はいど~ぉも、こんばんは! そうだいです。今日も寒くはなかったですけど、昨日は暑かったですねぇ、ほんとに!
なんとなく今日みたいなくもり空の日はこれまでは肌寒かったもんだったのですが、今日は湿気はあったけどちょうどいいくらいの暖かさでしたからね。だんだんと夏も近づいてきとるんですな。
今日は昼下がりから身体があきまして、時間つぶしのために2時間ひとりカラオケに興じたりしつつも、夜からやっていた三条会のアトリエ公演(於・千葉)を観に行ったりしておりました。
実は今日上演されていた『ひかりごけ ヴァージョンB』は先週の台風接近の日にも観ていたのですが、それから1週間ちょいたった段階での公演もまた、別の楽しみ方ができるのでは? と2回目の鑑賞としゃれこんでみたわけなのです。こういう時に、電車を使わなくていい近所だってことはありがたいんですよ。
で観たんですけど、やっぱりおもしろかったやね。
上演時間は70分ということで、長さを感じさせる間もなくサーッと物語は進んでいくんですが、「作品の終わりが近づくのをおしむ」という感覚はそうなかなか味わえるものでもありませんから、そんな貴重なひとときを楽しみまんした。
そういえば私、今よりもさらにガキンチョだった時、ある映画を観ていてあまりの楽しさに、
「あと何分でこの映画は終わっちゃうんだろう!? 終わるな! 時間よとまれ!」
と、スクリーンと腕時計とをチラチラみくらべながら鑑賞していたことがありました。ハタから見たら早く終わってもらいたくてしょうがない人でしかありませんね。アンビバレンツ~。
三条会のアトリエ公演、明日はいよいよ、もう片方の『ひかりごけ ヴァージョンA』を観るつもりです。楽しみですねい。
さぁ~って、今回もおっぱじめることにいたしましょうか、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」!!
いや~、やっとここまできましたよ、1990年代後半! 記憶に新しい方も多いとは思いますが、もう15年くらい前のことなんですなぁ……シングルCDもまだまだ細長くてちっちゃいやつだった。
1994年4月に自身がリーダーだったユニットTMNの活動を終了させ、7月にさっそく東京パフォーマンスドールの篠原涼子(その年の9月に卒業)をプロデュースしたシングル『恋しさとせつなさと心強さと』をメガヒットさせた小室哲哉。彼の登場により、以後数年間は未曽有の規模での「TKプロデュースブーム」が日本中に巻き起こることとなります。パッと思い出せるだけでも内田有紀、ダウンタウン浜田雅功、中森明菜、観月ありさ、円谷憂子、新人ではhitomiなどなど……そうそうたる芸能界の面々が「猫も杓子もwith T」という活況を呈することとなったのです。
具体的なTKブームの趨勢を観ていきますと、
1994年7月 篠原涼子『恋しさとせつなさと心強さと』がリリースされトータル220万枚の売り上げを記録
1995年9月 この年に結成された小室哲哉みずからがリーダーをつとめる3人組ユニット「globe」の2ndシングル『Joy to the love』がオリコン1位を獲得
10月 小室哲哉が初めてプロデュースした安室奈美恵の3rdシングル『Body Feels EXIT』がリリースされヒットする
12月 小室プロデュースによる安室の4thシングル『Chase the Chance』が安室にとって初のオリコン1位を獲得(以後、安室は2001年まで小室哲哉プロデュースの楽曲を発表していく)
1996年10月 前年にデビューしていた華原朋美(22歳 公私ともに小室プロデュース)が5thシングル『save your dream』で自身初のオリコン1位を獲得
1998年 小室プロデュースによる新人歌手・鈴木あみ(16歳 現・亜美)がデビューしたちまち人気者に
1999年1月 体調不良により華原朋美が歌手活動を休養する
7月 鈴木あみが7thシングル『BE TOGETHER』(小室のかつてのユニット「TM NETWORK」の楽曲のカヴァー)で自身初のオリコン1位を獲得
※鈴木は事務所との契約トラブルにより1999年いっぱいをもって一時活動を休止
こんな感じなんですけど、ここではあくまでもそれぞれの方々の功績の「ごく一部」しか記していません。そりゃあもう、オリコン1位とかミリオンとかをいちいち書いていたらキリがないっていうほど大変なことになってたんですよ、当時は!
