長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第18回 『お待たせ! 1997モーニング胎動。』

2011年06月14日 23時01分24秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ドドドドモ~イ、そうだいです。なんか最近、また余震が多くなってきてませんこと? なんだかわかんないですけど、特に明け方ゆれることが多いような……気のせいかしら。

 まだ曇り空な日々は続いているんですが、いよいよ夏も近づいてきたということで、私の働いているお店も冷房でふえるぶんの節電対策のために、何本か店内の蛍光灯をはずすということになりました。
 看板灯を通常の半分しかつけないという対応はやっているのですが(4月いっぱいまでは外の電気はまったくつけていませんでした)、店内の明るさももうちょっとおさえようという話になりましてねぇ。
 実際、近所のコンビニも全体的にうす暗かったり、天気のいい日の昼間は窓からの自然光だけで営業しているところがあったりしているわけなんですが、ど~も、慣れないうちは意外な明るさの減りように戸惑ってしまいます。
 まぁ、これからはクーラーもつけなくちゃ営業もやってられなくなりますからね。節約できるところはやってみるということで。

 しっかしまぁ、うちの町のもよりの駅は、天下のJR総武線だっていうのに、ロータリーも夜は真っ暗なまんまなんですよ。
 「誰そ彼(たそがれ)どき」とはよく言ったもんですよねぇ。夕暮れ以降はほんの1メートル先であっても誰が誰だかわかんなくなりますから。
 それはそれで闇の風情があっていいと……まぁ言っていくしかねぇやねぇ!?


 さてさてみなさま。たいへん、たいっへん! おまんたせいたしました。
 いよいよ今回から、我が「ざっくりすぎるアイドルグループ史」は、ついに2011年6月現在に栄華をきわめている感もある日本の女性アイドルグループ文化の、その核心に地続きにつながっているムーヴメントの起点ともいえるゾーンに入っていくこととなります。
 やっとですよ~。タイトルで「モーニング胎動。」、「モーニング胎動。」ってけっこう前から言ってたのに、全然そこまでたどり着けてなかったですからね。

 さぁ! ほんじゃま、アイドルグループの歴史における「新たなる伝説のはじまり」となる局面に突入することにいたしましょ~。
 ここはでっけぇぞ~……果たして五体満足でこのアイドル宇宙最大規模のアステロイドベルトを通過しきることができるのかどうか大いに不安なのですが、ここを越えなければ「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の完成は永遠にありえないのです。

 やらいでか!! いざまいらん、ハロー!プロジェクトの遠大なる創世の神話へ~。


 時に、1997年4月。
 あいかわらずglobe、安室奈美恵、前年にブレイクした華原朋美による「小室ファミリー」の全盛期は続いており(安室さんの出産休養は翌1998年のこと)、さらにはPUFFY人気も継続中。そしてついに先月3月にはSPEEDが3rdシングル『Go!Go!Heaven』で初のオリコン1位を獲得し、まさに「ミリオン級アーティスト乱立」の超戦国時代が幕を開けようとしていたころ。あの、この企画ではガン無視させていただいているのですが、ミスチルとかGLAYとかLUNA SEAとかL'Arc~en~Cielも台頭していたんですよ!? もうタイヘンよ~。


 そんな中、テレビ東京のある番組で、ある歌手オーディションがもよおされました。

 番組名は『ASAYAN』、オーディションのタイトルは「シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション」。

 『ASAYAN』は毎週日曜日の夜9時から放送していた、当時のテレビ東京の看板ともいえる「オーディションバラエティ番組」でした(2002年まで放送)。
 もともとこの番組は、同じ時間帯に放送していたバラエティ番組『浅草橋ヤング洋品店』のワンコーナーだったのですが、だんだんと拡大されていってついに番組そのものをのっとってしまった、という不思議な経緯がありました。
 1992年に開始した『浅草橋ヤング洋品店』は、演出・テリー伊藤、司会・浅草キッドという陣容で、流行のファッションや街の変な人を紹介していくという、まさしく『天才たけしの元気が出るテレビ』(日本テレビ)の正統な後継者ともいえる内容になっていました。のちに大ブレイクすることとなる城南電機の宮路年雄社長(故人)や、あの江頭2:50を最初に発掘したのもこの番組だったのですが、その中で始まったまったく毛色のちがう「コムロギャルソン」というコーナーこそが、のちの『ASAYAN』の前身となったものです。

