は~いどうもこんばんは! そうだいです。いやはやなんとも、今日は暑かったですねぇ! 今日にかぎっては夏みたいになっちゃいました。
ただ、日が落ちてからはだいぶ涼しくなって過ごしやすいんですけど、夏はそうはいかないんですよねぇ~、たぶん今年も。熱帯夜はイヤだよぉホントに。
本日土曜日は、私にとっては久しぶりになんの予定もない丸1日の休日になったんですけど、それなりにうろうろ買い物などもしていたんですが、ひとつだけ後悔していることがあるんですなぁ~。
映画の『富江 アンリミテッド』、見すごしちゃった……
実はねぇ、当初の予定としては今日観る予定だったんですが、なんと劇場公開は昨日まででしゅ~りょ~! 千葉も新宿も横浜も終了。
えぇ!? ちょっと待って、『富江』は先月の5月14日からの公開だったんでしょ? それで昨日6月3日でおしまいって、そんな殺生な。なにもいっせいに終わんなくてもいいだろ~、ちょっとずらすとかぁ。
日本でもあの山村貞子、佐伯伽椰子と並んで有名なホラークイーン・川上富江! 名前はやたら地味だけど超クールビューティ。そんなミス富江の待望の劇場版第8作が、映画館で1ヶ月もやってないなんて……
しかもアレでしょ、『富江 アンリミテッド』には、今をときめくAKB48の多田愛佳(おおた あいか)さんも出演してるんでしょ? 多田さんと言えば、のちのちこの「アイドルグループ史」でも取り上げることになるであろう、AKB48のグループ内ユニット「渡り廊下走り隊」の重要なメンバーときたもんだ。もうちょっと長めに公開しても良かったんでねぇの!?
後悔先に立たず。無念です。去年、この『長岡京エイリアン』でも富江さんたちホラー3人娘についてあんなに盛り上がったのに、その最新作を観に行けなかったとは!
こんなことになるんだったら、先月に桜木町に行った時に『ブラック・スワン』じゃなくて『富江』のほうを観ておけば良かったなぁ、ホントに。どっちもコテコテドロドロなんだしねぇ。『ブラック・スワン』は今もどこでも観られるし。
これからは、作品への期待値だけじゃなくて「いつぐらいまで公開してるのか」もちゃんと考えて観る映画を選ばなきゃあいかんな。いい勉強になりました。
え……『富江 アンリミテッド』、今月の18日から群馬の伊勢崎の映画館で公開するって?
伊勢崎ってあなた……おとなしく、DVDのリリースを待つことにいたします。
ささ、今回もいっぱついってみっかぁ。「アイドルグループ史」の続きに入るといたしましょう。本格的に暑くならないうちにしあげちゃおう!
1980年代中盤以降に日本に到来した「第2次ディスコブーム」。そこで流される楽曲の主役となったのは軽快なリズムの電子楽器にいろどられた洋楽ユーロビート。
そういえば、そのへんの影響も受けてのことか、当時の日本のアイドル界や歌謡界でも、洋楽に日本語歌詞をのせたカヴァー曲を唄うことが流行していましたね。ウインクとか荻野目洋子さんとかベイブとか。
そして、そんな「第2次ディスコブーム」やそれへの対抗馬としてやって来た「ジュリアナ東京ブーム」にのっかって力をつけてきたのが、それらで使われるユーロビートやレイヴテクノの楽曲CDを輸入・販売していたレコード会社「エイベックス」(1988年創業・もちろんのちのエイベックスグループ)。
で、そのエイベックスが1993年に送りだした日本初のレイヴダンスグループこそが、あの小室哲哉プロデュースのtrf(ティーアールエフ 現・TRF)だったということで。
小室さんは、当時まだ自身がリーダーをつとめる3人組音楽ユニット「TMN」(1983~90年は「TM NETWORK」、その後に改称)としての活動を続けていたのですが、かなり早い内からそれと並行して、他のミュージシャンへの楽曲提供(渡辺美里の『MY REVOLUTION』など)や映画・ミュージカルなどの音楽プロデュース(『天と地と』とか、『ぼくらの7日間戦争』とかね!)などといった「作曲家・小室哲哉」としての活動もおこなっており、そんな「若き天才(当時30代半ば)」にエイベックスが依頼したのが、
「Tetsuya komuro Rave Factory」
つまりはtrfの音楽プロデュースということだったのです。
CDデビューした1993年当初は、10人組だったりツインヴォーカルだったりもしていたtrfだったのですが、初めてミリオンセラーを記録することとなった6thシングル「survival dAnce」(1994年5月)のころには、2011年現在にいたるまで続いている「ヴォーカルYU-KI(ユーキ)とDJ1人、ダンサー3人」という5人メンバーに固定されることとなりました。以後、trfは10thシングル『Overnight Sensation 時代はあなたに委ねてる』(1995年3月)まで5シングル連続ミリオンヒットという栄光に輝き、1998年に小室哲哉プロデュースから離脱するまで、trfは「小室帝国」の屋台骨であり続けていたのです(その後もときおり小室さんのプロデュース曲は発表している)。
