長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第23回 『第2次モーニング包囲網。1999 チェキッ娘の陣』

2011年06月25日 23時07分56秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 はいどうも、こんばんは! そうだいです。みなさん、今日もいい1日になりましたでしょうか? 突然また涼しくなりましたね。体調を崩さんように気をつけないと!

 突然ですけど、美人な女性が「思い出し笑い」してるのって、いいですよね。

 電車に乗っていたら、向かいの座席に座っていた女性が「木村カエラさんの姉」といった感じの美人でして、あれ、チェロっていうんですかね? 1メートルくらいのおっきな楽器をかかえてボヤーンとしてるんですけど、時々にんまりしてるのね。
 そんなにだらしない感じでもなく「ぽいっ」というていで脚をのばしていて、たまにチェロに頬づえをついているしぐさも含めて、見事に「木村カエリズム」を体現していた方だったので、妙に感心してしまいました。
 チェロっていう持ち物もいいんですけど、思い出し笑いさえも、美人にとっては武器になるんだねぇ。すごいもんだわ。私なんかがやっても気持ち悪いだけなのにねぇ、うん。


 んじゃあ~今回もおぱっ、おぱっ、おっぱじめますかい、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」!

 いや~。6月、もう終わっちゃうねぇ。それなのに、この企画はまーんだ終わらないぃ~。
 2011年までは……あと10年ほどですか。地道にやってくしかねぇわなぁ。

 しかし、ここまで長く険しい道のりになろうとはのう。思えば遠くへ来たもんだ!

「人生とは 重き荷物を背負いて 長き坂をのぼるが如し」

 でしたっけ? かの徳川家康の言葉だとか。
 それをこのアイドルグループ史で実感いたしました。いや、もっと他になんかあるだろ。


 1998年の後半に初めてブレイクし、翌99年のまた後半にリリースした7thシングル『LOVEマシーン』でついにミリオンヒットをかっ飛ばすこととなったモーニング娘。のみなさん。

 今回は、そんな彼女たちを取り巻いて1999年以降に活躍していた他のアイドルグループのみなさんをあつかってみたいと思います。どんな人たちがいたのかナ?

 前回につづった1998年の「モーニング包囲網。」は、特にモーニング娘。を包囲しているつもりではないという衝撃の実態があったのですが、さすがにオリコン1位を獲得して『紅白歌合戦』にも初出場というキャリアを持ってしまった以上、翌99年の周囲のモーニング娘。を見つめる視線は、単なる「よくある企画ものグループのひとつ」というわけにはいかなくなっていたのです。


 さっそくいきますが、まず挙げておかなくてはならないのはこの方々ですよね!

チェキッ娘(ちぇきっこ 1998年10月~1999年11月)6~20名
 15~18歳 下川みくに(18歳)ら
 秋元康の企画協力による「平成のおニャン子クラブ」
 『夕焼けニャンニャン』でADをつとめていた水口昌彦プロデューサーが総合プロデュース
 フジテレビの夕方バラエティ番組『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!!』(1998~98年)に出演
 番組内のしろうとオーディションでメンバーが追加されていくという「おニャン子クラブ」方式の復活
 メンバーは「出席番号」ではなく「ID番号」制
 約10のグループ内ユニットが活動していた
 1999年3月の『DAIBAッテキ!!』放送終了をもって下川のみ脱退しソロ歌手デビュー
 当時盛り上がっていた「ディーヴァ(歌姫)ブーム」によりヒットせず
 ※楽曲シングルのオリコン最高順位は30位
 タイアップしていたゲーム機「ドリームキャスト」の伸び悩みも大きかった
 おおむね歌唱力がきびしい
 1999年11月の東京ベイNKホールでの「旅立ちLIVE」により解散
 2004年と2009年に期間限定で復活している
 在籍していた21名のうち、現在も芸能界で活動しているのは下川、熊切ら7名
 ※参考までに、おニャン子クラブの場合は52名中13名が現在も芸能活動を続けている


 チェキッ娘でございます。チェキー!!

