大阪城の南東に位置する「玉造口」を入って少し西に行くと、豊臣秀吉公、息子の秀頼公、弟の秀長公をご祭神とする「豊国神社」が鎮座しています。
今日は、太閤さんで親しまれている「豊国神社」をご紹介します。
「豊国神社」
豊国神社は明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった際、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されました。
昭和36年(1961)に中之島の大阪市役所庁舎の増築を機会に大阪城内に遷座されました。
この豊国神社は京都では「とよくにじんじゃ」と呼ばれるのに対し、大阪では「ほうこくじんじゃ」と呼ばれています。
・豊国神社の西側鳥居です。
・豊臣秀吉の銅像と本殿です。
「豊臣秀吉公銅像」(高さ 5.2m、内、像3.2m 台座 2m)
明治36年(1903)、大阪城内に建立された豊臣秀吉公の銅像が、その後、中之島の神社境内に移設され、戦前は多くの大阪市民に親しまれていましたが、その銅像は太平洋戦争中の昭和18年(1943年)、金属供出され姿を消したそうです。
現在、境内にそびえる銅像は平成19年(2007年)に再建されたもので、明治期の銅像の復元ではないそうです。
「本殿」
御祭神は豊臣秀吉公、息子の秀頼公、弟の秀長公です。
通常、日本の神道神社では、神代の時代の神を御祭神として祀りますが、歴史上の実在した人物を神格化してお祀りする場合もあるそうです。
例えば、日露戦争で活躍した海軍大将・東郷平八郎を祀る「東郷神社」や陸軍大将・乃木希典を祀る「乃木神社」などです。
豊国神社は明治元年(1868年)明治天皇が大阪へ行幸された時、「秀吉は天下を統一し、国家に貢献すること大である。しかし、幕府を作らなかった真の忠臣である」と言われ、豊国神社の再興を布告したことによります。
再興というのは、1615年、豊臣宗家が滅びると京都阿弥陀が峰にあった豊国社は、徳川幕府が社領を没収、豊国大明神の神号を無効にし、社殿も朽ち果てて行ったからです。
「豊国社」
豊国社は豊臣秀吉死去の翌年の慶長四年(1599年)、遺体が遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に廟所が建立されたことに始まります。
豊臣家滅亡までは方広寺大仏殿と合わせて壮麗な廟所が立ち並び、また秀吉時代を懐かしむ多くの一般市民が参拝し一時は京都市域でもっとも繁華な一角になっていたと言われています。
しかし、元和元年(1615年)豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により豊国大明神の神号も剥奪され、秀吉の墓塔も大仏殿裏手南東に建てられた石塔に遷され、江戸期を通じて神宮寺や本殿は朽ち果てるまま放置されることになってしまいました。
・本殿です。