長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第17回 『SPEEDの奇跡とモーニング胎動。』

2011年06月11日 23時35分59秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 へろ~ん、こんばんは。そうだいです。

 これは夢かまぼろしか? 生後30年にしてやっと! 足に「つちふまず」のようなものができはじめたそうだいに励ましのおたよりを送ろう。(受付は終了いたしました。)
 やっぱ、「桜木町ハイキング」がよかったのかねぇ……荒療治もしてみるもんですね。


 え~、いよいよお待んたせいたしました。今回は1990年代後半、小室ファミリーブームのさなかについに奇跡の大復活をとげることとなったアイドルグループ界の記念すべき第1歩目にせまりたいと思います。

 時に、1995年11月。
 小室哲哉みずからがリーダーとなったglobeに引き続き、沖縄出身の安室奈美恵も小室プロデュースによるソロ活動を開始してヒットチャートをにぎわせるようになっていたころ。
 安室さんも「SUPER MONKEY'S」のメンバーだった時からよく出演していた歌謡バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』(日本テレビ 毎週土曜9時)に、新たな沖縄出身のアイドルグループがレギュラーとして参加するようになりました。

 全員が安室さんの直接の後輩にあたる沖縄アクターズスクールの生徒である、4人の少女たち。
 一見、芸能界にも東京にもまったくなれていないような幼い表情の4人だったのですが、それもそのはず、なんと彼女たちの年齢は11~14歳! 学年にして小5から中2のあいだだってんだからとんでもない。
 しかし彼女たちは、先輩のスーパーモンキーズが東京に進出していった1992年から、スクールの次なる特待生グループ「BRAND-NEW KIDS」として沖縄で活動していたメンバー7人の中から、さらに東京進出のために選抜されてやってきたという生粋の精鋭部隊だったのであります。

 その週の音楽ヒットチャートにのぼった人気曲を、他の歌手やタレントがカラオケのように唄っていくという趣向の『夜もヒッパレ』だったのですが、この4人組のグループ名は番組による公募で決定されることとなりました。
 そして、番組初出演から年をまたいで2ヶ月がたった1996年1月。ついにグループ名が決まります。

 はい~、それこそがあの「SPEED」だったわけなんですねぇ! きたきた~。

 かくして、安室さんに続く沖縄出身のフレッシュな顔「SPEED」は1996年の開幕とともに本格的に始動していくこととなりました。

 とはいえ、SPEEDが1stシングル『Body&Soul』をリリースしたのはさらに半年の時がたった夏8月のこととなります。
 そのため、SPEEDの「デビュー」が全国放送のTVに初出演した1995年11月なのか、名前の決まった1996年1月なのか、自分たちのオリジナル楽曲をリリースした8月なのかは意見が分かれるところですね。

 ただ! 見のがしてならないのは、SPEEDの4人がすでに1992年から、それこそ全員小学生だったころから地元の沖縄でプロになるためのさまざまなレッスンを通じて積み重ねてきていたキャリアがあった、ということです。
 このへんの筋金の入り方は先輩の安室さんやMAXの4人も同じだと思うのですが、そりゃもう「素質がいい」ってだけじゃあ簡単に片づけられない、並々ならぬ努力もなけりゃあたどってくるのは無理っていう道をみなさんは幼いころからあゆんできていたんですねぇ。てぇしたもんだ!

 さてさて、SPEEDは4人組のツインヴォーカル体制のアイドルグループです。
 「アイドルグループ」、とここではあえて断言させていただきますが、当時4人はもっぱら「ヴォーカルダンスユニット」とくくられていました。まぁその時のはやりの呼び方ですよね。

 でも、その「ヴォーカルダンスユニット」という看板もダテではなく、メンバーは、

高音の伸びの素晴らしいツインヴォーカルの1人・島袋 寛子(1996年時点では小6の12歳)
パワフルな歌唱が武器のツインヴォーカルの1人・今井 絵理子(〃中1の12歳)
ルックス担当としか言いようのないミステリアス娘・上原 多香子(〃中2の13歳)
ダンスではSPEED随一のキレをほこるリーダー・新垣 仁絵(〃中3の15歳)

 というすばらしい面々となっています。
 形式上は「ヴォーカル2人にバックダンサー兼コーラス2人」という構成になっているのですが、実質上は「ヴォーカル2人にダンサー1人にルックス1人」という感じです。いや、ほんとよ!?