もともとレイヴダンス発祥の地だった「ジュリアナ東京」は1994年8月に勝ち逃げのような形で閉店しているのですが、1994年4月をもって自らのTMNの活動を(いったん)終了させた小室さんはプロデュース業に本腰を入れていくことなり、そのすぐ後の7月にリリースしたご存じ篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』の異常なまでのメガヒットをもって(累計220万枚)高らかに「レイヴミュージック」中心の小室ファクトリーの勃興を宣言することとなりました。
まぁ~trfはDJ KOOにダンサーのSAMという、れっきとした「漢(おとこ)」がいるグループなので、本来この「アイドルグループ史」で取り上げるべき対象ではないのですが、彼らの時代におよぼした影響のほどは大変なものがありました。「レイヴダンスグループ」というジャンルの目新しさもそうなんですけど、なんと言ってもそんな彼らが日本の歌謡ヒットチャートのトップを幾度となくとったという事実が素晴らしいのです。
しかも、失礼を承知で言わせていただきますれば、1993年CDデビューの時点で、メンバー5人の年齢はいぶし銀の26~32歳!
やるなぁ~。そんなみなさんが激しく唄って踊り、なんと20年近くたった現在でも現役だっていうんですから。もうすでに「古武士」のような風格がありますね。純粋にその存在がカッコイイ。
ただ私は、そのころお茶の間で初めて彼らに遭遇した時の衝撃を、今でも色鮮やかに記憶しています。
普通の音楽番組のはずだったTVの中から突然として聞こえてきた耳慣れないズンズンズビズバふぉう!のリズム。そしてそれに合っているのかどうかもわからない激しさで一心不乱に踊り狂う男女の集団。祖父母から私まで3世代の家族は凍りつきました。
「かいずぁなんだず……猿コみでぇな。(彼らはいったい何者なんだ……まるで猿のようじゃないか。)」
誰からともなくもれたこのコメントに、思わず私もうなずいてしまっていたものです。
だって、なんかやかましいしサビもへったくれもなく盛り上がりっぱなしだし、歌詞もほとんど英語でなに言ってるのかもわかんないしいつ終わるのかもわかんないし……間違いなくこれまでの「ポップス界」にはなかった何かであることはわかったのですが、当時の私はとにかくわけもわからずビックラこいていたものです。
さて、「猿」と言えば、当時1990年代中盤にはもうひとつの「猿」をイメージさせるグループが、trfと時を同じくして大人気となっていました。
そう、はるばる沖縄からやってきた「モンキーズ」ね!
SUPER MONKEY'S(1992~96年)5人組
15~21歳 安室奈美恵(15歳)・Nana(16歳)ら
言わずと知れた「沖縄アクターズスクール」出身グループ
メンバー交替がはげしく、1993~94年には4人組の時期もあった
1994年からは安室奈美恵のみのヴォーカル体制に移行し、グループ名も「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に
1995年1月に発表した5thシングル『TRY ME 私を信じて』が75万枚のヒットとなり、一気に全国的な人気を得る
『TRY ME』以降は海外アーティストの楽曲をユーロビート調にアレンジした路線で大ヒット
※小室哲哉プロデュースではない
1995年10月の安室の小室哲哉全面プロデュースによるソロデビュー後も、グループは1996年いっぱいまで安室のバックダンサーとして活動していた
出た~、スーパーモンキーズ。
当時の沖縄アクターズスクールでも粒ぞろいのルーキーたちで結成されていた(「スーパーモンキーズ」という名前は、もともとはスクールの特待生グループ全体のことをさしていた)わけだったのですが、デビュー当初からTV番組にレギュラー出演したりタイアップ曲もリリースしていたにもかかわらず、しばらくの間は今ひとつ知名度の上がらない状態が続いていました。やっぱり、「アイドル冬の時代」だったんだなぁ。
1993年には歌手のバックダンサーとしてNHK紅白歌合戦に出演したりもしていたスーパーモンキーズですが、メンバーのひんぱんな交替などもあってパッとしない印象はぬぐい去れず。
しかし、そんなスーパーモンキーズの転機となったのは1994年。
その年、それまでいた結成メンバーの安室奈美恵とNana、Minaに加えて、ReinaとLinaが加入した5人組でメンバーが固定され、それにあわせて楽曲は安室さんのソロヴォーカル体制でいくこととなります。
そして、その前からスーパーモンキーズのダンスセンスの良さ、加えて安室さんのたぐいまれなる歌唱力に注目していたのが、他ならぬエイベックスの創業者・MAX松浦こと松浦勝人(まさと)その人!
