近年の和食ブームから日本を訪れる外国人も箸を上手に使います。
言うまでもなく、私たち日本人は毎日三度の食事に箸を使用しており、箸は日本の食事には欠かせないものです。
でも、昔から箸を使用していた訳ではありません。
古代の日本人は手で食べていたのです。
では、いつ頃から箸を使用するようになったのでしょうか?
調べてみると、箸は中国から伝わったのですが、元々は神事に使うものとして伝来したため、儀式やごく一部の位の高い人だけが使用するものでした。
箸文化が始まる前の日本では、柏や椎などの葉に盛った食べ物を手で食べていたので、箸のような面倒な道具は、歓迎されなかったようです。
そんな中、聖徳太子はあることをきっかけに箸の普及活動を行いました。
それは、小野妹子たちが向かった第1回遣隋使への答礼のために中国から使節団がやってくることになったことです。
聖徳太子と言えば、第1回遣隋使の一員である小野妹子に託して隋の皇帝に国書を送った方ですが、その国書の中に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という有名な文言があります。
この文言が隋の皇帝を怒らせることになるのですが、相手を怒らせるようなこの国書を送った手前、『何だ偉そうなことを言っているが、日本は手づかみで物を食べる野蛮国でなないか』と、見下されてはと危惧したのです。
そこで太子が使節団の歓迎会では全員箸を箸を使うことを決めたのです。
この作戦は大成功し、当日の宴会では全員がキチンと箸を使って食事をしたということです。
しかし、この頃の一般庶民はまだまだ手づかみで食べていたのですが、この後、次第に箸文化が広まっていったようです。
・ウィキペディアより
(参考)
「聖徳太子が隋の帝を怒らせた『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや』について」
隋の王煬帝に宛てた国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されており、これを見た隋王は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたといいます。
なお、煬帝が立腹したのは、「天子」の文言です。
「天子」は中華思想では1人なのです。それなのに辺境の日本の首長が「天子」を名乗ったことに対して立腹したもので、「日出處」「日沒處」との記述に対してではありません。