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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

台湾旅行(9)台中観光「日月潭」「文武廟」

2019-05-11 | 旅行

旅程4日目の午前は前回に続き台中市の観光で、台中州庁と日月潭湖畔を見学しました。

「台中市政府庁舎(旧台中州庁) 」
台中州庁(たいちゅうしゅちょう)は、かつて日本統治時代に官公庁として使われた建築物で、完工後はまず台中州の庁舎として使用され、第二次世界大戦後は台中市の行政機関(台中市政府)として使われました。
現在は市の市定古蹟に登録されていますが、最初に使われたのが日本統治下だったため、古蹟の名義も中国語での一般的な用法の「州政府」ではなく、日本語由来の「州庁」のままとなっています。
この庁舎は現在も行政機関として使用されており、中では職員の人たちが仕事をしていましたが、観光客は仕事の邪魔にならないように見学することが可能となっています。
日本では考えられない観光施設ですね。

・台中州庁舎の正面玄関です。


綺麗に整備された台中州庁舎の中庭です。


「日月潭」
日月潭(にちげつたん)は、台湾南投県魚池郷に位置する湖で、ダムを除くと台湾で最も大きな湖です。
名前の由来は、湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこのように呼ばれています。

日月潭は、「阿里山」「太魯閣渓谷」と並ぶ、台湾を代表する景勝地で、海抜787mにある台湾最大の淡水湖です。
台湾の英雄「蒋介石」も愛した人気の観光スポットで、その神秘的な湖面の美しさは、世界中から観光客が訪れる人気スポットとなっています。

この地には以前、故蒋介石総統の別荘「蒋公行館」がありましたが、1999年9月21日に発生した、台湾中部を震源地とする大地震で倒壊しました。
行政院は、この地を日月潭観光発展の起爆剤とするため、同地を国際観光ホテル予定地への地目変更を許可し、約20億元(約55億円)を費やして、ギネスブックの記録を上回る黄金を多用した高級リゾートを完成させたのだそうです。

・右側中央の岡の上の建物が故蒋介石総統の別荘「蒋公行館」です。


文武廟は日月潭の湖畔の中でも少し高い場所に位置しているので、文武廟の美しい屋根越しに日月潭の絶景を拝むことができます。

・文武廟から眺めた日月潭です。


「文武廟」
文武廟(ぶんぶびょう)は台湾で最も大きな湖として有名な、日月潭の北側の湖畔に位置する大きな廟で、学問の神、孔子と武の神、関羽、岳飛を祭っている寺院です。
黄色の屋根に赤い柱、各殿の門扉に描かれた極彩色の絵など、中国的な豪華さを感じさせます。

・文武廟です。



建立は1938年で、1975年に再建されました。
中国宮殿式の廟としては台湾で最大級のものだそうです。



建物は山門側から奥に行くほど高くなっていて、順番に「拝殿」「式聖殿(正殿)」「大成殿(後殿)」の三層構造になっています。
一番手前の「拝殿」は主要な祭祀を行う場所で、その次の「式聖殿」に三国志などでおなじみの「関聖帝君(関羽)」や「岳武穆王(岳飛)」が祀られており、一番奥の「大成殿」には儒教の創始者「孔子」が祀られています。



廟は前殿、中殿、後殿の三殿様式になっており、前殿は文廟で文の神である孔子が、中殿は武廟で武の神である岳飛や関羽が祀られています。

・拝殿です。


・彫刻が施されている美しい大成殿の天井です。


「大成殿」

正面入口の扁額には「大成殿」と書いてありますが孔子廟のことです。中央祭壇(孔子像)

この龍の彫刻も美しく、特に海外からの観光客に人気のスポットとなっています。


・中央祭壇。孔子像が祀られています。






台湾旅行(8)台中観光 「宝覚寺」

2019-05-09 | 旅行

逢甲夜市を散策後、宿泊したホテルは「永豊桟酒店」で、3泊目にして初めて「酒店」ホテルに泊まりました。
多分、このホテルは中国系の人が経営しているのかも知れませんが、「酒店」ホテルも部屋は広く、ダブルベッドがツインに並んでおり、「飯店」ホテルと何ら変わっているところはなく、ツアーにしては立派な部屋を用意してくれていました。
さて、今日は台湾第3の都市、台中市内観光から「宝覚寺」をご紹介します。