 アイドルグループであれロックバンドであれ、音楽グループというものはどうしてもセンターにいるヴォーカルが目立ってしまうものなのですが、高音と低音それぞれの特徴があってきれいなユニゾンを聴かせてくれる島袋・今井のツインヴォーカルに負けないくらいにキャラクターがきわだっている、ダンスの才にひいでた仁絵さんとルックスの才にひいでたおたかさんもあり、SPEEDは非常にまれな「4人が4人とも目立っているグループ」たりえていました。
 またいろんな話に聴くだに、ふだんから4人の仲がいいらしいっていうのが素晴らしいじゃないの……
 余談ですが、SPEEDの4人のうち、3人までが仲良くレーシック手術を受けて視力を回復させています。やってない新垣さんはもとから目がいいんでしょうかね。こりゃあSPEEDの前じゃ悪いことはできねぇな。

 さて、4人の個性もさることながら、日本芸能史上に残るアイドルグループ・SPEEDを語る上で忘れることができないのは、グループに見事にマッチした楽曲の魅力とそれにともなったCDの大ヒットです。

 SPEEDのほとんどの楽曲のプロデュースを担当したのは、作曲家で自身もピアノシンガーとして活動していた伊秩弘将(いぢち ひろまさ)です。
 伊秩さんは1987年、20代なかばだったころからおもに女性歌手の楽曲での作曲活動を始めるようになり、渡辺美里・森高千里・久宝留理子ら錚々たる面々とタッグを組んでいる実績がありました。

 そんな伊秩さんが初めてアーティストの本格的なプロデュースに取り組むことになったのがSPEEDだったわけなのですが、さすがは多くの女性歌手と仕事をしてきた伊秩さん、10代前半の少女たちの元気さ、もろさ、希望や挫折といったものを見事にファインダーにおさめた多くの名作をバンバン世に出していくこととなります。

 SPEEDは、半年以上前から全国的な人気番組に出演していたという下地づくり戦略も功を奏して1996年8月にリリースした1stシングルから順調にヒットをかさねていき、次々とビッグアーティストとしての記録をうちたてていくこととなります。


1996年11月 2ndシングル『STEADY』がSPEED初のミリオンセラーとなる

1997年3月 3rdシングル『Go!Go!Heaven』がSPEED初のオリコン1位となる
   10月 5thシングル『White Love』が200万枚の売り上げ枚数を記録(自身最大のヒット)

1998年7~10月 女性アイドルグループとしては史上初となる4大ドーム公演を含めた全国コンサートツアーを成功させる
 ※4大ドームとは東京・福岡・大阪・ナゴヤのこと(札幌ドームはまだなかった)

・5thから8th『ALL MY TRUE LOVE』まで4作連続でオリコン1位を獲得
・5thから9th『Precious Time』まで5作連続でミリオンセラーを記録(出荷枚数調べ)
・SPEEDとしてのミリオンセラー作品は7作(出荷枚数調べで・オリコン調べでは5作)
・2011年1月の時点でSPEEDのCD累計売り上げ枚数は1953万枚であり、これはアイドルグループ史上最高の記録である(SPEEDは現在も活躍しているので、もちろん累計記録は更新され続けている)


 まぁ~大変なものでございます。あの小室ファミリーさえもが思わずひるんでしまうような輝きが、確かにそこにはあった!
 とにかく重要なのは、ヴォーカルダンスグループとしての実力もさることながら、ステージをおりて他の芸能人とのトークをはじめたとたんに等身大のあどけない女の子4人組になってしまうそのギャップね!
 ここだ……この点にかんしてSPEEDは、厳密に言えば1990年代後半のSPEEDは、間違いなく「アイドルグループ」の系譜を継いだ存在であり、およそ10年間つづいた「アイドル冬の時代」に今度こそ本当のピリオドをうつ救世主となったのです。

 人気が絶頂となった1998年の7月に公開された、SPEEDが主演をつとめたSF映画『アンドロメディア』(原作・渡辺浩弐 監督・三池崇史)のヒットなんか、まさしくアイドルグループとしてのキャリアに欠かすことのできない経歴ですよねぇ。
 結局のところこの映画は、マカロンなみにスウィートなアイドル映画以外の何者でもないのですが、SPEEDの4人のリアルにういういしい演技や、渡辺浩弐の原作なだけはあるしっかりしたストーリーラインが、意外な見応えを生み出している名作となっています。え、DA PUMP? 知らない。
 『アンドロメディア』。今みたらいろんな意味でジーンとしちゃうんだろうなぁ。

 私は劇場公開からしばらくしてTVで放送されたこの作品を観たのですが、確か、それなりに楽しい青春ライフを送っているSPEED演じる4人の仲良しグループの中で、「社交的でない性格のため恋愛に関してもおくてで、ざっくばらんに男子とも交際できている他の3人にあこがれと不満をいだいている」という役におたかさんがキャスティングされていたことに強い疑念をいだいた記憶があります。なぜ!? なぜよりによっておたかさんなの!? 近隣の男子全員の目はみんなガラス玉か!!