 今まで、「おニャン子クラブの後継者」と目される10名以上の規模を持ったアイドルグループは、おもだったところではフジテレビのプロデュースした「乙女塾」(1989~91年)やテレビ朝日の番組企画グループ「桜っ子クラブさくら組」(1991~94年)、日本テレビの番組企画グループ「ねずみっ子クラブ」(1993年)がありましたね。アイドルグループとは言えないのですが、チェキッ娘のほぼ同時期には、同じフジテレビの深夜番組『アイドルハイスクール 芸能女学館』(1998~99年)で約20名ほどの新人アイドルが共演していました。

 だが、しかし。
 おニャン子クラブの落日から始まったいわゆる「アイドル冬の時代」の厳しさはすさまじいものがあり、CoCoやribbonを輩出した乙女塾も、菅野美穂や中谷美紀が所属していた桜っ子クラブさくら組も、当時の知名度は全国レベルとは言えない低さにとどまっていました。というか、この2グループは全体としての活動にはあまり力を入れていなかったため、「母体」としての意味はそれほどなかったともいえます。
 秋元康と後藤次利が楽曲で再びタッグを組んだねずみっ子クラブがもっとも正統な後継者であるようにも見えるのですが、10歳くらいの子どもが集まった「チャイドルグループ」だったねずみっ子クラブは、残念ながら一般的な人気を得ることのないまま消滅していきました。

 さて、そこでこのチェキッ娘なのですが、まずはグループの「パッケージ」がほぼ忠実におニャン子クラブを模したものであることがおわかりかと思います。
 まぁさすがは『夕焼けニャンニャン』にたずさわったことのあるAD出身の水口プロデューサーということで、「芸能活動経験のほぼない女性を番組内のオーディションでメンバーに加えていく」というグループの作り方は、まさに過去のどのグループよりもおニャン子クラブに近いものだったと言えるでしょう。
 ところが……上にもあげたとおり、チェキッ娘には今ひとつブレイクできないまま解散にいたってしまった「いくつかの不運」がありました。

 まずはなんといっても、「知名度が低かった」。
 原因は、チェキッ娘の活動の拠点となっていたレギュラー番組『DAIBAッテキ!!』以下のシリーズが、あの『夕焼けニャンニャン』と同じ平日夕方の枠であったのにもかかわらず、関東ローカルでの放送だったため。
 制作側としては口コミで人気が広がることも期待していたようなのですが、まだまだインターネットも一般的なものになっていなかった1990年代末期ではそれにも限界があり、実際に当時山形県に住んでいた私は、いくら『HEY!HEY!HEY!』でチェキッ娘があつかわれても、今一つ「誰だべ~?」という疑念をぬぐい去ることができなかった記憶があります。あとはやはり、そういった状況だったのに加えてフジテレビ以外のテレビ局の番組に積極的に出演しなかったことがそのまま足かせになってしまいました(他局の音楽番組でのCD宣伝程度はしている)。

 知名度の問題と並行したのが、「楽曲がヒットしなかった」。
 チェキッ娘はかなり積極的にグループ全体としても多くのグループ内ユニットとしても楽曲を発表しており、チェキッ娘本体が解散して以降も独立して活動を続けていくユニットがあったほどでした。
 有名なチェキッ娘内ユニットは以下のとおり。


NEOかしまし娘(1999年)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 下川みくに(19歳)
 グループ名は『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で松本人志が命名
 1999年3月の下川のチェキッ娘脱退によって解散
 ※「かしまし娘」は「アイドルグループ史」の第1回を参照のこと
NEOちゃっきり娘(1999年)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 上田愛美(17歳)
 グループ名は『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で松本人志が命名
 1999年11月のチェキッ娘解散と同時に解散
 ※「ちゃっきり娘」とは、1960~80年代に活動した女性音曲漫才トリオ
CHEE'S(チーズ 1999年1月~2001年6月)3~5人組 チェキッ娘のグループ内ガールズバンド
 17~19歳 新井利佳(ベース担当 18歳)がリーダー
 全員が楽器を演奏しながら歌唱するスタイル
 結成から解散まで在籍していたのは新井と藤岡麻美(ドラム担当 17歳)
 下川みくにもチェキッ娘を脱退する1999年3月まで在籍していた(トランペット担当)
 プロベーシストの吉田建がプロデュース
 1999年11月にチェキッ娘が解散した後にも活動を続ける
 3枚のメジャーシングルをリリースするがヒットせず解散
 現在は新井は引退しているが藤岡は歌手として活動している
METAMO(メタモ 1999年7月~2003年3月)3人組 チェキッ娘のグループ内ユニット
 18~19歳 熊切あさ美(19歳)ら
 体操服にブルマ姿だったりする「色もの」ユニット
 1999年11月にチェキッ娘が解散した後にも活動を続ける
 バラエティ番組でものまね芸などを披露していた
 2枚のメジャーシングルと1枚のアルバム(タイトルは『うざい曲集』)をリリースするがヒットせず解散
 現在は熊切のみがタレントとして活動している(「崖っぷちアイドル」と呼ばれていた時期も)