だいたいこう整理してみると、歌手としてはそれ以後あまり目立つ活動のなかった篠原さんはおいときまして、だいたいTKブームの前期はおん大将みずからのglobeと安室さん、中期はトモちゃん、後期はあみ~ゴがささえていた、という流れになるでしょうか。
ただし、上のような経緯で一時休養を余儀なくされた2人はしかたないとして、globeと安室さんはブーム終息後も一流のアーティストとして活動を継続していくこととなります。
2001年のTKプロデュース離脱後も安室さんは引き続き日本を代表する歌姫としての研鑽を積んでいきますし、globeもコンスタントに楽曲を発表していき、2002年に小室さんがヴォーカルのKEIKOと結婚したりしつつも2006年に現時点で最後のオリジナルCDを発表するまで大きな存在感を保っていました。
まぁglobeは、そのあといろんなことがありまして現在は活動休止中なんですけど……小室さんも去年くらいからプロデュース業を再開させているし、もしかしたらそろそろglobeも?
しゃてしゃて、上の一覧をごらんいただきますと、TKブームのさなか「1997年」だけが特に記述される内容がなくなっていることにお気づきでしょうか。
もちろん、globe・安室・華原の3本柱がそろい踏みして1997年も小室印はブイブイ幅をきかせていたわけだったのですが、なにもTKだけが日本の音楽界を独占していたんじゃあ~ない!
そう! これらのTKブームと同時進行で、この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」に記されるべきグループもさまざまな新局面を迎えていたのです。
そして、そんなあたりを語る上で「1997年」はひっじょ~に意義がある。この年に始まった「アイドルグループの再生」は、そのまま2011年現在に直結するムーヴメントの第1歩となっとるんですよ。うおお!!
だが、その1歩目は、当時まだまだちいさなちいさな存在でしかなかった……まさに吹けば飛ぶようなものだったのです。
ところで当時の芸能界では、「アイドル」という言葉が「男」と「女」のあいだで雲泥の差をしめしている時代になっていました。
そこに踏み込んでしまうともう戻って来られなくなるのでやめておきますが、「男のアイドル」の世界は個々のグループの実力や事務所の圧倒的な影響力もあって、もはやまったく揺らぐことのない「神聖にしておかすべからざる存在」となっていました。これはもう、今現在にいたるまでそのまんま。
それにくらべて「女のアイドル」は……
結婚して妊娠休養する前の安室さんや、トモちゃんにあみ~ゴといった面々は、「アイドル」と言われてもおかしくない容姿や言動で世間の大きな人気を得ていた部分も少なからずあったのですが、全員とも「私はアーティスト」というスタイルをまず根本に持っており、どんなにふだんの言動でハメをはずしても、最終的にはクールに小室サウンドの楽曲を唄うところを本領としていました。つまり、徹底して「アイドルととられてもいいけど、あくまでもわたしは歌手。」という姿勢を守っていたのです。
なぜかというと、1980年代後半のおニャン子ブーム終息以後90年代にいたるまでの約10年の長きにわたり、「アイドル歌手」というジャンルはなかなか売れないという空気がまとわりついていたからなのです。
聖子ちゃんや中山美穂さんの楽曲は確かにヒットしていましたが、それはもう「プロ歌手」や「女優」としての自身を確立した個人個人の人気があったというだけで、「アイドル」のワクにいる方々ではなくなっていたのです。
あんなにがんばっていたCoCoや東京パフォーマンスドールも、その努力相応の国民的熱狂を得ることはなかなかむずかしく……そういった数々の苦難の歴史もあり、1990年代には「歌手なら歌をうまく! 女優なら美しく!」という即戦力となるわかりやすさがもてはやされており、ある意味でそれとは逆の位置にある、「これからがんばって成長していきます。みんな応援してネ!」という、ファンとともに伸びていこうというフワフワ感や未完成にこめられた未来性がよかったアイドルのあり方は売れない! とされる風潮が続いていたのです。ドライねぇ~。
そのため、1990年代後半に活躍したグループは、形態で言えば「アイドルグループ」ではあるものの、その楽曲や活動スタイルはちょっとアイドルとは呼びがたい、という様相を呈していました。
この人たちもそんな感じ。
PUFFY(1996~)デュオ
大貫亜美(23歳)と吉村由美(21歳)
歌手志望だった2人が1995年に結成し、1996年5月に1stシングル『アジアの純真』でデビュー
奥田民生プロデュースによる楽曲は1stから4thまで連続ミリオンセラーとなる