「宝覚寺」
宝覚寺(ほうがくじ)は、台中市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は鷲屏山、金色の弥勒大仏像(布袋さん)で有名なお寺で、日本統治時代の昭和3年(1928年)に建立されました。

旧正殿は鼓楼式建築で、日本式寺廟建築の伝統的な要素を残しています。
この建物を保護するため、周囲に大型のコンクリート建造物を建築し旧殿を包み込んでおり、日本の中尊寺金色堂と同様、外側を大きな白い建物で覆っているお寺となっています。

・白いコンクリートの建造物の中に木造の旧正殿があります。


「本尊」
御本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ:釈迦如来のこと)です。


「笑う大仏さま(布袋様)」
本堂の右手奥に、金色の大仏様が鎮座しています。
大仏といっても、日本の大仏様とは違って、大きなお腹に袋を持ってニコニコ笑っている「布袋様」です。

台湾では、「布袋様」は「弥勒仏」の化身だったというのが通説で、この大仏様も台湾では「弥勒仏像」と呼ばれているそうです。
足元には「皆大歓喜」の文字が彫られており、皆が喜んでいられるように、という願いがあるようです。



「英魂観音亭」と「霊安故郷」の建立由来記



「英魂観音亭」
英魂観音亭」という観音堂です
日本国、陸海軍、軍人、軍属として戦場に散った台湾戦没者三万三千余柱の英霊の鎮魂慰霊碑です。


「霊安故郷」
強制的に南方の戦地に出征させられた台湾人が日本人として使命感を持って、自ら出征した人の慰霊塔です。
題字の「霊安故郷」は李登輝元総統の揮毫です。


「日本人墓地」
これは日本統治時代に台湾で亡くなられた日本人の方々の共同墓地で、その数は1万4000名とも言われています。
第二次世界大戦の敗北で、以前の共同墓地が廃棄されそうになったとき、「宝覚寺」の方が慈悲の心でここに移設していただいたようです。




台湾旅行(7)台中市「逢甲夜市」

2019-05-07 | 旅行

前日に落石事故があったことから、タロコ渓谷の観光は中止しとなり、入り口まで行って引き返した後、私たちは旅程に従って、花蓮駅から在来線の特急列車で台北に行きました。
台北では、免税店で買い物をした後、台中市までをバスで移動したのですが、その間、台北市、桃園市、新竹市など台湾の市街風景を眺めながら3時間ほどのバスの旅を楽しみました。

・台北の駅ビルです。


「ザ グランド ホテル (圓山大飯店)」
バスの窓越しに眺めた「ザ グランド ホテル (圓山大飯店)」です。
円山大飯店(えんざん/まるやま-だいはんてん)は台北市に位置する中国建築が特徴のホテルで、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマークになっています。
かつては、世界の10大ホテルに選ばれる程の最高級ホテルで、外国の要人の方だけしか泊まれなかった由緒あるホテルだそうです。
詳細については旅程の5日目にご紹介します。



「逢甲夜市(ほうこうよいち)」
台北から3時間弱バスに乗って台中市に着いた頃には日が暮れており、その足で逢甲夜市を散策しました。
逢甲夜市(ほうこうよいち)は、台湾第三の都市・台中市の西屯区に位置する観光夜市で、1963年設立されたそうです。
ここの夜市は台湾最大の夜市の一つと言われています。

「夜市」
夜市(よいち、よるいち)は、主に中華圏や東南アジアを中心に存在しており、夕方から真夜中に営業する屋台、露店、雑貨、売店、移動販売などの集合体をいいます。
特に熱帯や亜熱帯地域においては、昼間の暑さを避けて比較的快適な夜に人々が外出するために夜市が発展しているようです。
お寺、大学、駅、公園、川沿いなどを中心に発展している事が多いということです。



