中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

かわいい

2008-01-04 23:47:29 | 身辺雑記
 「かわいい」という言葉は好きだ。いや、言葉もそうだが「かわいい」と感じたり、呟いたりした時に心が温かくなることが心地よい。

 かわいいのは何と言っても子ども、それも幼い子だ。私は子どもが大好きで、街に出た時や中国を旅した時の楽しみは、無邪気な子ども達を見ることだ。明るくかわいい表情や笑顔、しぐさを見ると文句なしに心が温まる。年の初めに、これまでに出会った子ども達を少し思い出して心を温めてみよう。 

 デパートの太鼓焼きの店で、夢中になって職人の手際を見つめる。


 中国紹興出身の夫婦の娘、桃桃(タオタオ)。愛嬌のいい子だった。


 前にも紹介したことがある、西安の果果(グオグオ)と小雨(シャオユイ)。




 新疆のウイグル族の少女達。人懐っこく客好き。


 新疆ウルムチの夜市で。女の子。

 
 湖南省の小学生。


 湖南省の女の子。


 祭の盛装をした貴州省のミャオ族の幼女。


 祭の服装をした貴州省のミャオ族の少女。


 祭の盛装をした貴州省のミャオ族の双子の女の子。


 貴州省のミャオ族の腕白小僧達。


 貴州省のパシャミャオ族の少女達。髪の結い方に特徴がある。


 貴州省の超短裙ミャオ族の男の子。


 貴州省の水族の子ども達。いっせいに「ニイハオ」と言ってくれた。


 貴州省のトン族の子ども達。


 浙江省烏鎮の少女。近くにいた老婦人の自慢の孫娘らしかった。

 
 寧夏回族自治区の回族の少女。茶色の瞳がきれいだった。



 人の子どもだけでなく動物の子どもにも愛くるしいのが多い。特にペットになるような動物は大きくなってもかわいいのが多い。

 ジャイアントパンダの子ども。パンダは成獣もどうしてこのようなかわいい動物がこの世にいるのかと思わせる。まして子どもは縫いぐるみ人形そのものである。


 生後間もないアシカの赤ちゃん。大阪の海遊館で。


 もう子どもではないが、我が家の雌猫のミーシャは今の私にとってはなくてはならない存在だ。99年、妻が逝き、程なく14年間いたペキニーズ犬も死んで空虚な日々が続いた年の11月に我が家に来た。幼いころはかなりのおてんば娘だったが、今では落ち着いたおばさんになっている。横になっている時などにはそばに来て、鼻ををつき合わすくらいに顔を寄せ、じっと大きな目で私を見る。そんな時には「おまえはかわいいなあ」と親バカそのものになってしまう。


 近くの商業ビルの中の店にいるシーリーハムテリアのチャーリーももう成犬だが、子犬のような愛くるしさがある。よく店の前につながれていて、呼びかけると太く短い尻尾を振りながら近寄ってくる。顎に手をかけて顔を上に向けさせると、じっと見つめる目が実にかわいい。そのたびに「かわいいねえ」と言ってしまう。おっとりした子だ。


 西安の李真の実家のニュウニュウは、どうしたものか私が訪れると吠えかかる。小さい犬だから迫力はないし、そばに寄っていくと吠えながら後ずさりする。どうも私が好きではないようなのだが、それでもかわいく思う。



 
 かわいいということは心が明るくなり慰められる。しかし、この「かわいい」は少し乱用されているようでもあり、若い女の子が、対象が若い男性であろうと何でもかでも「かわいい」と言うのには抵抗を感じるし、「かわいいオトコノコ」などと言うのは少々気味が悪い。それを意識する男性などはなおさらで、背筋がむずかゆくなるような気がする。男でも女でも、かわい子ぶるのは好きではない。

 だが、私は年寄りにはある種のかわいさが必要ではないかと思っている。どうも年を取るにつれて頑固になり、気難しくなったりすることが多いようで、近頃はすぐにキレル老人も少なくないらしい。とにかく憎たらしい年寄りはいけない。それで私自身はかわいいおじいさんになって、人に安らぎを与えるような存在になりたいと思ってはいるが、かわいいと言っても子どものかわいさではないし、それにどうもまだ生臭さが抜けきれないようだからちょっと難しい。実現するには時間がかかるのではないだろうか。