ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

思いばかり強くても

2008年11月17日 | 子育て広場「となりんち」
思いばかりが強くても
いけません

思いばかりが強くて
行動や言動に責任を持てないのは
いけません

思いに囚われすぎても
いけません

冷静に分析する技量がなければ
いけません

いけませんばかりでは
いけません

いけません
ねばならない
しなくちゃいけない

これらは
心を締め付けます
これらは
動きを鈍くします
これらは
私を縛り付けます

苦しくなります


でも
だけど
だって

この言葉も同様です

その後に続く言葉は
マイナスの気

そして
だから

この後に続く言葉は
プラスの気

だから私はこうありたい
だから私はあれがしたい

そして私はこれに挑戦してみよう
そして私は考えなおそう

思いが強い
だから
心が動き 体が動きます

行動や言動には責任をもとう
だから
私はいろんな人に助けをいただき
そして
自分を育てよう

思いに囚われがちです
だから
いろんな人からの助言を大事にしていこう

冷静に分析する技量に乏しい
だから
それを手助けしてくれる人に頼ろう
そして
その人からたくさん学ぼう

私は

学びながら
育てていただいています

ありがとう

まるで昔に戻ったような・・・

2008年11月16日 | これも自分あれも自分
今日は、市内のマクロビオティックのカフェである、
「宇宙(そら)の贈り物」さん主催のイベントに、フリーマーケット出店という形で参加させていただきました♪

そらの贈り物 3周年感謝祭
  「ハンド ハンド ハンド
    =み~んなで楽しむョ! 
       輪・和・話が広がるよ!=

いろんなワークショップ
  ヨガ
  足裏マッサージ
  誕生日占い(数秘学カウンセリング)
  自力整体

フリーマーケット
  ヘンプアクセサリー
  編み物コサージュ
  リサイクル服
  
手作り体験
  トールペイント
  粘土

出店 せんべい汁 カレーライス 玄米ごはん おでん コーヒーなど


楽しい楽しい一日でした。

朝9時半すぎに、子ども達二人を連れて出発しました。
少し迷いながら、到着。
フリマの準備にとりかかる。

開催場所を提供してくださった方が、とても丁寧に対応してくださり、場所のみならずテーブルやはしご等まで貸してくださり、たいへん心地よく出店することができました。ありがとうございます。

隣りには、友人も出店し、心強い。そして、なんだか嬉しい。

私は、一応自分の持ち場にいながらも、せんべい汁を次女と一緒に食べながら、お客さんとしゃべりながら、隣りの友人とおしゃべりながらと、目的は販売ではなく、その時間を楽しむこととなっていました。

お客さんは、大勢来られたわけではないけれど、来た人来た人たちとおしゃべりし、声をかけました。

出店者同士での交流が、なによりも楽しかったです。
いろんな会話の中に、新しい発見や、思いの交換がありました。

この場所にいながら、ふと思い出したことがあります。
それは、山口で働いていた「てとてと」のこと。
「てとてと」でのイベントや、「てとてと」での仕事のときの気持ちや動きや感覚と、とても似ていたのです

懐かしい感じがしました。

一応時間の制限はあるけれど、その中ですることの制約がきつくない空間。
ゆる~りな空間。
ここで出店してはいても、出店しながら売れても売れなくても気にしなくてよくて、どんな人と話しても自由で、子ども達も自由に遊びまわっている空間。

私の居心地のいいところのキーワードは、「自由」なんだなと、改めて実感した瞬間でした。

そして、ここで発っせられる言葉たちが、ポジティブとプラスの言葉がけであるということも、私の居心地のいいところのポイントです
「言霊」たちが明るく光って、互いに互いを認め合い、互いの気持ちを高めあう、そんな空間でした。

これは、「そらの贈り物」さんのなせる技!なのだと思います。
とてもよい「気」をたくさんいただいて帰りました。
声をかけていただいて、ありがとうございました


自宅に帰って、夕飯の最中に長女が言いました。

「今日のそらさんのイベントのとき、ママね、てとてとにいた時みたいに楽しそうだったよ。
私もね、なんかてとてとで、あんな同じ年くらいの男の子と遊んだり、口げんかしたりしたなぁって、思い出したよ。
でね、Hちゃんがここにいればなぁって思い出したらね、涙が出そうだったよ。」