「夜市の由来」
隋や唐の時代、市場は厳格な規制を受けており、官吏の管制で開店や閉店時間が決められていました。
その後、晩唐の時代に長安の崇仁坊で夜市が始まったと言われており、後に、洛陽、開封、揚州などに発展して行ったようです。

夜市は、東南アジアの熱帯および亜熱帯地域では、昼間の高温を避けるため夜市が自然に発展していき、庶民の憩いの場・生活の場として愛されていますが、特に台湾では夜市が観光資源として重要な役割を果たしています。
しかし、国が豊かになり、道路占有や食品衛生に関する法律が整備され、人々の嗜好も変化していく中、かつて日本の大都市から屋台が姿を消してしまったような事が起こる気配もあるということです。



「夜市の種類」
・「観光夜市」
観光夜市に明確な定義は無いが、国内外を問わずに多くの人を集めようとする夜市の事で、夜市の入り口の門に「○○観光夜市」と書かれていることがあります。
観光客が多く集まる大型のものから、地域に密着した小型のものまで幅広く、
台湾では、・南部台湾の中正夜市
       ・中部台湾の逢甲夜市
       ・北部台湾の公館夜市や師大夜市
などがあります。

・「屋台夜市」
屋台を中心とした夜市で、夕刻になると、道の両脇に屋台が次々と現れ、通りが夜市となります。

・「学生夜市」
学生を対象として学校の周りに発展した夜市を指します。
学生の授業時間、休憩時間、休日(夏休み、冬休み、連休、期間テストなど)に合わせて営業します。
交通の便が良く、規模が大きくなると、普通の観光夜市と遜色ない物もあるということです。



「逢甲夜市」
「逢甲夜市(ほうこうよいち)」は私立総合大学である逢甲大学前の商店街として始まったことから「学生夜市」でしたが、今では家族連れや国内旅行の団体さん、外国人ツアーなど様々な人々であふれかえっている「観光夜市」となって逢甲商圏をつくり、現在、台湾一大きな夜市となっています。
私たちが散策した当日も観光客であふれかえっていました。

・賑わう夜市です。


・豚の丸焼きロールやハムのネギ巻き、かわいいイチゴ飴などなど、色々な物が売られています。 
 でも、ガイドさん曰く、生物は食べない方がいいですよ!お腹をこわすかも知れませんから。 



台湾旅行(6)花蓮「太魯閣(タロコ)」

2019-05-05 | 旅行

北回帰線を見学の後は、今日の宿泊地である花蓮市に行きました。
ホテルは「花蓮煙波大飯店」で、この日のホテルも「大飯店」でした。

今回の台湾旅行において、出発前日の4月18日午後2時ごろに、台湾の花蓮県でM6.4の大地震が発生し、その震源地が花蓮市のタラコ渓谷付近でした。
この地震では17人が負傷しており、更に、4月19日にはタロコで韓国の観光客が乗った観光バスに落石があり、バスの屋根に大きな穴が開いて乗客が負傷すると言う事故があったことなどから、タロコ観光を実施するかどうかツアーを主催した日本と台湾の旅行会社が真剣に検討したようです。
結局、安全を最優先して渓谷の観光は中止となり、渓谷の入り口で引き返すことになりました。
そこで、「太魯閣(タロコ)渓谷」内容についてはネットから画像を拝借してご紹介します。

・韓国の観光バスに落石があった記事を載せている現地の新聞です。


「太魯閣(タロコ)」
太魯閣(タロコ)と呼んでいますが正式には太魯閣国立公園のことです。
太魯閣国立公園は台湾中部、花蓮県の山部にあり、南北に約38Km、東西に約41Km、総面積は9万2000ヘクタールに及びます。
そして、一番の見どころは、太魯閣渓谷です。
花蓮県を流れる立霧渓が太魯閣の大理石を侵食して形成された渓谷には高山、断崖、滝など豊かな自然美を見ることができます。