1997年からはアジア、2000年からはアメリカで活動しブレイクする
2004~07年にはアメリカで2人を主人公としたアニメ『Hi Hi PUFFY AMIYUMI』が放送されヒットしていた
1999年からは奥田民生以外のプロデュースによる楽曲も積極的に発表している
代表曲 『渚にまつわるエトセトラ』(1997)
ね。アイドルっぽくないでしょ。
それはもちろん当たり前で、もともと2人は歌手志望だったのですからそうなんです。
しかし、よりアーティストらしくを旨としていた小室ファミリーと違って、Tシャツにジーンズというスタイルでざっくばらんに、歌番組などでの芸能界の大先輩たちを相手にしてのトークでもものおじすることなくわたりあっていた「自然っぽい」スタイルは、見事にそれにマッチした奥田さんの楽曲ともあいまって若い年代に圧倒的な支持を得ることとなりました。ヒットチャート上位をにぎわせた彼女たちのブームは1998年まで続いていくこととなります。
このようにPUFFYの魅力はスターらしくない、ましてやアイドルらしくもない「自然っぽさ」だったわけなのですが、デビュー2年目にして早くも自分たちの持ち番組『パパパパパフィー』(1997~2002)をこなしてしまうほどの大御所お笑い芸人のようなふところの広さを持っていた2人は、間違いなく「しろうとには絶対に再現できないしろうとらしさ」を見せることに関してのプロだったと言えるでしょう。要するに、たとえるならばPUFFYの「自然っぽさ」はおニャン子クラブの武器としていた「正真正銘のしろうと感」ではなく、むしろとんねるずの「プロの提供するしろうと感」に通じるものだったのです!
だから、PUFFYって歌手っぽくなくて芸人っぽいんだ……
いやー、でも歌手としてもすごいんですよねぇ。
PUFFYといえば『アジアの純真』ですかね。でも、私は上にあげたように『渚にまつわるエトセトラ』がほんとに大好きで。
だって、『アジアの純真』は奥田さんや作詞の井上陽水さんが唄ってもいい曲として成立するんですけど、『渚にまつわるエトセトラ』にはPUFFYでしかつくりだせない世界ができていますからね。まさに「女性デュオPUFFY」の真骨頂!
さて、1990年代のアイドルグループといえばこれも忘れるわけにはいきません。「沖縄勢」!
まずはこちらから。
D&D(1996~99年)3人組
沖縄アクターズスクール出身
14~17歳 メインヴォーカル・オリヴィア(17歳)
日米ハーフのオリヴィアは中学生になるまでアメリカで生活しており、日本語はちょっと苦手
MAXと同じくヴェルファーレ以降のユーロビート路線にのった楽曲とオリヴィアの圧倒的な歌唱力が魅力
1998年4月からオリヴィアの個人活動が始まり、、D&Dとしての活動は残りの2人(日本人)が引き継ぐ
1999年2月のオリヴィアのソロデビューと、4月の7thシングルのリリースをもって活動は終了
現在はオリヴィアのみが歌手として活動している
オリヴィアさんの容姿と歌唱力がとにかく印象的なD&Dだったのですが、やはり楽曲が期待されたほどヒットしなかったことやオリヴィアさんの当時のコミュニケーション能力ににんともかんともな限界があったことが、そのままグループとしての寿命につながってしまいました。
声にとにかくパワーがあるんでねぇ、デビュー当初からCMとのタイアップなどがあって媒体での露出度は高かったものの、それでもブレイクできなかったのは残念でした。
そしてそして、そんなD&Dのデビューは1996年8月のことだったのですが、それからやや時間を巻き戻した1995年11月。
同じ沖縄アクターズスクールの出身だった少女アイドルグループ4人組が、当時大人気だった日本テレビの歌謡バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』でTV初出演を果たすこととなります。
なんとメンバーの中には、11歳の小学生もいるというおさなさ。果たして実力重視・硬派本位だった当時の芸能界の荒波を乗り越えていくことがこの娘っこたちにできるのだろうか……周囲からは興味本位の視線がそそがれます。
しかし! なんと彼女たちは見事に世間の視線を一変させました。それどころか、TKブームやPUFFYブームの間隙をついて国民的支持を獲得するアイドルグループにまでのぼりつめていったのです。
彼女たちの名は……SPEEDぉおオオオウオウゥアッシャアア!!
……って引っぱらなくてもみなさんご存じですよね。
っつ~ことで、続きは次回でございます。
すんません、今回はタイトルにかかげた娘。さんたちどころか、なんとSPEEDにさえたどりつくことができず……あゆみが遅いよヘヘイヘ~イ!!