と、うるうるしながら話してくれました。

そんなこと言ったら、私もうるうるしそうになって・・・。
ここに書いている今も、ありゃりゃ、うるうるしてしまう・・・。

望郷の思い・・・。

それほどに、充実した一日だったのです。
本当に、そらさんも、そして開催場所を提供してくださった方も、出店していた方も、来てくださった方も、みんなありがとーーーーーー

子育て広場となりんち

2008年11月15日 | 子育て広場「となりんち」
毎週金曜日に行っている、「子育て広場 となりんち」。

そう、未だに続いていることが恐ろしい!?くらいに、定着しています。

Wellさんに掲載された後数ヶ月間は、初めて来られる方々で恐ろしく混雑していましたが、今は以前のゆったりとした時間と空気の中で、くつろぐ環境に落ち着いてきました。

あの混雑の中で、以前から来て下さっていた方々が、ぱたりとお顔を見せなくなってしまったということがあります。
ゆったりとした空間がよくて来てくださったのかもしれず、本当に申し訳なく思っています。
くつろぐどころか、疲れたり、嫌な思いをされたり、悲しく思ってしまったのではないかと、私の至らぬ行いに、心からお詫びいたします。

このように広報してしまうことで、場所が狭いのと、週に一度しか開かないという関係で、どうしても人が集中してしまいます。予想はしていたのですが、実際に本当にあんなに来られるとは、私の予想は甘かったと反省せざるを得ません。

開催が週に2回3回となると、少しは分散されて利用しやすくなるのにな、と思ったりもしました。
そうすればもっと多くの方々に来てきただいて、子育ての手助け・出会いの場・悩みの解決の場に使ってもらえるのになと。

多くの方に来ていただきたいというのは、
より多くの子育て中の方に支援を広げたいという思いです。

開催を週に数回にするには、ボランティアだけではお手伝いの人員の確保が難しくなってきます。
週に一度の活動だって、今まで手伝ってくれたスタッフの方々の熱心な気持ちのお陰で成り立っていました。私はそれに甘えていたと思います。発信者である私は、続けていく気持ちの核があります。お手伝いの方々は、人助けという奉仕の気持ちで続けています。
無償で続けてお手伝いに来て下さっていることに、私は感謝するしかありません。

子育て環境をよくしたい!という強い信念は、外部環境にあまり影響はされません。
反面、奉仕という気持ちは、環境の変化に影響されやすいものかもしれません。その影響されやすい気持ちを、引っ張っていき、まとめ、認めていく仕事は、発信者の役目です。吸引力・指導力が不可欠です。
私は、その部分が苦手かもしれません。

全員がボランティアでも、しっかりとつながって、まとまって活動している団体はたくさんある中、私の課題はここにあるなと思います。

継続的かつ効率的に開催しようと考えるならば、有償でお願いする方法に切り替えなければ、人材の確保はできない、と常日頃から思っていますが、本当に有償になれば人は自ずとまとまるのか?という疑問もあります。

が、2年前のアピオで杉山千佳さんが講演会でおっしゃっていた、
「単なるボランティアでよければ、それをすればいい。
だけど、せっかくのよい活動を続けるには、
それなりの経済力をつけなければ、よい活動も続かない。
これからのNPOは、自分たちでマーケティング力を
つけ、強いNPOになることを考えるべきだ。」

という点は、否めません。

子どもがある程度大きくなると、皆、生活のため、教育費捻出のためと働きに出ていくようになります。
それを反対するつもりは毛頭ありません。
しかし、このような市民のための活動に時間と心を費やすNPOで継続して活動している貴重な人材を、一般企業や会社に出してしまうのは勿体ない気がします。

そうであるならば、有償で続けていけるような団体が存在することが必要であるように感じます。
人のためという「奉仕」と
それに見合う「報酬」とが得られたとき、
その人材は更なる魅力を高めて、よりよい社会環境へとつながっていくのかもしれないと、ほんのりと思います。

子どもへの暴力と 自分の親との関係

2008年11月13日 | これも自分あれも自分
子どもへ暴力を振るったこと、ありますか?
手を挙げること
足で蹴ること
物を投げつけること

無視すること
傷つけるようなことを言うこと
いじわるをすること
子どもの日記を見ること

ここに挙げたことはすべて、私はしたことがあります。
子どもが泣き叫び、「ごめんなさい!」と叫んでいても、止めなかったこともあります。

そんな私は、異常でしょうか?