それまでCDの売り上げがさほど伸びていなかったスーパーモンキーズに、MAX松浦は「ポスト・ジュリアナ」となるべき新たなるユーロビートの国産歌手グループとなることを期待して総合プロデュースを請け負うこととなります。
そんな流れで本格的ユーロビート路線に転換した新生「安室奈美恵 with スーパーモンキーズ」が、さっそく翌1995年の1月に発表したのが、5thシングルの『TRY ME 私を信じて』!
trfひいては小室さんのうちたてた「レイヴミュージック」路線を受けて、かつてのリズムとは比較にならない激しさのアップテンポとなった「90年代ユーロ」の開幕を告げた『TRY ME』は一気にそれまでのスーパーモンキーズのCD売り上げ枚数の10倍以上の成績を収めることとなり、その数ヶ月後に始まった日本テレビの音楽バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』(2002年まで放映)へのレギュラー出演などもあって、安室さんとスーパーモンキーズはここにきてついに念願の大ブレイクを果たすこととなります。
ところが、上のような経緯もあったために、1995年にブレイクした時点ではすでに「スーパーモンキーズ」というアイドルグループは厳密な意味では存在しておらず、アイドル的な人気を博している歌手・安室奈美恵のバックダンサー・スーパーモンキーズという認識がなされても仕方がない状況となっていました。
それをふびんに思った、というわけでもないのでしょうが、MAX松浦は1994年から開店していた「六本木ヴェルファーレ」のプロモーションのために、ユーロビート路線をさらに押し進めたダンスグループをスーパーモンキーズから結成させることにします。
MAX(1995年~)4人組 「SUPER MONKEY'S」から結成
17~19歳 Nana(19歳)ら
1995年5月に安室奈美恵の活動に並行して、独立したヴォーカル&ダンスグループとして活動開始
名前の由来は総合プロデューサー・MAX松浦の通称「MAX」から
※安室奈美恵がいたら「SUPER MONKEY'S」、いなかったら「MAX」という使い分けが1996年いっぱいまで続いた
代表曲 『Give me a Shake』(1997年)
ちとややこしいのですが、要するに「スーパーモンキーズ」が分裂して「安室奈美恵」と「MAX」になったということではなかったんですな。安室さんは1994年の時点でそうそうにスーパーモンキーズから独立した存在になっており、他の4人が活動内容にあわせて「スーパーモンキーズ」と「MAX」を使い分けていたということだったのです。ただ、この体制も1996年いっぱいまでのことであり、両者が全盛期を迎えていたこの年をもって「スーパーモンキーズ」は消滅。それぞれは安室奈美恵とMAXという別々のアーティストとして活動していくこととなります。
また、MAXも現役なんですよね~! 産休などの事情でメンバーが一時交替していた期間はありましたが。さすがにみなさんtrfよりは若いのですが、それでも今や30代半ば。よく唄いよく踊ります。素晴らしい! ぎっみーぎっみーしぇい!!
