中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

とねさん 

2007-03-15 09:15:31 | 身辺雑記
 戦前、須磨に住んでいた頃、我が家にいた「女中さん」から、今年もタンカンが送られて来た。


 古代にインドから中国に渡ってきたポンカンと、中国南部(現在の福建省~広東省)に自生するミカンが自然交配して生まれたものと言う。その後台湾を経て、わが国の南西諸島に移植されたようだ。



 今では「女中さん」という呼称は封建的とかで「お手伝いさん」と呼ぶようになっている。「お手伝いさん」は大正時代から使われるようになったそうだ。しかし、私には「女中さん」の方が懐かしい感じがする。

 彼女は鹿児島の枕崎の出身で、いわゆる「行儀見習い」として、父の知人の家で働いていた従姉妹かのつてで我が家に来たようだ。まだ15、6歳ではなかったかと思う。一介の会社員の家庭がそのような人をよく雇えたものだと今では思うのだが、両親はちょっと「お坊ちゃん」「お嬢さん」育ちのところもあったし、当時は何とかなったのかも知れない。名前は「とね」と言ったが、家では「とみ」と呼んでいた。当時私は小学校に入学したばかりで、その年相応のわがままな態度を彼女にとったこともあったかも知れないが、両親が我が家の一員として優しく接していたこともあって、私自身も「うちの人」と思っていた。今では気恥ずかしく思い出すのだが、とみさんは私を「坊ちゃま」と呼んでいて、私は彼女を「とみや」と呼んでいた。戦争が始まる前に東京に引越しし、とみさんはやがて故郷の枕崎に帰った。結婚したと聞いた。たぶん18、9になっていたのだろう。どのようにして我が家を去って行ったのか、その時のことはまったく覚えていない。その後は我が家には「女中さん」は来ることはなかった。

 律儀な人で、結婚してからもずっと両親には手紙を出していたようだ。両親もいつまでもかわいく思っていたらしい。私が教師になってから、一度兵庫県の西の方の農家に嫁いだ娘の家に来たことがあり、母と一緒に会いに行ったことがあるが、その後は会うことはなく、私とは年賀状の交換をするだけになった。そしていつの頃からかポンカンやタンカン、時には自分の家でとれた米を送ってくれるようになり、私も盆暮れにはちょっとしたものを送ってきた。そんな時に時々電話するのだが、もう80を過ぎているのに明るい張りのある声で話す。記憶力がよく、私の親戚の者のことをよく覚えている。今でもバイクに乗って動き回っている元気なお婆さんになっている。さすがに今は「坊ちゃま」ではなく「さん」で呼んでくれるので有難い。この年になって「坊ちゃま」などと呼ばれたら入る穴を探したくなる。私も「とみさん」ではなく「とねさん」と呼んでいる。

 昔の人達のことは、もうおぼろげな記憶の底に沈んでしまっているが、とねさんだけはいつまでも懐かしく思う。パソコンに入れてある住所録には、とねさんは「親戚」の中に入っている。