暴力をふるっている時分は、正気は失っているかもしれません。なぜなら、冷静に「やめなくちゃ」「私は何をしているんだろう?」と頭の中のもう1人の自分が考えていても、体や手や口の動きは止まらないからです。
ここでもし、裁判になるようなことになっていたら、この冷静なもう1人の自分の存在のいることで、精神衰弱とは見なされず、責任能力があったとして、刑を受けなくてはならないのだろうな、ということまで考えていたりします。

そこまで冷静沈着なのに、なぜ、止められないのでしょうか?

こんな私は、いえ、こんな私だけが異常ではないと思います。これを読まれた親ならば、もしかしたら私と近い感情を持ったことがあるのではないでしょうか。
ただ、こんなことは公言することではなく、我が家の中の秘密にしておくことの方が多いというだけなのではないでしょうか。

外ではいい母親・よき父親に見えていても、家の中ではイライラし、ムカムカする時だってあるものです。そんな時、思わず家庭の中の一番の弱者である子どもへと、そのイライラの矛先が向けられてしまうときがあるのです。

私の場合、たいてい決まっているパターンがあります。
自分の体調が悪い時、やりたい作業が滞っている時、パソコンで遊んでいる時、子どもの相手をしたくない時など、自分自身に焦点が当たっている時に、子ども達が何か注文をしたり、お願いしたり、ケンカして騒いだりしてくると、途端に頭が血が昇って、般若の顔に変貌してしまいます。


私が怒りに任せて初めて怒った時、自分の親にそっくりだなと感じました。親から受け継いだのは、要旨や考え方やしゃべり方だけではなく、叱り方、怒りのパターンもだったのです。そして、怒りという嵐の中で私は、親に似ている自分への情けなさと、そこから抜け出したいという叫びとで、もがきます。

「私は親から、こんな風に育てられた!!だからこれくらいしても、我慢できるでしょう!?」

そう思ってしまう時もあります。
でもこれは真実を言えば、

「誰か、この嵐から抜け出させて!私の親とは別な人格なはずなんだよね!?」
と言いたいのではないだろうか?


「これが当たり前の子育て!これが私の育った環境!何が違うの!?」

こう考えて、正当化しようとする時もあります。
でもこれも、心の中の素直な気持ちは

「助けて! 誰か気づいて! 私はこんなことしたくない!」
なのではないでしょうか?


私のしてきたことは、児童虐待に入るでしょう。
ただ、怒りの途中で気がついて、怪我をする前に止めるとか、あざを作るまで叩く、怪我をさせるくらい強くぶつ、食事を与えないなどとエスカレートするまでには至っていないだけで、その境界線はとても曖昧なものではないかと思います。

虐待をする親に、「叩かないで!」と言っても、その心は届かないと思います。かえって、自己嫌悪に陥り、そのやり場のない気持ちをまた、子どもへと向けることになりかねないからです。
明らかに子どもへの健康被害が生じている場合は、即止めるように強く言うべきですが、そうではない虐待であれば、親へ禁止をするのではなく、その親の抱えている問題を解決するように、親の話すことに傾聴することがまず必要なのではないだろうかと思うのです。

「あなたは、何を抱えて生きてきましたか?」
「あなたは、何に怒りを抱いていますか?」
「子育て、思うようにいかないですよね。毎日たいへんだと思います。
 よく頑張っていること、分かりますよ。」
「何かお手伝い、できることがあるかもしれないから、連絡をください。」
「よく頑張ってこられましたね。あなたはもう1人じゃないです。いつでもいらしてくださいね。」