MAXは歌手グループとしても大いにヒットチャートをにぎわせる存在となり、90年代を通して、小室ファクトリーの「レイヴ路線」とはまたひと味違った明快なリズムをむねとする「ユーロビート路線」を代表する歌手グループとして活躍していきました。まぁ、アイドルグループとはちょっと違うプロフェッショナルなイメージが強いのですが。
さて、そんな感じで当時の日本の音楽業界で暴れ回った「レイヴ」と「ユーロ」、そのどちらもあやつることとなったエイベックスグループは当然のように時代を牽引する巨大企業に成長していったのであります。
そして、安室奈美恵やMAXといった才能を一気に輩出した「沖縄出身」というブランドも、今までにない輝きをはなつこととなっていったのでした。
ただ、話を「アイドルグループ」に戻しますと、人気の面では「アイドル」と呼ばれてもおかしくない存在ではあったものの、90年代は「歌唱力」や「ダンス」といった部分で「高い技術を持った一人前のプロアーティスト」という硬派なイメージをアピールすることをよしとする実力主義的な風潮となっており、結果としては未熟さやそこからの成長の過程こそが魅力の源泉だったアイドルにとって、依然として「冬の時代」は続くこととなっていたのです。個々の自立したクールさがもてはやされる時代だったのね~。
鈴木あみさんとか初期のあゆ大先生なんかは、まさにアイドルっぽいしぐさがウリだったわけなのですが、そこと唄う曲のクールさとのギャップがよかったりして。
最後に、そんな時期にもなんとか健闘していた正統派アイドルグループを紹介させていただきましょう。
Melody(1993~97年)3人組
16~18歳 田中有紀美(16歳)のメインヴォーカル
「アイドル冬の時代」でもTV出演・ツアー・CDリリースで健闘する
メインヴォーカルと高低各パートのハーモニーが確立している高い歌唱力
1996年の秋から活動が激減し、翌97年に解散を宣言し12月の3rdアルバムの発売をもって解散
代表曲 『Boom Boom My Heart』(1996年)
現在は田中のみが歌手・女優として活動
おぼえてる方、いらっしゃいます? 実は歌唱力はそれまでのアイドルグループのみなさんと比較してもかなりレベルは高い方だったのですが、生まれた時代が悪かったのか……かたくななまでに正統派を押し通したアイドルグループだったもんでねぇ。
さぁ~次回は小室ファクトリー全盛期以降の90年代後半が舞台となります。
あの4人組、あのデュオ、そしていよいよ、2000年代にアイドルグループ時代の復活を呼び込んだあの娘たちが動き出す……
こっこっ、乞うごきた~い!!
ただ、日が落ちてからはだいぶ涼しくなって過ごしやすいんですけど、夏はそうはいかないんですよねぇ~、たぶん今年も。熱帯夜はイヤだよぉホントに。
本日土曜日は、私にとっては久しぶりになんの予定もない丸1日の休日になったんですけど、それなりにうろうろ買い物などもしていたんですが、ひとつだけ後悔していることがあるんですなぁ~。
映画の『富江 アンリミテッド』、見すごしちゃった……
実はねぇ、当初の予定としては今日観る予定だったんですが、なんと劇場公開は昨日まででしゅ~りょ~! 千葉も新宿も横浜も終了。
えぇ!? ちょっと待って、『富江』は先月の5月14日からの公開だったんでしょ? それで昨日6月3日でおしまいって、そんな殺生な。なにもいっせいに終わんなくてもいいだろ~、ちょっとずらすとかぁ。
日本でもあの山村貞子、佐伯伽椰子と並んで有名なホラークイーン・川上富江! 名前はやたら地味だけど超クールビューティ。そんなミス富江の待望の劇場版第8作が、映画館で1ヶ月もやってないなんて……
しかもアレでしょ、『富江 アンリミテッド』には、今をときめくAKB48の多田愛佳(おおた あいか)さんも出演してるんでしょ? 多田さんと言えば、のちのちこの「アイドルグループ史」でも取り上げることになるであろう、AKB48のグループ内ユニット「渡り廊下走り隊」の重要なメンバーときたもんだ。もうちょっと長めに公開しても良かったんでねぇの!?
後悔先に立たず。無念です。去年、この『長岡京エイリアン』でも富江さんたちホラー3人娘についてあんなに盛り上がったのに、その最新作を観に行けなかったとは!
こんなことになるんだったら、先月に桜木町に行った時に『ブラック・スワン』じゃなくて『富江』のほうを観ておけば良かったなぁ、ホントに。どっちもコテコテドロドロなんだしねぇ。『ブラック・スワン』は今もどこでも観られるし。
これからは、作品への期待値だけじゃなくて「いつぐらいまで公開してるのか」もちゃんと考えて観る映画を選ばなきゃあいかんな。いい勉強になりました。
え……『富江 アンリミテッド』、今月の18日から群馬の伊勢崎の映画館で公開するって?
