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戦後の、物資不足の時代、「配給」された大豆やトウモロコシの粉。
はて、どうやったら、お腹を満たせるのか。
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時には、大豆そのもの、または、トウモロコシの粉が配給になった。
そのなかで、一番苦労したのが、大豆粉である。
今のように、大豆の栄養価が、わかっておらず、何に使おうかと、ずいぶん苦心した。
トウモロコシの粉は、少量の小麦粉と混ぜて、パンを焼いたり、薩摩芋を餡にして、お饅頭を作ったりした。
今思うと、こんなものばかり食べていたのに、よくぞまあ、みんな揃って成長したものと、感謝している。
2004年6月16日 (水) 配 給 <90歳・Umeさんの軽井沢物語>11 (以下、別ページからの移動です)
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収入は同じなのに、子供は4人に。
とにかく家の近くで、働いてみることにした。
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同じ区に、土建やさんがあって、何時も40人くらいの人が通ってきている。
その中に女性もひとり働いていた。いつも、鬼ザルに入れた石ころや砂を、手元へ運んだり、片付け仕事をしている。
私にも出来そうなので、早速そこで働くことにした。
仕事はあまり苦労ではなく、家から近いので、よかった。初めはちょっと恥ずかしかったが、とにかく勇気を出して、そこでしばらく働いた。
石ころを鬼ざるで運ぶことや片付けはよかったのだが、地鎮祭のときは、見ているほど楽ではなかった。
若い人たちが通るたび、面白い言葉に節をつけて歌ったり、冗談ばかり歌にしてまあまあ面白い仕事だったが、自分に与えられた綱さえ歌に合わせて引っ張ったり放したりすればいいものの、力を入れないと自分の綱がたるんでしまうのだ。
いわゆるヨイトマケだ。大きな木の根っこを、12人くらいで、引っ張るのだが、これが意外に重たい。ドスンドスンと3日間、それをした。
2004年8月1日 (日)働く <90歳・Umeさんの軽井沢物語>13