そんなふうに話を聞いてくれ、癒してくれる人と場所があればいいのですが。
その人にとって合う人と場所は、千差万別ですから、千差万別の人と場所とがあるといいのですが。

私は、子どもが大きくなるにつれ、少しずつですが暴力を振るってしまう自分と卒業しつつあります。
それは、子どもが育ってきたからということもあるかもしれませんが、自分の気持ちを聞いてくれる友人たちがいること、人の気持ちを聞くというスキルを学んだこと、子どもの成長について勉強したことがかなり影響していると思います。

子どもと私とは別の人格であるということを、真から理解することで、かなり楽になりました。
子どもを産んだからといって、すぐにプロの親になれるわけではありません。育てながら親になっていくものだといいます。
でも、地域のつながりの強かった一昔前なら、自分だけでなく、近所の方々、親戚の方々に育ててもらいながら親になれたのだと思いますが、現在はその地域状況がすっかり変わってしまいました。
現在子育てしている私たちは、地域内では孤独で、だけど「いい親」であることを望まれているから、しんどいです。

だからこそ、子育てのスキルを教えてくれる場所が必要だし、誰もが無料で、しかも出来る限りすべての人への教育が必要でないかと思います。
子どもの発達のこと、子どもとのコミュニケーション方法、人の話の聴き方、思春期へとつながる幼児期の子育てなど、学んだ方が子育てが楽になることは、たくさんあります。

昔、近所のおばちゃんたちが教えてくれていたことを、今はセッティングしていかなければならない時代になっているということなのです。

児童虐待は、社会ではぐれた親たちの叫びだと思います。






ポンポン玉と水晶

2008年11月13日 | これも自分あれも自分
我が家には、越してきてからずーっと何か気配を感じる箇所がある。

裏が廃屋の病院が建っていたこともあるのかもしれないと、あまり気に留めないようにしていたが、その病院が解体された今でも、その薄気味の悪いところはそのままだった。

とうとう、次女が
「怖いからトイレに行きたくない!」と言い出した。
しばらくずーっと、誰か大人が一緒に行かないと、トイレに1人では行かなくなってしまった。
暇な時は付き合うも、家事や電話や用事を済まさなければならないときは、とても億劫だった。

最近、いろんなスピリチュアルな本を読み漁り、その中に共通していたのが、
ー空気が滞るところには、照明を点けたり、観葉植物を置いたり、水晶を置いたりするといいー
というものだった。

我が家の滞る場所は、ちょうどトイレの前、そして洗面所・浴室へと続く短い廊下だった。
狭い廊下に、たまねぎや大量のさつまいもを入れてあるダンボール箱は置いてあるけれど、そこに観葉植物を置くスペースはなく、一応借家なので、照明器具をつけるわけにもいかなかった。

よし!と考えた挙句、水晶をどうにかして置くことに決めた。
どのような形のを、どのようにして置くのがスペースを取らず、空気を浄化することができるのか考えながら、毎日を過ごしていた。

とある手芸屋さんで、ふと目に留まった羊毛でできた、まん丸がいっぱい付いたすだれ

とっても可愛くて、大好きなまん丸という形に、思わず「これだ!」と思ってしまった。
道具を買う。
帰宅して、とにかく羊毛に針を射す、射す、射す、射す・・・。

できたポンポン(我が家ではこう呼ぶようになった)7色を、オーガニックの毛糸に通して、出来上がり!!

そして、お花が終わった紫陽花の枝を適当に折ったものに、この初代ポンポンと水晶のネックレス(これも購入)とを並べてかけて、空気の滞る場所へぶら下げた!

すると、ぶら下げた瞬間から、そこの空気はさーーーーっと綺麗になっていったのだ

不思議なパワーだなぁ。

これがあるおかげで、我が家の臆病な次女も、夜だって1人でトイレに行けるようになった!
なんだか嬉しいこと

水晶は、使用する前に月の光で浄化した。

我が家のパワースポットになったかも!?

おススメです。

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