先月、次のような事件のことをインタネットで読んだ。
成田空港で、仕事のために北京に向かう40歳の会社員の男が、預けたスーツケースの中の缶ビールが漏れ、ノートパソコンが濡れたことに腹を立て、応対した航空会社の男性職員を土下座させ、「どうしてくれるんだ」などと言いながら、頭から別の缶ビールをかけた。男はそのまま出国せずに逃走したが、通報を受けた警察に逮捕された。
「頭にきてやった」と言ったそうだが、まったく無茶苦茶な理不尽な行為で、40歳と言うと私の息子達より若いが、社会人としての分別があっても当然の年齢で、いったいどういう性格の人間なのだろうかと呆れてしまった。すぐに切れる暴力的な性質なのか、やってしまった後で仕事で北京に行くのに出国せずに逃走するとは、後先を考えずに行動する欠陥人間なのか、いずれにしてもまともな人間ではない。その後どういう処置になったのか、お客様大事の会社は告訴はせず、微罪釈放になったのかも知れないが、こういう人間にはきついお灸を据える必要がある。私がこの男の会社の幹部だったら、突発的にこのような事件を起こしたうえ、仕事を放り出して逃げるような欠陥人間は不適格社員として辞めてもらうだろう。もっともこんな人間は逆恨みして、また傷害事件を起こすかも知れないが。
この事件の記事を読んで思ったことが2つある。
1つはこの男が航空会社の職員を土下座させたと言うことだ。土下座とは「土の上に直に坐り、平伏して座礼を行うこと。日本の礼式のひとつで、極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪、お願いの意を表す場合に行われる」(Wikipedia)もので、上の事件の場合は、もちろん高圧的に威嚇して謝罪を要求したものだ。、私は土下座して謝らせるということが大嫌いで、深い嫌悪を感じる。
かつて教師をしていた時に、ある学年の数名の男子生徒が1人の同級生をトイレに連れ込んで因縁を付け、土下座させて謝らせたということがあり、このことが職員会議に報告され論議された。事の詳細は覚えていないが、私は土下座させたという行為に非常に憤りを覚え、厳しい処置を求める発言をした。また、私の長男が学生の頃、駅ですれ違った数人の学生と目が少し合っただけで因縁をつけられ、土下座して謝らせられたことがあり、私はその顔も知らないその連中をひどく憎んだものだった。薬害エイズの訴訟問題で、原告団が製薬会社の幹部達と会見した時に、土下座の謝罪を強要したテレビニュースを見た時も、非常に不快に感じた。土下座して謝罪する姿は醜く、当事者にとって屈辱以外の何物でもない。被害者達の心情は十分に分かっていても、土下座を強要したことは許されないことだと思った。今も土下座する幹部達の姿と、それに向かって罵っている1人の母親の顔を、どちらも不愉快なものとして思い出す。
もう1つは、日本人の中にはサービス業に従事する人たちを一段と見下げるような気持ちがあるのではないかと言うことだ。あからさまに蔑視はしないけれども、どうも心の奥深いところでは、何か自分より下の存在、自分に奉仕する存在のように思っていて、それが何かの弾みで態度や言葉遣いに表れるような気がする。店員などに対する言葉遣いは概してぞんざいで、少しこじれると大声を出したり暴力を振るったりすることはよく見聞きする。かつて近くのデパートで、30代と思われる男がしつこく店員に文句を言い、挙句の果てに手近に置いてあった陶器の小物を床に投げつけた。特に暴力的な感じの男ではなかったが、相手が弱い立場の者だと感情がエスカレートして制御できない性格なのだろう。惨めな人間だと思った。
私は店で買い物をして支払いをした時や、飲食する時に注文した品や水を持ってくると「有難う」と言う。ずっと以前に何かで、米国人はスーパーで買い物をした時も店員に「サンキュー」と言うという記事を読んで、ああ、これはいいことだなと思ってからかも知れない。店員はそれが仕事なのだし、礼を言うのは店の方だと言ってしまえばそれまでだが、もう習慣になってしまっている。もっともそう言っても言葉が返ってくることは多くないが、言って損をすることではない。中国ではレストランで食事をする時には、湯飲みやコップの茶が少なくなると、すぐに店員が注いでくれるが、その時にも「謝謝」と言うと、多くの場合小声で「不客気ブカチ」(どういたしまして)と返ってくる。去年西安の李真の結婚式に出た折に泊まったホテルでチェックアウトを済ませた時に「謝謝。再見」と言うと服務員は「再見」と返してくれたが、そばにいた李真が「爺爺は丁寧だね」と言って笑った。