伊勢崎ってあなた……おとなしく、DVDのリリースを待つことにいたします。
ささ、今回もいっぱついってみっかぁ。「アイドルグループ史」の続きに入るといたしましょう。本格的に暑くならないうちにしあげちゃおう!
1980年代中盤以降に日本に到来した「第2次ディスコブーム」。そこで流される楽曲の主役となったのは軽快なリズムの電子楽器にいろどられた洋楽ユーロビート。
そういえば、そのへんの影響も受けてのことか、当時の日本のアイドル界や歌謡界でも、洋楽に日本語歌詞をのせたカヴァー曲を唄うことが流行していましたね。ウインクとか荻野目洋子さんとかベイブとか。
そして、そんな「第2次ディスコブーム」やそれへの対抗馬としてやって来た「ジュリアナ東京ブーム」にのっかって力をつけてきたのが、それらで使われるユーロビートやレイヴテクノの楽曲CDを輸入・販売していたレコード会社「エイベックス」(1988年創業・もちろんのちのエイベックスグループ)。
で、そのエイベックスが1993年に送りだした日本初のレイヴダンスグループこそが、あの小室哲哉プロデュースのtrf(ティーアールエフ 現・TRF)だったということで。
小室さんは、当時まだ自身がリーダーをつとめる3人組音楽ユニット「TMN」(1983~90年は「TM NETWORK」、その後に改称)としての活動を続けていたのですが、かなり早い内からそれと並行して、他のミュージシャンへの楽曲提供(渡辺美里の『MY REVOLUTION』など)や映画・ミュージカルなどの音楽プロデュース(『天と地と』とか、『ぼくらの7日間戦争』とかね!)などといった「作曲家・小室哲哉」としての活動もおこなっており、そんな「若き天才(当時30代半ば)」にエイベックスが依頼したのが、
「Tetsuya komuro Rave Factory」
つまりはtrfの音楽プロデュースということだったのです。
CDデビューした1993年当初は、10人組だったりツインヴォーカルだったりもしていたtrfだったのですが、初めてミリオンセラーを記録することとなった6thシングル「survival dAnce」(1994年5月)のころには、2011年現在にいたるまで続いている「ヴォーカルYU-KI(ユーキ)とDJ1人、ダンサー3人」という5人メンバーに固定されることとなりました。以後、trfは10thシングル『Overnight Sensation 時代はあなたに委ねてる』(1995年3月)まで5シングル連続ミリオンヒットという栄光に輝き、1998年に小室哲哉プロデュースから離脱するまで、trfは「小室帝国」の屋台骨であり続けていたのです(その後もときおり小室さんのプロデュース曲は発表している)。
もともとレイヴダンス発祥の地だった「ジュリアナ東京」は1994年8月に勝ち逃げのような形で閉店しているのですが、1994年4月をもって自らのTMNの活動を(いったん)終了させた小室さんはプロデュース業に本腰を入れていくことなり、そのすぐ後の7月にリリースしたご存じ篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』の異常なまでのメガヒットをもって(累計220万枚)高らかに「レイヴミュージック」中心の小室ファクトリーの勃興を宣言することとなりました。
まぁ~trfはDJ KOOにダンサーのSAMという、れっきとした「漢(おとこ)」がいるグループなので、本来この「アイドルグループ史」で取り上げるべき対象ではないのですが、彼らの時代におよぼした影響のほどは大変なものがありました。「レイヴダンスグループ」というジャンルの目新しさもそうなんですけど、なんと言ってもそんな彼らが日本の歌謡ヒットチャートのトップを幾度となくとったという事実が素晴らしいのです。
しかも、失礼を承知で言わせていただきますれば、1993年CDデビューの時点で、メンバー5人の年齢はいぶし銀の26~32歳!
