昨日、鹿児島に住む小学生の甥っ子から、
鹿児島の北の方にある獅子島で化石ほりしてるんだ、
海がとっても綺麗だよ、と写メールを貰いました。
クジラたちもゆったりと周遊する鹿児島の夏の海は
光透き通り、海の青深く、とても綺麗でした。
余りにきれいだったので、親しい数人にシェアすると
皆からもすぐに各地の海の様子が送られてきました。
一人は沖縄の海。
一人は神戸の海。
どの海も綺麗です。
数か月前、海の底が大きく揺れて、穏やかな海は大きな津波になって大地を襲いました。
失われたいのちは尊く、逝った人も、残された人も、心の中の悲しみの深さは計りしれません。
昔、ネイチャーと言う映画のキャッチコピーで
「人間は自然を愛しているが、自然は人間を愛していない」
と言うのがあり、あの日、それがふと頭をよぎりました。
地震と原発で恐怖症が増し、それ以外の想いでココロ圧迫されることもあるなか、
時に「これは一体どういうことなのか?」と問う事があります。
誰かにどうしてこんなことになったんだ?と聞くのではなく
何故これが必要であったのか?と自分で考えてみるのです。
自分の中で答えを導き出せることもあれば、無いこともあります。
それでも答えを考えずにはいられないのです。
そんな思いを巡らせながら、海の写真を見ました。
「日本の海は綺麗」
と、ただ単純にそう思いました。
そして、この海は世界と繋がっているのだ、
分け目などは存在していないと思いました。
で、あれば、あの災害は皆のものだ、と。
この綺麗な海は全ての人のものだ、と。
そして海は海のものなんだなぁ、と。
自然を深く思う時、海や自然と人の関わりは
人間同士の関わりとまったく同じなんだと気づかされます。
自然は人間と同じ形でないから、人はそう思えなかったりするけれど。
相手を想いやらねば、相手は穢されてゆき、
そしてそのつけは自分たちに何かの形で戻ってくる。
敬い、大事に接すれば、同じように相手も愛を返してくれる。
同じです。
いえ、同じではないですね。
自然はもっと愛が深い。
人間に命を与え、命をかけて教えてくれます。
人間と同じ言葉がないけれど、あきらめずに行動で示します。
海や川や道端で角の丸くなった石を見る時、
波や流れが繰り返されるのを見る時、
その長い長い繰り返しに尊敬のため息が漏れます。
人間はそんな風には待つこともできず、
続ける努力もなかなか出来ないから。
人と関わる時、そんな揺れは何度も襲います。
関わりがあればある程に、思いは大きいから余計です。
でもねぇ、人間はなかなか根性もなく…。
時にはそんなすごさに凹み加減の私に、生命の環はあきらめない。
繰り返し命の営みと永遠に成長する努力の大事さを教えてくれます。
何度でも、何度でもやればいいじゃないか?
何度でも生まれ、死んで、成長すればいいじゃないか?
駄目なのは芽吹いた自分の成長を自分で止めてることだよ、と。
人が生きているいのちとして自然を見つめた時
そこにはまぎれもなく愛が生まれます。
そして感謝すべきことを心が知った時、心から愛することができます。
その愛を知った時、愛を返さずにはいられません。
多分、人も同じですね。
これから美しい日本を繋いでいくのは、
人間の愛する心が大事ではないか、と思う今日この頃です。