今日でちょうどあの大震災から3年がたつ。
まだ3年しかたってないのかという思いの方が強い。
あの時僕はちょうど横浜で地下鉄から降りた直後だった。
地震の多い関東に40年近く住んでいる僕もあれほどの揺れは経験したことがない。
しばらくたつとすべての乗客が電車から降り地上に向かった。電気も落ちて非常灯だけになった。
その時僕は足元がおぼつかないお年寄りの手を取って階段をゆっくりと上がっていた。天井が落ちるのではないかという恐怖があり、内心一刻も早く地上に出たかったが、この人をここにおいて逃げるわけにはいかないという思いが僕を押しとどめた。
今だからそう思うのではなくあの時確かに「もしかしたらここで死ぬかもしれないな」と思った。
そして今でも信じにくいことだが、もしそうなったらそれはそれで俺の運命だ、とにかくこの人を置いて逃げるわけにはいかない、と思っていた。
もしあの時本当に屋根が落ちてきていたら、今頃僕はここでブログなど書いてはいなかっただろう。厚いコンクリートの下敷きになっていたかもしれない。
自分のどこにそんな強さがあるのか、今思っても分からない。とにかくあのときはそう思っていた。
先日柳田邦夫氏の本を読んでいたら、震災の時のことが書かれていて、やはり仲間を逃がして一人だけ残り亡くなった消防団の人、役所で同僚が屋上に避難した後も町内に拡声器を通じて避難を呼びかけ続けて、最後は津波にのまれて亡くなった女性のこと、津波が来ているのを承知で老夫婦のもとに向かっていき亡くなった訪問看護師の方のことなどがつづられていた。
僕がもしあの震災を経験しなかったら、それらの人を深く尊敬しつつも、同時にそれらの人は特別にやさしく、特別に責任感が強く、特別に強い人なんだろう、と思っただろう。
だが今、状況の深刻さは違っていても、やはりほぼ同じ時刻に同じように命の危険を感じていたものとして、彼らは特別な人々なのではなくごく普通の人々だったのではないか、と思えてくる。柳田氏も、人は他者のために命まで投げだせる存在なのだ、と書いていた。
自分という人間を省みても、また他者というものを表面的に見ても、この柳田氏の定義は僕を混乱させる。
しかし、自分でも体験してしまっている以上それは事実なのだと認めざるを得ない。
それは事実なのだ。
あの大震災を共に経験しつつも、僕はたまたま東北地方からほんの数百キロ離れていたということだけで生き残り、東北にいた人々はたまたまそこに住んでいたというだけでなくなった方もいる。このことの不思議さは上記の体験をしている僕には、何か背中の方から冷たいもので撫でられるような恐怖とともに感じられてくる。
ちょっと状況や立場がずれていたら僕も彼らと同じ運命をたどっていたかもしれないのだ。
あの後、電車での帰宅は無理と判断し、すぐにレンタカーを借りて(それも最後の2台で、しかももう一つのほうはカーナビがついてない方だった、普段運転しない僕はカーナビがない場合帰宅はできなかっただろう)果てしなく続く渋滞の中帰路につき家に着いたのは7時間後だった。途中、渋滞のため橋の上に長く停車したまま、余震のたびにゆっくりと揺れる車内でなんども背筋が寒くなことは今でも忘れない。
死は僕をかすって行った、という感覚がある。
たまたまなのか、それともまだやることがあるからなのか、僕には知る由もない。
ただそれは、人間というものの不可知さ、というものだけを僕の中に残していった。
まだ3年しかたってないのかという思いの方が強い。
あの時僕はちょうど横浜で地下鉄から降りた直後だった。
地震の多い関東に40年近く住んでいる僕もあれほどの揺れは経験したことがない。
しばらくたつとすべての乗客が電車から降り地上に向かった。電気も落ちて非常灯だけになった。
その時僕は足元がおぼつかないお年寄りの手を取って階段をゆっくりと上がっていた。天井が落ちるのではないかという恐怖があり、内心一刻も早く地上に出たかったが、この人をここにおいて逃げるわけにはいかないという思いが僕を押しとどめた。
今だからそう思うのではなくあの時確かに「もしかしたらここで死ぬかもしれないな」と思った。
そして今でも信じにくいことだが、もしそうなったらそれはそれで俺の運命だ、とにかくこの人を置いて逃げるわけにはいかない、と思っていた。
もしあの時本当に屋根が落ちてきていたら、今頃僕はここでブログなど書いてはいなかっただろう。厚いコンクリートの下敷きになっていたかもしれない。
自分のどこにそんな強さがあるのか、今思っても分からない。とにかくあのときはそう思っていた。
先日柳田邦夫氏の本を読んでいたら、震災の時のことが書かれていて、やはり仲間を逃がして一人だけ残り亡くなった消防団の人、役所で同僚が屋上に避難した後も町内に拡声器を通じて避難を呼びかけ続けて、最後は津波にのまれて亡くなった女性のこと、津波が来ているのを承知で老夫婦のもとに向かっていき亡くなった訪問看護師の方のことなどがつづられていた。
僕がもしあの震災を経験しなかったら、それらの人を深く尊敬しつつも、同時にそれらの人は特別にやさしく、特別に責任感が強く、特別に強い人なんだろう、と思っただろう。
だが今、状況の深刻さは違っていても、やはりほぼ同じ時刻に同じように命の危険を感じていたものとして、彼らは特別な人々なのではなくごく普通の人々だったのではないか、と思えてくる。柳田氏も、人は他者のために命まで投げだせる存在なのだ、と書いていた。
自分という人間を省みても、また他者というものを表面的に見ても、この柳田氏の定義は僕を混乱させる。
しかし、自分でも体験してしまっている以上それは事実なのだと認めざるを得ない。
それは事実なのだ。
あの大震災を共に経験しつつも、僕はたまたま東北地方からほんの数百キロ離れていたということだけで生き残り、東北にいた人々はたまたまそこに住んでいたというだけでなくなった方もいる。このことの不思議さは上記の体験をしている僕には、何か背中の方から冷たいもので撫でられるような恐怖とともに感じられてくる。
ちょっと状況や立場がずれていたら僕も彼らと同じ運命をたどっていたかもしれないのだ。
あの後、電車での帰宅は無理と判断し、すぐにレンタカーを借りて(それも最後の2台で、しかももう一つのほうはカーナビがついてない方だった、普段運転しない僕はカーナビがない場合帰宅はできなかっただろう)果てしなく続く渋滞の中帰路につき家に着いたのは7時間後だった。途中、渋滞のため橋の上に長く停車したまま、余震のたびにゆっくりと揺れる車内でなんども背筋が寒くなことは今でも忘れない。
死は僕をかすって行った、という感覚がある。
たまたまなのか、それともまだやることがあるからなのか、僕には知る由もない。
ただそれは、人間というものの不可知さ、というものだけを僕の中に残していった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます