思われるほど上手な日本語で、
「息子さんの楽器ですか。わたしも今日は息子のために来ました」

息子さんのためにヴァイオリンを買うか、わたしのように借りにきて、
ついでに先生を紹介してもらっていたのでした。

「でね」
話を続ける店主。
「この先生は、とても熱心で教えるのが上手い。信頼のおけるいい先生だよ・・・・知ってる?」

この「知ってる?」は私に向かって言ったのです。
パロアルトの音楽家に知り合いがいるわけは無かろう、と思って名刺を見ると、なんと日本人でした。
知り合いではありませんでしたが。

うーん、今日は、というか、ここではやたら日本に縁があるなあ。


ホテルには必ず日本人の客(子供づれ多し)が数組いるし、やはりここはスタンフォード、
研究や留学でここにいる日本人は多いように思われます。




今、この近辺の劇場ではイギリス人のギルバートが1985年に作曲したオペレッタ
「ザ・ミカド」が上演されているようです。

ご存じないかもしれませんが、映画「炎のランナー」(今回Mr.ビーンが開会式でパロった)中で
主人公がオペラ歌手を見染めるシーン、このときに上演されていたのがこの「ミカド」です。

 

当時イギリスでは博覧会があったのをきっかけに、東洋趣味、なかでも「日本ブーム」がありました。
それに便乗して作られた、知る人ぞ知るオペレッタ界の「快作」がこの「ミカド」ですが、
日本の首都が「ティティプー」(秩父?)と言ったり、ミカドが中国の皇帝だったり、
(ちょ・・この帝のちょんまげ・・・・)
何しろ日本も中国もいっしょくたになったテイストの、とんでもないオペレッタなのです。
因みにこの画像はウィキペディアから借りてきましたが、
左から「Yum-Yum」「Pitti-sing」「Peep-bo」だそうで、全く日本語の響きは考慮されていません。

Far Eastという響きには、西洋人の見た全く地の果ての別世界、日本への遠さがそのまま
よく言えば憧憬となり、悪く言えば全くの無理解となって込められています。


これだけ地球が狭く、情報がいくらでも手に入る時代になって、「振り向けば日本」というほど
何かと日本を目にするこの地の人々でも、でもこの奇妙なオペレッタを見て、
そこに描かれた無茶苦茶な日本を、昔の日本の姿だと納得してしまったりするんだろうなあ。