なんとなく今日みたいなくもり空の日はこれまでは肌寒かったもんだったのですが、今日は湿気はあったけどちょうどいいくらいの暖かさでしたからね。だんだんと夏も近づいてきとるんですな。
今日は昼下がりから身体があきまして、時間つぶしのために2時間ひとりカラオケに興じたりしつつも、夜からやっていた三条会のアトリエ公演(於・千葉)を観に行ったりしておりました。
実は今日上演されていた『ひかりごけ ヴァージョンB』は先週の台風接近の日にも観ていたのですが、それから1週間ちょいたった段階での公演もまた、別の楽しみ方ができるのでは? と2回目の鑑賞としゃれこんでみたわけなのです。こういう時に、電車を使わなくていい近所だってことはありがたいんですよ。
で観たんですけど、やっぱりおもしろかったやね。
上演時間は70分ということで、長さを感じさせる間もなくサーッと物語は進んでいくんですが、「作品の終わりが近づくのをおしむ」という感覚はそうなかなか味わえるものでもありませんから、そんな貴重なひとときを楽しみまんした。
そういえば私、今よりもさらにガキンチョだった時、ある映画を観ていてあまりの楽しさに、
「あと何分でこの映画は終わっちゃうんだろう!? 終わるな! 時間よとまれ!」
と、スクリーンと腕時計とをチラチラみくらべながら鑑賞していたことがありました。ハタから見たら早く終わってもらいたくてしょうがない人でしかありませんね。アンビバレンツ~。
三条会のアトリエ公演、明日はいよいよ、もう片方の『ひかりごけ ヴァージョンA』を観るつもりです。楽しみですねい。
さぁ~って、今回もおっぱじめることにいたしましょうか、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」!!
いや~、やっとここまできましたよ、1990年代後半! 記憶に新しい方も多いとは思いますが、もう15年くらい前のことなんですなぁ……シングルCDもまだまだ細長くてちっちゃいやつだった。
1994年4月に自身がリーダーだったユニットTMNの活動を終了させ、7月にさっそく東京パフォーマンスドールの篠原涼子(その年の9月に卒業)をプロデュースしたシングル『恋しさとせつなさと心強さと』をメガヒットさせた小室哲哉。彼の登場により、以後数年間は未曽有の規模での「TKプロデュースブーム」が日本中に巻き起こることとなります。パッと思い出せるだけでも内田有紀、ダウンタウン浜田雅功、中森明菜、観月ありさ、円谷憂子、新人ではhitomiなどなど……そうそうたる芸能界の面々が「猫も杓子もwith T」という活況を呈することとなったのです。
具体的なTKブームの趨勢を観ていきますと、
1994年7月 篠原涼子『恋しさとせつなさと心強さと』がリリースされトータル220万枚の売り上げを記録
1995年9月 この年に結成された小室哲哉みずからがリーダーをつとめる3人組ユニット「globe」の2ndシングル『Joy to the love』がオリコン1位を獲得
10月 小室哲哉が初めてプロデュースした安室奈美恵の3rdシングル『Body Feels EXIT』がリリースされヒットする
12月 小室プロデュースによる安室の4thシングル『Chase the Chance』が安室にとって初のオリコン1位を獲得(以後、安室は2001年まで小室哲哉プロデュースの楽曲を発表していく)
1996年10月 前年にデビューしていた華原朋美(22歳 公私ともに小室プロデュース)が5thシングル『save your dream』で自身初のオリコン1位を獲得
1998年 小室プロデュースによる新人歌手・鈴木あみ(16歳 現・亜美)がデビューしたちまち人気者に
1999年1月 体調不良により華原朋美が歌手活動を休養する
7月 鈴木あみが7thシングル『BE TOGETHER』(小室のかつてのユニット「TM NETWORK」の楽曲のカヴァー)で自身初のオリコン1位を獲得
※鈴木は事務所との契約トラブルにより1999年いっぱいをもって一時活動を休止
こんな感じなんですけど、ここではあくまでもそれぞれの方々の功績の「ごく一部」しか記していません。そりゃあもう、オリコン1位とかミリオンとかをいちいち書いていたらキリがないっていうほど大変なことになってたんですよ、当時は!
