気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

もう春か

2014-03-23 22:54:14 | 日記
 もう春が来ているんですね。世間では。
毎年残酷なほど正確にめぐってくる季節。
 僕は今現在は健康だが、やはり5~6年ぐらい前から季節の変化に敏感になっている。

 それは、自分の残り時間というものを考えさせるからだろう。
すでに折り返し地点はとっくに過ぎている。僕の家系は長寿な人が多いので、僕も先祖のように運が良ければまだ時間はたくさん残っているはず。
 にもかかわらず、怖いのだ、この世を去るのが。

 桜の木の下にはたくさんの死体が埋まっている、とかなんとか書いたのは短編の名手、梶井基次郎だった。
最初この言葉の意味がよくわからなかったが、今ならなんとなくわかるような気もする

 しかしそれにしてもなぜこの世を去るのが怖いのか。

 たとえうまれかわったとしても、もう2度と●●●●としての生はないだろう。
この感受性も、この性格(たとえどうしようもない部分を多く持っていても)も、この容姿(平均と比較してひどく醜くはないにせよ、美しくもないもの)も、この記憶(素晴らしいものをたくさん持っているにしても、今すぐ生ごみとして捨てたいものもたくさんある)もやはり愛しいのか?

 Bashar(詳しくはYoutubeを参照)によれば、死というのは、ちょうど夢から覚めた時のような感覚だという。
夢を見ているときのあのボヤ~ンとしたとりとめのない意識から、夢から覚めてはっきりものが見え、周りの環境をはっきり知覚できる覚醒した時のような意識になるという。
つまりは、生きている今が夢のようなものであり、死後が覚醒した状態だということである。

 しかし、そうだとしても死に対する恐怖は消えやしない。
自分が死というものを経験した後も、「継続した自分として存在しているのか」…ここなのではないか、ポイントは。
 自我というものへの限りない執着。

 超自然現象といわれるものもいくつか経験し、ニューエイジ(精神世界)といわれる分野の知識もたぶん普通の人よりは多く持っている僕でも、死が存在の消滅ではないということを信じきれない。
 自我というものへの限りなき執着。まさにこの執着の強烈さが転生を生み出す力となっているのかもしれない、2500年前ブッダが語ったように。

 自我…じぶん…おれ…あたし………おれのもの…あたしのもの…おれのものじゃない…あたしのものじゃない……ある…ない…ある…ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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