「名前の由来」
その昔、德魯古族人「Taruku」が中央山脈を東に向かって移動している際、高く険しい渓谷の姿が気に入ったため、そこに残り、泰雅族(タイヤル族)の人々と一緒に暮らしていました。
時が過ぎ日本統治の際、日本人は「Taruku」という音を発音出来なかったため「Taroko」という音に修正し、「大魯閣」という漢字を当てたようです。この漢字には勇者の開拓精神という意味があるそうです。
その後、国民党が台湾に来た後「太魯閣」と漢字を変更し現在に至ります。(名前の由来には諸説あります)

「タロコ渓谷入口」
太魯閣観光の出発地には中華風の赤い門が立っています。
この門には「東西横貫公路」と書かれています。この路は花蓮と台中結び、標高3000mを越える中央山脈を通る壮大な路となっています。
この路を右に折れればビジターセンターが、そのまままっすぐ行くと太魯閣渓谷に続きます。

・この入口までは行きましたが、これから先は危険と言うことで、私たちはここから引き返しました。


・ガイドさんの説明によれば、原住民の酋長の石像だそうです。


「タロコ渓谷」
タロコ渓谷は約4~5百万年前、フィリピン海プレートに属するルソン弧とユーラシアプレートの衝突によりユーラシアプレート上の堆積物が圧縮、隆起して山脈が形成され、台湾が序々に姿を現しました。
タロコ峡谷を通る中部横貫公路は手作業で岩を削って開いた道路だそうです。
1956年7月7日着工、連日5~6千人を動員し、台風や地震、豪雨の危険に曝されながら、死傷者の続出、機材の破損を乗り越えて、建設工費4億3千万元、3年9ヶ月と18日の歳月を費やして、ようやく1960年5月9日全線開通しました。

「燕子口(えんしこう)」
峡谷が最も狭まったところがこの燕子口です。
対岸の岩肌には水の浸食による無数の穴が開いていて、イワツバメが毎年この峡谷に飛来するため、この穴で巣作りをすると言い伝えがあります。

・これ以降の画像はネットより借用したものです。


・画像はネットより借用したものです


「大断崖」
大断崖は峡谷の両側にそびえ立つ高さ200mもの一枚岩です。
この岩は、横幅はなんと1.2kmにも及び、ここは道路建設で最大の難所でもありました。

太魯閣国立公園の大理石峡谷は、もっとも美しいと言われている場所で峡谷最大の見どころだそうです。
 湾曲した峡谷は幅が更に狭くなり、岩壁の大理石の美しい褶曲模様、断層、節理などじっくり鑑賞する事ができ、そして断崖絶壁の大理石狭谷の間を縫う様に美しい川が流れ、かつて人を寄せ付けなかった大自然の驚異が実感できるようです。

・画像はネットより借用したものです


「長春祠(ちょうしゅんし)」
断崖に沿って通る東西横貫道路建設は難航を極め、212名の関係者が殉職しました。
その霊を祀っているのが太魯閣国立公園入り口の近く、絶壁を背に建てられた中国風の建物、長春祠です。
この辺りは崩落しやすい地層のため、落石によってこれまでにも二度も全壊しており、現在のものは1997年に再建されたものです。

・画像はネットより借用したものです



台湾旅行(5)台東観光

2019-05-03 | 旅行

台湾旅行2日目の午後は、高雄市から台東市に入り、三仙台と八仙洞、そして北回帰線を見学しました。
この日の日程は、台湾の西南に位置する高雄から、南方遠くにバシー海峡を眺めながら東側に回り、北上して台東を経て花蓮までの約400㎞をバスで移動するものです。
今回はその中間に位置する台東市の観光をご紹介します。

〽 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
   故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

子供の頃よく聞いたり、歌ったりした童謡です。
この画像は、その童謡「椰子の実」で歌われている椰子の実です。
販売されている椰子の実は見たことがありますが、樹になっている椰子の実は初めてなので撮影してきました。

・これがヤシの実です。


「三仙台」
三仙台は台東市の北方約65㎞にある巨大な三つの岩が並ぶ観光名所です。
元々は火山岩からなる岬が海水の浸食をうけ、先端が離れ小島となったと言うことです。
三仙台の地質は都巒山(とらんざん)集塊岩(しゅうかいがん)、三仙台の面積は約22ヘクタール、一番高いところは約77m、歩道がありますが、ゆっくり散策するなら2時間は必要だそうです。
また、今は岩国の錦帯橋のような橋がありますが、橋がなかった頃は、観光客は引き潮時を見計らって海を渡って行ったということです。
この三仙台には伝説があって、それによれば、呂洞賓、李鐵拐、何仙姑の3人の仙人がここに来たということで、三仙台と呼ばれているそうです。

(参考)
都巒山は台湾東海岸に沿ひ、中央山脈に対峙して南北に縦走する台東山 脈南半の最高峯で、海抜1189.7m.の火山です。
集塊岩は大小の岩石塊を多数含む火山砕屑岩(かざんさいせつがん)の総称です。


「八仙洞」
八仙洞は、今回の日程では車窓からの観光となっていたため、バスの窓越しに洞窟の入り口だけの写真で紹介します。
八仙洞は重要な先史遺跡で、非常に豊富な旧石器時代先陶文化が発見されています。
この洞窟は、台湾において最古の先史文化遺跡であり、極めて重要な国家一級遺跡と定められており、「長濱文化」と呼ばれています。

地質景観と先史遺跡の両方を持っている八仙洞は、台東県長濱鄉三間村から海に面した崖の上にあって、自然に形成された十数個の海蝕洞窟があります。

八仙洞には各海蝕洞窟へ行く歩道があって、その中に最大な洞窟は靈岩洞,最高な洞窟は崑崙洞、高さは130メートルで、そのほかには乾元洞、朝宸洞、海雷洞、潮音洞、永安洞、水簾洞等があります。
洞窟はほとんど祭り場として作られていたので、洞窟の名前も宗教の意味が含まれているそうです。 

 


「北回帰線」
回帰線は地球上赤道の南北、緯度23度27分の緯線です。
北の緯線を「北回帰線」(又は夏至線)、南のを「南回帰線(又は冬至線)と言います。
北回帰線上では夏至の日に、南回帰線上では冬至の日に太陽が真上にきます。
これを極限として太陽は南又は北へ回帰します。
この両回帰線の間が熱帯です。

参考までに、南回帰線が通る国は、トンガ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンなど13カ国を通っています。
        北回帰線は台湾やハワイ、メキシコ、エジプトなど20カ国を通っており、日本も南硫黄島と沖ノ鳥島の間を通っています。



「熱帯・亜熱帯の境界」
北回帰線は北緯23度27分にあって、太陽が垂直に北半球を照らす場所であって、亜熱帯と熱帯の境界線でもあります。
毎年の夏至になると、太陽は白い塔に沿って東から昇って、西へ落ちて、その現象を観察するため、標識には細いラインが作られて、夏至の真昼になったら、太陽はちょうどそのラインに移って、塔の傍で立ったら、影がない珍しい体験ができます。

・塔の隙間が北回帰線上であり、これより南側(左側)が熱帯、北側(右側)が亜熱帯となります。



台湾旅行(4)寿山国家自然公園

2019-05-01 | 旅行

台湾旅行初日の日程は前回で終わり、この日は高雄のホテルに宿泊することになります。
台湾の市街地では大きなビルに「○○大飯店」とか「××大酒店」の看板が掲げられているのをよく目にします。
私は当初この看板を見て、「飯店」はレストラン、「酒店」は酒屋かな?と思っていましたが、台湾では共にホテルの表記として使用されていました。
では、ホテルに何故「飯店」と「酒店」の表記がされ、この二つにどのような違いがあるのでしょうか?
調べてみました。

ホテルに「飯店」と「酒店」を当てる理由
・「酒店」は、いわゆる酒場であり、酒をふるまうことをメインにしたお店ですが、 中国では、こうした酒場でも旅人を宿泊させていたところもあって「酒店=ホテル」の意味が強くなってきたようです。