やるなぁ~。そんなみなさんが激しく唄って踊り、なんと20年近くたった現在でも現役だっていうんですから。もうすでに「古武士」のような風格がありますね。純粋にその存在がカッコイイ。
ただ私は、そのころお茶の間で初めて彼らに遭遇した時の衝撃を、今でも色鮮やかに記憶しています。
普通の音楽番組のはずだったTVの中から突然として聞こえてきた耳慣れないズンズンズビズバふぉう!のリズム。そしてそれに合っているのかどうかもわからない激しさで一心不乱に踊り狂う男女の集団。祖父母から私まで3世代の家族は凍りつきました。
「かいずぁなんだず……猿コみでぇな。(彼らはいったい何者なんだ……まるで猿のようじゃないか。)」
誰からともなくもれたこのコメントに、思わず私もうなずいてしまっていたものです。
だって、なんかやかましいしサビもへったくれもなく盛り上がりっぱなしだし、歌詞もほとんど英語でなに言ってるのかもわかんないしいつ終わるのかもわかんないし……間違いなくこれまでの「ポップス界」にはなかった何かであることはわかったのですが、当時の私はとにかくわけもわからずビックラこいていたものです。
さて、「猿」と言えば、当時1990年代中盤にはもうひとつの「猿」をイメージさせるグループが、trfと時を同じくして大人気となっていました。
そう、はるばる沖縄からやってきた「モンキーズ」ね!
SUPER MONKEY'S(1992~96年)5人組
15~21歳 安室奈美恵(15歳)・Nana(16歳)ら
言わずと知れた「沖縄アクターズスクール」出身グループ
メンバー交替がはげしく、1993~94年には4人組の時期もあった
1994年からは安室奈美恵のみのヴォーカル体制に移行し、グループ名も「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に
1995年1月に発表した5thシングル『TRY ME 私を信じて』が75万枚のヒットとなり、一気に全国的な人気を得る
『TRY ME』以降は海外アーティストの楽曲をユーロビート調にアレンジした路線で大ヒット
※小室哲哉プロデュースではない
1995年10月の安室の小室哲哉全面プロデュースによるソロデビュー後も、グループは1996年いっぱいまで安室のバックダンサーとして活動していた
出た~、スーパーモンキーズ。
当時の沖縄アクターズスクールでも粒ぞろいのルーキーたちで結成されていた(「スーパーモンキーズ」という名前は、もともとはスクールの特待生グループ全体のことをさしていた)わけだったのですが、デビュー当初からTV番組にレギュラー出演したりタイアップ曲もリリースしていたにもかかわらず、しばらくの間は今ひとつ知名度の上がらない状態が続いていました。やっぱり、「アイドル冬の時代」だったんだなぁ。
1993年には歌手のバックダンサーとしてNHK紅白歌合戦に出演したりもしていたスーパーモンキーズですが、メンバーのひんぱんな交替などもあってパッとしない印象はぬぐい去れず。
しかし、そんなスーパーモンキーズの転機となったのは1994年。
その年、それまでいた結成メンバーの安室奈美恵とNana、Minaに加えて、ReinaとLinaが加入した5人組でメンバーが固定され、それにあわせて楽曲は安室さんのソロヴォーカル体制でいくこととなります。
そして、その前からスーパーモンキーズのダンスセンスの良さ、加えて安室さんのたぐいまれなる歌唱力に注目していたのが、他ならぬエイベックスの創業者・MAX松浦こと松浦勝人(まさと)その人!
それまでCDの売り上げがさほど伸びていなかったスーパーモンキーズに、MAX松浦は「ポスト・ジュリアナ」となるべき新たなるユーロビートの国産歌手グループとなることを期待して総合プロデュースを請け負うこととなります。
そんな流れで本格的ユーロビート路線に転換した新生「安室奈美恵 with スーパーモンキーズ」が、さっそく翌1995年の1月に発表したのが、5thシングルの『TRY ME 私を信じて』!