だいたいこう整理してみると、歌手としてはそれ以後あまり目立つ活動のなかった篠原さんはおいときまして、だいたいTKブームの前期はおん大将みずからのglobeと安室さん、中期はトモちゃん、後期はあみ~ゴがささえていた、という流れになるでしょうか。
ただし、上のような経緯で一時休養を余儀なくされた2人はしかたないとして、globeと安室さんはブーム終息後も一流のアーティストとして活動を継続していくこととなります。
2001年のTKプロデュース離脱後も安室さんは引き続き日本を代表する歌姫としての研鑽を積んでいきますし、globeもコンスタントに楽曲を発表していき、2002年に小室さんがヴォーカルのKEIKOと結婚したりしつつも2006年に現時点で最後のオリジナルCDを発表するまで大きな存在感を保っていました。
まぁglobeは、そのあといろんなことがありまして現在は活動休止中なんですけど……小室さんも去年くらいからプロデュース業を再開させているし、もしかしたらそろそろglobeも?
しゃてしゃて、上の一覧をごらんいただきますと、TKブームのさなか「1997年」だけが特に記述される内容がなくなっていることにお気づきでしょうか。
もちろん、globe・安室・華原の3本柱がそろい踏みして1997年も小室印はブイブイ幅をきかせていたわけだったのですが、なにもTKだけが日本の音楽界を独占していたんじゃあ~ない!
そう! これらのTKブームと同時進行で、この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」に記されるべきグループもさまざまな新局面を迎えていたのです。
そして、そんなあたりを語る上で「1997年」はひっじょ~に意義がある。この年に始まった「アイドルグループの再生」は、そのまま2011年現在に直結するムーヴメントの第1歩となっとるんですよ。うおお!!
だが、その1歩目は、当時まだまだちいさなちいさな存在でしかなかった……まさに吹けば飛ぶようなものだったのです。
ところで当時の芸能界では、「アイドル」という言葉が「男」と「女」のあいだで雲泥の差をしめしている時代になっていました。
そこに踏み込んでしまうともう戻って来られなくなるのでやめておきますが、「男のアイドル」の世界は個々のグループの実力や事務所の圧倒的な影響力もあって、もはやまったく揺らぐことのない「神聖にしておかすべからざる存在」となっていました。これはもう、今現在にいたるまでそのまんま。
それにくらべて「女のアイドル」は……
結婚して妊娠休養する前の安室さんや、トモちゃんにあみ~ゴといった面々は、「アイドル」と言われてもおかしくない容姿や言動で世間の大きな人気を得ていた部分も少なからずあったのですが、全員とも「私はアーティスト」というスタイルをまず根本に持っており、どんなにふだんの言動でハメをはずしても、最終的にはクールに小室サウンドの楽曲を唄うところを本領としていました。つまり、徹底して「アイドルととられてもいいけど、あくまでもわたしは歌手。」という姿勢を守っていたのです。
なぜかというと、1980年代後半のおニャン子ブーム終息以後90年代にいたるまでの約10年の長きにわたり、「アイドル歌手」というジャンルはなかなか売れないという空気がまとわりついていたからなのです。
聖子ちゃんや中山美穂さんの楽曲は確かにヒットしていましたが、それはもう「プロ歌手」や「女優」としての自身を確立した個人個人の人気があったというだけで、「アイドル」のワクにいる方々ではなくなっていたのです。
あんなにがんばっていたCoCoや東京パフォーマンスドールも、その努力相応の国民的熱狂を得ることはなかなかむずかしく……そういった数々の苦難の歴史もあり、1990年代には「歌手なら歌をうまく! 女優なら美しく!」という即戦力となるわかりやすさがもてはやされており、ある意味でそれとは逆の位置にある、「これからがんばって成長していきます。みんな応援してネ!」という、ファンとともに伸びていこうというフワフワ感や未完成にこめられた未来性がよかったアイドルのあり方は売れない! とされる風潮が続いていたのです。ドライねぇ~。
そのため、1990年代後半に活躍したグループは、形態で言えば「アイドルグループ」ではあるものの、その楽曲や活動スタイルはちょっとアイドルとは呼びがたい、という様相を呈していました。
この人たちもそんな感じ。
PUFFY(1996~)デュオ
大貫亜美(23歳)と吉村由美(21歳)
歌手志望だった2人が1995年に結成し、1996年5月に1stシングル『アジアの純真』でデビュー
奥田民生プロデュースによる楽曲は1stから4thまで連続ミリオンセラーとなる