 「コムロギャルソン」は、タイトルを読んでもらえばだいたいおわかりかと思うのですが、小室哲哉が新人歌手をプロデュースするという素人オーディションコーナーでした。司会は当時まだまだ関東圏では新人同然の扱いだったナインティナイン!
 本体の『ヤング洋品店』よりもよっぽど一般ウケする雰囲気があった「コムロギャルソン」は、日の出の勢いで時代の寵児となった小室さんやナイナイの人気もあいまって大反響を呼び、1995年に番組は『ヤング洋品店』の内容と「コムロギャルソン」コーナーとが1時間の放送時間を半分ずつ受け持つ構成となり、番組タイトルも『ASAYAN』に変更され、最終的には1996年3月をもってテリーさんと浅草キッドが降板したことにより、それ以降は1時間まるごと全部がオーディション番組、という内容になっていきました。

 そして、1996年の春から『ASAYAN』は本格的に素人オーディションに本腰を入れていくことになり、発掘対象は歌手・俳優・タレント・モデル・ファッションデザイナーにラッパーにJリーガーなどと拡大していき、その結果、CHEMISTORYや加藤ミリヤ、池脇千鶴さんといった面々が世に出ていくことになりました。
 それにしたがって、歌手関連については小室さん以外にも河村隆一(LUNA SEA)や浅倉大介(access)、avexの創業者MAX松浦といった錚々たるプロデューサー陣が番組に参加していたのですが、1997年の4月から始まったオーディションで新人をプロデュースすることとなったのが、当時売れっ子の浪花のロックバンド・シャ乱Qだったというわけなのです。

 シャ乱Q! 私なんかはつい無責任に「なつかし~!」と思ってしまうのですが、いちおう2011年現在も解散はしていないんですよね。

 シャ乱Qは1988年、当時の第2次バンドブームに乗って大阪で結成されたロックバンドです。なんといっても有名なのはヴォーカルのつんくさんですが、バンド自体のリーダーはギター担当のはたけさんです。
 1992年にメジャーデビューしたシャ乱Qはなかなか売り手としては不遇な時代が続いていたのですが、ついに95年5月にリリースした7thシングル『ズルい女』で全国的なブレイクを果たすこととなり、つんくさんの一度聴いたらなかなか耳から離れないねっとりした歌声や、当時のロックバンドとしては珍しく具体的な日常生活(主に恋愛がらみ)についての心の機微を繊細にとらえた歌詞世界、そしてなんといっても、バラエティ番組のトークなどでもプロのお笑い芸人達と十二分にわたりあえるほどノリのよかった各メンバーのとっつきやすいキャラクターがおおいにうけて一躍お茶の間の人気者となっていました。ロックバンドのヴォーカルであるはずのつんくさんがいつも「ネタ帳」を持ち歩いていた、という当時のエピソードはつとに有名ですね。

 そんなシャ乱Qとつんくさんが、ついに『ASAYAN』で本格的に新人アーティストを発掘して全面プロデュースをすることになったのが、冒頭にあげた4月の「女性ロックヴォーカリストオーディション」ということだったのです。
 つんくさんは1994年ごろから、同じ大阪つながりである吉本興業の芸人さんに楽曲を提供したりはしていたのですが、音楽プロデューサーといえるほどの規模での活動はまだ経験が無く、そういう意味ではつんくさんのその方面での技量はまだまだ未知数のものがありました。

 実際、このオーディションはあくまでも「シャ乱Q」が音楽プロデュースを手掛けるということになっており、4月に始まって約9900名の応募者の中から8月に選ばれることとなった平家みちよ(18歳)は、11月にデビューしたあとは基本的にシャ乱Qリーダーであるはたけさんがプロデュースをつとめていたのです。つんくさんじゃなかったのね。

 さて、問題は、このオーディションで優勝した平家さん……ではなく! 最終選考まで残った5名の娘さんたちでした。

 優勝した平家さんのデビューを引き受けることとなった芸能事務所「アップフロントエージェンシー」は、最終選考に残った何人かの女性たちにも注目し、特に北海道からやって来た「純朴な村のわらし」を絵に描いたような外見の安倍なつみ(16歳)という美少女に注目します。
 なんとか安倍さんもデビューさせたいと考えた事務所だったのですが、オーディション優勝者でない以上、平家さんと同時期にならべてデビューさせるわけにもいかず、思案の結果たどりついたのが、他の芸能界入りに意欲のある最終選考者たちとあわせてアイドルグループを組ませる、という策だったのです。
 この形式自体はまったく常套のもので、ソロデビューさせるには早すぎるが知名度は上げておきたい、というアイドルがいた時にはよく見られていた方策でした。もちろんそんなことは、アイドルグループが活躍している最中には空気が気まずくなるのでおくびにも語られることはないわけなのですが……事務所の方はいろんなことを考えますよね。
 こうした経緯により、最終選考に残った娘さんの中からあらためて選ばれた安倍なつみ、飯田圭織(16歳)、石黒彩(19歳 当時短大生)、中澤裕子(24歳 当時OL)、福田明日香(13歳)。