・一方、「飯店」ですが、 元々、中国においてホテルというのは、旅人に食事やお酒を振る舞い、ついでに宿泊もさせるという意味合いが強かったようであり、そこからホテルに「飯店」という言葉があてられたと推測され、中国本土では20世紀初頭くらいまで「ホテル=飯店」が使用されていたと言われています。
しかし、近年になって食事だけを振舞う飲食店が増えてきたことで「飯店=ホテル」から「飯店=ごはん屋さん」という意味に置き換わっていったようで、今では中国本土においてホテルは「酒店」と表記することが多くなっているようです。 

中国と台湾の「飯店」と「酒店」の違い
このようなことから中国本土では「ホテル=酒店」と書き、
台湾では圧倒的に「飯店」が使用されていると言うことです。

台湾に飯店が多いのは、台湾は中国共産党との内戦の結果、内戦に敗れた国民党の蒋介石ら多くの政治家、官僚、軍隊が台湾に逃れ、台北を臨時首都として中華民国の政権を形成したことから、昔のまま「飯店=ホテル」というのが今でも主流として残っているという見解が有力のようです。

 なお、「大酒店」と「酒店」・「大飯店」と「飯店」の区分はホテルの大小を表現しているのではなく、高級ホテルをアピールする意味合いを込めて使用しているようです。

・宿泊した「福容大飯店」です。


・こちらは3日目に宿泊した「永豊棧酒店」です。


「寿山国家自然公園」
2日目の最初の観光は寿山国家自然公園です。
寿山(じゅざん)は高雄市の西南部に位置し、南北に走るサンゴ礁の上にできた丘陵地で、古くは麒麟山、埋金山、打狗山、打鼓山とも呼ばれた高雄市の天然のランドマークです。
もとは平埔族という原住民が狩りしながら暮らしていました。
平埔族(へいほぞく)は、台湾原住民のうち西部の平野部に住む民族を指す総称です。
山は緑いっぱいで、寿山公園、忠烈士、動物園、千光寺、法興寺、元亨寺などの観光スポットに恵まれています。

なお、寿山の名称は、1923年に日本の皇太子(後の昭和天皇)が誕生日をこの山で過ごしたことに因んで、それまでの名称である高雄山から、現行の名称である寿山へ改称した と言うことです。

カジュマルの木でしょうか?根がたくさんぶら下がっていました。珍しいので撮影しました。


「忠烈祠(ちゅうれつし)」
高雄市の忠烈祠は元々は日本人によって建てられた「金刀比羅神社」があった場所です。寿山公園そばの中国宮殿建築様式の忠烈祠には国民革命の烈士たちの霊が奉られています。
幾度もの修復や再建を経て、山門や正殿、前殿、廻廊、高楼などが増築されました。また、中国の伝統的な宮殿様式である黄金の瑠璃瓦も取り入れられ、建物全体は荘厳な雰囲気となっています。
高台からは港町の美しい景色を眺められます。



「高雄八五大楼」
寿山からの眺望です。
ここからは全高378mを誇る「高雄八五大楼」の高層ビルが見られます。
このビルはアジア有数の高層ビルで、港街高雄のシンボル的存在です。
タワー内は、ホテルとショッピングエリアになっており、展望台は74階で、展望台へのエレベーターは分速600mと、台北101ビルのものに次いで台湾第2といわれる速度を誇っているそうです。



「高雄港」
高雄港は、中華民国最大のおよそ1000万の20フィートコンテナを扱い、世界第12位の取扱量を誇る台湾を代表する港湾です。
台湾の南端に位置しており、鼓山区、塩埕区、苓雅区、前鎮区、小港区、旗津区に囲まれて高雄市に隣接している。
中華民国交通部から分割された台湾港務株式会社高雄港務支店によって管轄されている。
(参考)
20フィート海上コンテナ1つ分の容量は、長さ20フィート(6.096メートル)、幅8フィート(2.4384メートル)、高さ8.5フィート(2.5908メートル)です。