 こんな感じだったのですが、どのグループもどの曲も今一つヒットしなかったのは、知名度が低かったからなのか、単に曲がよくなかったからなのか。
 やっぱり、いくら「アイドル冬の時代」が終わったとはいえ、それはおニャン子クラブが大いにウケた「しろうとっぽさ大歓迎の時代」が戻ってきたということではなかったんですな。当時の「歌はうまくて当たり前」というディーヴァブームをくつがえすことはできなかったと。
 ちなみに、チェキッ娘の活動に企画協力した、「おニャン子クラブの生みの親」にしておニャン子クラブの多くの名曲の作詞を手がけてきた秋元康さんは、チェキッ娘の楽曲にはいっさいかかわっていません。
 なぜこんなに秋元さんがつれなかったのかといいますと、実は当時、秋元さんはセガの新世代ゲーム機「ドリームキャスト」の宣伝プロデューサーとなっており、あくまでその戦略の一環としてチェキッ娘の活動と提携するという立場だったからなのです。

 そう、そしてチェキッ娘最大の不運となった致命的なポイントもそこ! 「組んだドリームキャストが失敗した」。ここだったんだなぁ~。
 セガの社運をかけて開発されたという「ドリームキャスト」は1998年から秋元さんをまねいて大々的な宣伝攻勢をかけ、当時本当にセガの重役だった「湯川専務」を主役にしてしまう斬新すぎるCMなども大きな話題となりました。
 しかし! ゲーム機としての性能以外にも互換性だとかDVDが観られる観られないだとかソフト商品の発売トラブルだとかなんとかで、ライバルだったソニーの「プレイステーション2」に大きく水をあけられてしまい、2001年にあえなく撤退の憂き目を見ることとなります。
 ここねぇ……インターネットの線がなかったとしても、もしゲーム業界で勝ち馬に乗ることができたら、そこから知名度が上がったり楽曲がタイアップ戦略でヒットすることもありえたかもしれんのですが……

 この「アイドルグループ史」をつづるにつけて、アイドルというものは「時運に乗る」というラッキーさも、重要なというかなによりも一番大切な実力であって、実は「かわいい」があっても「歌がうまい」があっても「おもしろい」があってもタイミングが悪かったらブレイクできないという冷酷な歴史的事実を痛感してしまうのですが、そういう意味ではチェキッ娘ほどわかりやすい残念な例はないと思うんですね。

 結局、「おニャン子クラブにもっとも近い存在」だったチェキッ娘は、その意欲的な展開にもかかわらず諸要素が見事なまでに噛みあわなかったため、当時全盛期にあったSPEEDやモーニング娘。をおびやかすアイドルグループとなることのないまま1999年に「旅立ち」という名の解散をとげることとなりました。
 つまるところ、2~3年間『オールナイトフジ』が充分にあたためてきた「しろうとブーム」をきれいに継承したおニャン子クラブにくらべて、チェキッ娘はあまりにも助走期間がなさすぎたのです。『夕焼けニャンニャン』のシステムだけをトレースしてもしょうがなかったのね。
 そのため、芸能界に残ったチーズやメタモもその後は厳しい路をあゆまざるをえず、特にバラエティ番組で活動したメタモは過酷な仕事も多く、お笑い芸人にまざってハロプロ系の「プッチモニ」などのものまねをする彼女たちを観て、多くの人々が袖をぬらしたとかそうでもないとか。