 彼女たちが集まってできた5人組アイドルグループこそが! 「モーニング娘。」だったわけなんですね。

 出た。ついに結成されてしまいました、モーニング娘。が!
 しかし、アップフロントエージェンシーが5人をひとつのアイドルグループとしてデビューさせると決定し、それを5人が了承したのは、オーディションが終了した直後の8月20日のことだったのですが、その時点では、まさかモーニング娘。という存在が15年ちかくも国民的なアイドルグループとして続いていくことになろうとは。当の5人たちもつんくさんも、事務所も視聴者もみ~んな予想だにしていなかったでしょうなぁ。そもそも、この時には具体的なグループ名も決まっていなかったし。

 さて、ここまでの流れで言うと、「芸能人になりたい娘さんたちを集めてグループにする」というあたりはよくあることだったのですが、ここにモーニング娘。のブレイクを語る上で忘れてはならないオリジナルな要素が加えられることとなりました。これがデカかったんだ!

 それが、『ASAYAN』側からふっかけられるという形で提示された、「インディーズCDを5万枚手売りで完売させたらメジャーデビュー」という課題企画だったのです。ムチャ言いよるわぁ。

 当時は、前年1996年に日本テレビの深夜バラエティ番組『進め!電波少年』がお笑い芸人・猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」という企画を大ヒットさせており、「タレントにムチャをさせる」番組づくりが大流行していました。
 「5日間で5万枚手売り」というのはそうとうに無理のある企画で、実際にそれは厳密な意味では達成されなかったのですが、デビュー前から芸人もビックリのムチャぶりをされてしまった彼女たちは必死にがんばり、そのアイドルらしからぬ真剣な取り組み方が相乗効果となって、モーニング娘。の存在はメジャーデビューする前から知られていくこととなりました。

 8月20日の5人組グループ結成の報は9月7日分放送の『ASAYAN』で発表されることとなり、翌8日に彼女たちのプロデュースを担当することとなったつんくさんがグループ名を「モーニング娘」とし、次週に放送された『ASAYAN』の中で司会のナイナイの矢部さんが、発表されたフリップに書かれた文章「モーニング娘。」の「。」までをもグループ名に取り入れると決めてしまったために、ここをもって5人組の名前は「モーニング娘。」に最終決定されるはこびとなったのであります。
 でも、あとで調べてみたら「モーニング娘」よりも「モーニング娘。」で1画ふえたほうが姓名判断では縁起が良かったっていうんですからね。人生、なにがきっかけで好転するのかわかったもんじゃありません。

 さっそくモーニング娘。はインディーズCDのレコーディングに入ることとなり、『愛の種』という楽曲を唄うことになります。
 でも、この『愛の種』って曲、実は作詞がサエキけんぞうさんで作曲がCOSA NOSTRAの桜井鉄太郎さんってことで、つんくさんは全然からんでないのよね……どうした? 忙しかった?
 そのへんの経緯もあってか、モーニング娘。の「ほんとうの」1stシングルとなる『愛の種』は、その後にリリースされたメジャー1stシングル『モーニングコーヒー』のカップリングになったり1stアルバムに収録されていたりもしていますが、それ以降のつんく楽曲とはだいぶ印象の異なったかなりおとなしいものになっています。でも、若干の古くささや青さはあるものの、ういういしくてとってもいい曲ですね。洗練されていないところがいいっていうのは、まさに「アイドルグループ」楽曲の王道ですよね。
 余談ですが、つんくさんが現在使用している「つんく♂」という芸名は2001年から使用されるようになったもので、モーニング娘。結成の時点ではまだ「つんく」のままでした。ちなみに作詞・作曲家として活動する時は、現在も芸名は♂のない「つんく」のままです。

 そして、運命の『愛の種』メンバー手売りキャンペーン開始の11月3日。
 イベントの出発点となったHMV大阪・心斎橋店では1日で1万6610枚という記録的な売り上げをとることとなり、さすがに全国キャンペーンだったためにスケジュール上の条件もあって「5日間で」というくくりを守りきることはできなかったものの、イベントの最終日となる11月30日のナゴヤ球場(ドームじゃないところがインディーズらしい)での手売りによって見事5万枚を達成、翌1998年のメジャーデビューが決定されることとなります。


 さあ、かくして伝説は始まった。

 1997年は、このような大いなる嵐の予感をはらんだまま、おもてむきは依然として小室帝国・PUFFY自治区・SPEED共和国・ヴィジュアル系合衆国などの天下のまま暮れていったのでありました。

 モーニング娘。のメジャーデビューと台頭をつづる1998年は、また次回。ごっちん、いまだ動かず!
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