trfひいては小室さんのうちたてた「レイヴミュージック」路線を受けて、かつてのリズムとは比較にならない激しさのアップテンポとなった「90年代ユーロ」の開幕を告げた『TRY ME』は一気にそれまでのスーパーモンキーズのCD売り上げ枚数の10倍以上の成績を収めることとなり、その数ヶ月後に始まった日本テレビの音楽バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』(2002年まで放映)へのレギュラー出演などもあって、安室さんとスーパーモンキーズはここにきてついに念願の大ブレイクを果たすこととなります。
ところが、上のような経緯もあったために、1995年にブレイクした時点ではすでに「スーパーモンキーズ」というアイドルグループは厳密な意味では存在しておらず、アイドル的な人気を博している歌手・安室奈美恵のバックダンサー・スーパーモンキーズという認識がなされても仕方がない状況となっていました。
それをふびんに思った、というわけでもないのでしょうが、MAX松浦は1994年から開店していた「六本木ヴェルファーレ」のプロモーションのために、ユーロビート路線をさらに押し進めたダンスグループをスーパーモンキーズから結成させることにします。
MAX(1995年~)4人組 「SUPER MONKEY'S」から結成
17~19歳 Nana(19歳)ら
1995年5月に安室奈美恵の活動に並行して、独立したヴォーカル&ダンスグループとして活動開始
名前の由来は総合プロデューサー・MAX松浦の通称「MAX」から
※安室奈美恵がいたら「SUPER MONKEY'S」、いなかったら「MAX」という使い分けが1996年いっぱいまで続いた
代表曲 『Give me a Shake』(1997年)
ちとややこしいのですが、要するに「スーパーモンキーズ」が分裂して「安室奈美恵」と「MAX」になったということではなかったんですな。安室さんは1994年の時点でそうそうにスーパーモンキーズから独立した存在になっており、他の4人が活動内容にあわせて「スーパーモンキーズ」と「MAX」を使い分けていたということだったのです。ただ、この体制も1996年いっぱいまでのことであり、両者が全盛期を迎えていたこの年をもって「スーパーモンキーズ」は消滅。それぞれは安室奈美恵とMAXという別々のアーティストとして活動していくこととなります。
また、MAXも現役なんですよね~! 産休などの事情でメンバーが一時交替していた期間はありましたが。さすがにみなさんtrfよりは若いのですが、それでも今や30代半ば。よく唄いよく踊ります。素晴らしい! ぎっみーぎっみーしぇい!!
MAXは歌手グループとしても大いにヒットチャートをにぎわせる存在となり、90年代を通して、小室ファクトリーの「レイヴ路線」とはまたひと味違った明快なリズムをむねとする「ユーロビート路線」を代表する歌手グループとして活躍していきました。まぁ、アイドルグループとはちょっと違うプロフェッショナルなイメージが強いのですが。
さて、そんな感じで当時の日本の音楽業界で暴れ回った「レイヴ」と「ユーロ」、そのどちらもあやつることとなったエイベックスグループは当然のように時代を牽引する巨大企業に成長していったのであります。
そして、安室奈美恵やMAXといった才能を一気に輩出した「沖縄出身」というブランドも、今までにない輝きをはなつこととなっていったのでした。
ただ、話を「アイドルグループ」に戻しますと、人気の面では「アイドル」と呼ばれてもおかしくない存在ではあったものの、90年代は「歌唱力」や「ダンス」といった部分で「高い技術を持った一人前のプロアーティスト」という硬派なイメージをアピールすることをよしとする実力主義的な風潮となっており、結果としては未熟さやそこからの成長の過程こそが魅力の源泉だったアイドルにとって、依然として「冬の時代」は続くこととなっていたのです。個々の自立したクールさがもてはやされる時代だったのね~。
鈴木あみさんとか初期のあゆ大先生なんかは、まさにアイドルっぽいしぐさがウリだったわけなのですが、そこと唄う曲のクールさとのギャップがよかったりして。
最後に、そんな時期にもなんとか健闘していた正統派アイドルグループを紹介させていただきましょう。
Melody(1993~97年)3人組
16~18歳 田中有紀美(16歳)のメインヴォーカル
「アイドル冬の時代」でもTV出演・ツアー・CDリリースで健闘する
メインヴォーカルと高低各パートのハーモニーが確立している高い歌唱力
1996年の秋から活動が激減し、翌97年に解散を宣言し12月の3rdアルバムの発売をもって解散
代表曲 『Boom Boom My Heart』(1996年)
現在は田中のみが歌手・女優として活動
おぼえてる方、いらっしゃいます? 実は歌唱力はそれまでのアイドルグループのみなさんと比較してもかなりレベルは高い方だったのですが、生まれた時代が悪かったのか……かたくななまでに正統派を押し通したアイドルグループだったもんでねぇ。
さぁ~次回は小室ファクトリー全盛期以降の90年代後半が舞台となります。
あの4人組、あのデュオ、そしていよいよ、2000年代にアイドルグループ時代の復活を呼び込んだあの娘たちが動き出す……
こっこっ、乞うごきた~い!!