 しかし! ここで私は特記しておきたい。チェキッ娘は、「解散コンサートの価値の再確認」という最後の1点でアイドルグループ史に名をきざむ存在になりえたと。
 要するにチェキッ娘は、名曲がなくてもメンバーの個性がよくわからなくてもアーティストとしての実力がまだそなわっていなかったとしても、「私たち、解散します!」という気持ちに嘘偽りがなかったとしたら、解散コンサートの彼女たちはなによりも光り輝く存在になるのだということを証明してくれたのです。
 まさにガチンコ。1999年の解散コンサートだけは、その時のチェキッ娘だけは、SPEEDもモーニング娘。もかなわない「その日その時にしか味わえないライヴのエンターテインメント」を創造していたのでしょう。

 そういう点では、解散ではないですがつい最近にあったAKB48の第3回総選挙も、同じような興奮があったのではないでしょうか。つまりは、AKB48の楽曲が好きでない人も、メンバーの顔と名前が一致しない人でさえもついつい引き込まれてしまうのが「人生をかけたアイドルたちの感情のやりとり」なのです。
 だとすれば、AKB48の直接の「おかあさん」にあたるのはチェキッ娘だというのか……母の無念を娘が晴らす。すすす、すごい大河ドラマだ!

 かわいさよりも歌よりも、その真剣さ。それが垣間見える瞬間に立ち会いたいからこそ、人はアイドルのファンになるのかもしれない。
 

 スペースをだいぶチェキッ娘だけにさいてしまいましたが、1999年にはSPEEDの正式な後継グループとも言えるこんな方々もいました。


y's factory(ワイズファクトリー 1999年10年~2002年1月)3人組
 14~15歳 山田優(15歳)ら沖縄出身のヴォーカルダンスユニット
 沖縄アクターズスクールの選抜メンバー「B.B.WABES」の中から結成
 メンバーの名前が「ユウ」「ユカ」「ユウカ」でYつながりだったので「y's factory」
 6枚のシングルと1枚のアルバムをリリースするがヒットせず
 山田はすでに並行してモデルや女優としても活動していた
 現在は山田のみ芸能活動を続ける


 彼女たちはパチモンではなく、正真正銘の「SPEEDの後輩」だったわけなのですが、SPEEDの解散宣言にあわせて満を持してデビューしたものの、やはり巨大なファン層をそっくりそのまま引き継ぐことはできなかったようです。
 3人とも、沖縄アクターズスクールのエリート中のエリートだったので歌唱力もダンスも申し分はなかったものの、どうやら山田さんのその後の活躍を見てもわかるように、少々とっつきにくいハイレベルな「大人感」を出しすぎたのがいまいちブレイクできない原因だったのではないでしょうか。
 つまり、同じバラードを唄っていたとしても、感情をむき出しにしたなりふりかまわないモーニング娘。にくらべて、ワイズファクトリーはどこかかっこよすぎて崩れないスタイルのドライさがあったのです。それがそのまま「手数の少なさ」というか「単調さ」に見えてしまったのではないかと。
 そんな感じだったため、ワイズファクトリーの埋められなかった「SPEEDの穴」は、のちにSPEEDご本人たちが再び埋めることとあいなったのでした。

 やっぱり、「後継」だ「妹」だっていうのはなにかと分が悪いものなんですなぁ。
 このように、1999年くらいからじょじょ~に始まってきた「モーニング包囲網。」というか、モーニング娘。への周辺の意識だったのですが、まだまだ充分に対抗しうるアイドルグループが台頭することはありませんでした。そういう点では、モーニング娘。の相手はあくまでも他のビッグアーティストやディーヴァブームで登場した歌姫たちだったのであり、アイドルグループの情勢は「モーニング娘。ひとり勝ち」のまま20世紀の終焉を迎えようとしていたのでありました。


 はいは~い、次回はいよいよ20世紀最後の年・2000年。ますます盤石のものとなっていくモーニング天下をたどっていきたいと思いま~す。
 辻ちゃん加護ちゃんあらわる! なっち丸くなる!
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