 まぁそんなこんなで世に高らかな「アイドル復活宣言」をブチあげることとなったSPEEDだったのですが、その熱狂的ブームのしめくくりも、実にアイドルらしいいさぎよさのあるものとなりました。

 SPEEDはまだまだブームの続いていた1999年の10月に突然の「解散宣言」を発表し、翌2000年3月いっぱいの活動をもって「いったんの」解散をすることとなります。
 実は1996年の結成当初から4人それぞれのソロ活動を視野に入れた「期間限定」の意味合いがあったSPEEDだったのですが、あれよあれよとヒットを連発するようになったまま数年が経過してしまいました。
 しかし、1999年からはいよいよ4人のソロデビュー計画が実行に移されるようになり、3月にはおたかさん(LUNA SEAの河村隆一プロデュース)、6月には仁絵さん、8月に寛子さんと次々にソロ歌手としてのデビューシングルがリリースされていくこととなりました。絵理子さんのソロシングルのリリース(「Eriko with Crunch」名義)だけはなぜかSPEED解散後と遅れているのですが、絵理子さん自身はすでに1998年からソロヴォーカルの楽曲をSPEEDの活動の中で唄っています。

 こうして半年間ほどの「解散宣言」期間をもって円満に解散していったアイドルグループ、というのも実はおニャン子クラブやCoCo以来けっこう久しぶりのことでして、それまではCDセールスの伸び悩みやグループ内のいざこざなどのために、はっきりした解散宣言のないままでの「消滅」のようなかたちが多くなっていましたからね……ただ、SPEEDはキャンディーズやおニャン子クラブのような大規模な「解散コンサート」を上演してはおらず、3月の最終日にテレビ朝日の音楽番組『ミュージックステーション』に出演したスペシャルライヴをもって活動を終了させています。そういう点では、「解散コンサート」という形式よりも全国放映でのTV番組出演という選択肢をとったところに1990年代のアイドルグループらしさがありますねい。


 みなさんもご存じの通り、SPEEDは4人の歌手や女優としての個々の活動をへて2001年と2003年の2度の限定復活などをはさみ、2008年の8月から現在にいたるまで本格的な「第2期」SPEEDとしての活動を再開しています。
 今ももちろんSPEEDはSPEEDであるわけなのですが、今のSPEEDこそがまさに洗練された「ヴォーカルダンスユニット」。それにたいして、1990年代のSPEEDは間違いなく「アイドルグループ」としての奇跡の輝きをはなった特別な存在となっていました。

 当時の「実力派アーティスト重視」の風潮に十二分に応えられるクオリティを持っていながら、同時に成長のまっただ中にある少女たちという「アイドル」の要素も持ち合わせていたというSPEED、その奇跡。
 この奇跡こそが! 長い眠りの中から新世代の「アイドルグループ」を目覚めさせることに成功したわけだったのです。う~ん、イッツァミラコー。

 1990年代における「第1期SPEED」の活動期間は、まだ名前の決まっていなかったTV初出演から数えると1995年11月~2000年3月という「4年5ヶ月」でした。その間に発売されたシングルは11枚、オリジナルアルバムは3枚。
 いっぽう、2001年と2003年の一時復活を通じて2008年に完全なる「第2期SPEED」となった活動期間は、ぜんぶ足すと今年の6月いっぱいで「3年7ヶ月」となり、あらたに発売されたシングルは8枚、オリジナルアルバムも1枚を数えています。

 ほぼ同年代の人間として、私はSPEEDのみなさんにはぜひともこれからもグループとしての活動を続けていって、第1期の疾走感とはまたおもむきの異なった息の長いグループになってもらいたいとねがいます。これからはスロースピードでいったらいいんですよ。
 なんだかんだいってもまだみなさん若いですよ~。最年長の仁絵さんがやっと今年で30歳になるかならないかってくらいなんですから。私もいつかライヴ観にいこ~っと。


 むむぅ、また話半分になっちゃった! 次回は娘。! 次回はもうひとつの「アイドルグループ大復活」をつくることとなった娘。さんたちのお話で~っす。やっと! やっとここまできた……

 それじゃあ、また。
 おたかさん、万歳!!!
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