わが津幡町行政の「生涯学習課」では、
年間10数回に亘り「町民大学講座」を開催している。
今年は少なからず新型コロナ感染拡大の影響を受けたが、
関係各位の尽力により講座中止は回避して継続中。
先日、うまく都合がつき
「ふるさとつばた講座③ 河北潟の歴史~その変遷と人々の足跡~」に参加した。
今回は、そこで見聞きした内容に、私見を交え、簡潔に投稿してみたい。
拙ブログでも度々取り上げているが---
「河北潟(かほくがた)」とは、石川県のほぼ中央に位置し、
金沢市、津幡町、内灘町、かほく市にまたがる大きな水辺だ。
かつてのサイズは、東西4km、南北8km。
内灘砂丘の発達によって日本海と遮断されて形作られた、
北陸で最大の汽水湖だった。
戦後、国の干拓事業が進み、残存水域は往時の1/3あまりに留まる。
上は、今講座で紹介された昭和27年頃の河北潟。
国土交通省の写真56枚をつなぎ合わせて作成した合成写真。
下は現在の姿。
角度は異なるものの、形状の違い、水陸の割合の変化などが見て取れる。
---さて、河北潟の歴史は今から2,000年前にまで遡るという。
周辺地域から遺跡が数多く出土していることからも明らかだ。
(※1:北中条遺跡出土、弥生式土器/以前の企画展より)
今講座では、時系列を追ってそれらの紹介があった。
・北中条遺跡 (縄文時代後期~)
・谷内石山遺跡など(弥生時代末期~古墳時代後期)
・加茂遺跡 (奈良・平安時代)
・中橋遺跡
庄ナカナシマ遺跡(平安時代~室町時代)
土地勘のある方にしか分からないだろうが、
どの遺跡も馴染みの区域名(字名)が付いているものばかり。
昔の河北潟沿いをぐるりと囲むように展開している。
また、干拓以前の様子も紹介された。
(※2:昭和30年 津幡川~河北潟を往く舟)
(※3:昭和30年代 河北潟のシジミ漁)
・水郷が広がる多様な景観と、漁労活動。
・水運・舟運の共同体。
・“北陸の宝塚”を目指し、内灘砂丘に建設された「粟崎(あわがさき)遊園」。
・一時、金沢-東京間を結んだ空路の拠点で河北潟沿いにあった「金沢愛国飛行場」。
そして、干拓工事風景。
どれも、興味深く拝見、拝聴した。
どれも、もう目にすることのできない失われた世界。
全てを記憶しているのは、今も静かに水を湛える河北潟だけだ。
付記:(※1)(※2)(※3)の画像は、
「津幡町ふるさと歴史館 れきしる」にて入手した。