1997年からはアジア、2000年からはアメリカで活動しブレイクする
2004~07年にはアメリカで2人を主人公としたアニメ『Hi Hi PUFFY AMIYUMI』が放送されヒットしていた
1999年からは奥田民生以外のプロデュースによる楽曲も積極的に発表している
代表曲 『渚にまつわるエトセトラ』(1997)
ね。アイドルっぽくないでしょ。
それはもちろん当たり前で、もともと2人は歌手志望だったのですからそうなんです。
しかし、よりアーティストらしくを旨としていた小室ファミリーと違って、Tシャツにジーンズというスタイルでざっくばらんに、歌番組などでの芸能界の大先輩たちを相手にしてのトークでもものおじすることなくわたりあっていた「自然っぽい」スタイルは、見事にそれにマッチした奥田さんの楽曲ともあいまって若い年代に圧倒的な支持を得ることとなりました。ヒットチャート上位をにぎわせた彼女たちのブームは1998年まで続いていくこととなります。
このようにPUFFYの魅力はスターらしくない、ましてやアイドルらしくもない「自然っぽさ」だったわけなのですが、デビュー2年目にして早くも自分たちの持ち番組『パパパパパフィー』(1997~2002)をこなしてしまうほどの大御所お笑い芸人のようなふところの広さを持っていた2人は、間違いなく「しろうとには絶対に再現できないしろうとらしさ」を見せることに関してのプロだったと言えるでしょう。要するに、たとえるならばPUFFYの「自然っぽさ」はおニャン子クラブの武器としていた「正真正銘のしろうと感」ではなく、むしろとんねるずの「プロの提供するしろうと感」に通じるものだったのです!
だから、PUFFYって歌手っぽくなくて芸人っぽいんだ……
いやー、でも歌手としてもすごいんですよねぇ。
PUFFYといえば『アジアの純真』ですかね。でも、私は上にあげたように『渚にまつわるエトセトラ』がほんとに大好きで。
だって、『アジアの純真』は奥田さんや作詞の井上陽水さんが唄ってもいい曲として成立するんですけど、『渚にまつわるエトセトラ』にはPUFFYでしかつくりだせない世界ができていますからね。まさに「女性デュオPUFFY」の真骨頂!
さて、1990年代のアイドルグループといえばこれも忘れるわけにはいきません。「沖縄勢」!
まずはこちらから。
D&D(1996~99年)3人組
沖縄アクターズスクール出身
14~17歳 メインヴォーカル・オリヴィア(17歳)
日米ハーフのオリヴィアは中学生になるまでアメリカで生活しており、日本語はちょっと苦手
MAXと同じくヴェルファーレ以降のユーロビート路線にのった楽曲とオリヴィアの圧倒的な歌唱力が魅力
1998年4月からオリヴィアの個人活動が始まり、、D&Dとしての活動は残りの2人(日本人)が引き継ぐ
1999年2月のオリヴィアのソロデビューと、4月の7thシングルのリリースをもって活動は終了
現在はオリヴィアのみが歌手として活動している
オリヴィアさんの容姿と歌唱力がとにかく印象的なD&Dだったのですが、やはり楽曲が期待されたほどヒットしなかったことやオリヴィアさんの当時のコミュニケーション能力ににんともかんともな限界があったことが、そのままグループとしての寿命につながってしまいました。
声にとにかくパワーがあるんでねぇ、デビュー当初からCMとのタイアップなどがあって媒体での露出度は高かったものの、それでもブレイクできなかったのは残念でした。
そしてそして、そんなD&Dのデビューは1996年8月のことだったのですが、それからやや時間を巻き戻した1995年11月。
同じ沖縄アクターズスクールの出身だった少女アイドルグループ4人組が、当時大人気だった日本テレビの歌謡バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』でTV初出演を果たすこととなります。
なんとメンバーの中には、11歳の小学生もいるというおさなさ。果たして実力重視・硬派本位だった当時の芸能界の荒波を乗り越えていくことがこの娘っこたちにできるのだろうか……周囲からは興味本位の視線がそそがれます。
しかし! なんと彼女たちは見事に世間の視線を一変させました。それどころか、TKブームやPUFFYブームの間隙をついて国民的支持を獲得するアイドルグループにまでのぼりつめていったのです。
彼女たちの名は……SPEEDぉおオオオウオウゥアッシャアア!!
……って引っぱらなくてもみなさんご存じですよね。
っつ~ことで、続きは次回でございます。
すんません、今回はタイトルにかかげた娘。さんたちどころか、なんとSPEEDにさえたどりつくことができず……あゆみが遅いよヘヘイヘ~イ!!