何も大げさに感謝の意を表すということではなく、ちょっとした挨拶なので、彼我の心と心の潤滑油のようなものだろう。相手は売り手、こちらは買い手と言うだけで立場は平等で、客の方が偉いということはない。士農工商の時代ではあるまいし、サービス業が劣る存在ではない。最近は本当にそう思っているかどうかは別にして、お客様は神様というような考えがサービス業にあり、日本のサービスは世界一とも言われているが、それを当然としていると、自分の方が偉いと錯覚するような品性卑しい者が出てくるのだろう。
成田空港で、仕事のために北京に向かう40歳の会社員の男が、預けたスーツケースの中の缶ビールが漏れ、ノートパソコンが濡れたことに腹を立て、応対した航空会社の男性職員を土下座させ、「どうしてくれるんだ」などと言いながら、頭から別の缶ビールをかけた。男はそのまま出国せずに逃走したが、通報を受けた警察に逮捕された。
「頭にきてやった」と言ったそうだが、まったく無茶苦茶な理不尽な行為で、40歳と言うと私の息子達より若いが、社会人としての分別があっても当然の年齢で、いったいどういう性格の人間なのだろうかと呆れてしまった。すぐに切れる暴力的な性質なのか、やってしまった後で仕事で北京に行くのに出国せずに逃走するとは、後先を考えずに行動する欠陥人間なのか、いずれにしてもまともな人間ではない。その後どういう処置になったのか、お客様大事の会社は告訴はせず、微罪釈放になったのかも知れないが、こういう人間にはきついお灸を据える必要がある。私がこの男の会社の幹部だったら、突発的にこのような事件を起こしたうえ、仕事を放り出して逃げるような欠陥人間は不適格社員として辞めてもらうだろう。もっともこんな人間は逆恨みして、また傷害事件を起こすかも知れないが。
この事件の記事を読んで思ったことが2つある。
1つはこの男が航空会社の職員を土下座させたと言うことだ。土下座とは「土の上に直に坐り、平伏して座礼を行うこと。日本の礼式のひとつで、極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪、お願いの意を表す場合に行われる」(Wikipedia)もので、上の事件の場合は、もちろん高圧的に威嚇して謝罪を要求したものだ。、私は土下座して謝らせるということが大嫌いで、深い嫌悪を感じる。
かつて教師をしていた時に、ある学年の数名の男子生徒が1人の同級生をトイレに連れ込んで因縁を付け、土下座させて謝らせたということがあり、このことが職員会議に報告され論議された。事の詳細は覚えていないが、私は土下座させたという行為に非常に憤りを覚え、厳しい処置を求める発言をした。また、私の長男が学生の頃、駅ですれ違った数人の学生と目が少し合っただけで因縁をつけられ、土下座して謝らせられたことがあり、私はその顔も知らないその連中をひどく憎んだものだった。薬害エイズの訴訟問題で、原告団が製薬会社の幹部達と会見した時に、土下座の謝罪を強要したテレビニュースを見た時も、非常に不快に感じた。土下座して謝罪する姿は醜く、当事者にとって屈辱以外の何物でもない。被害者達の心情は十分に分かっていても、土下座を強要したことは許されないことだと思った。今も土下座する幹部達の姿と、それに向かって罵っている1人の母親の顔を、どちらも不愉快なものとして思い出す。
もう1つは、日本人の中にはサービス業に従事する人たちを一段と見下げるような気持ちがあるのではないかと言うことだ。あからさまに蔑視はしないけれども、どうも心の奥深いところでは、何か自分より下の存在、自分に奉仕する存在のように思っていて、それが何かの弾みで態度や言葉遣いに表れるような気がする。店員などに対する言葉遣いは概してぞんざいで、少しこじれると大声を出したり暴力を振るったりすることはよく見聞きする。かつて近くのデパートで、30代と思われる男がしつこく店員に文句を言い、挙句の果てに手近に置いてあった陶器の小物を床に投げつけた。特に暴力的な感じの男ではなかったが、相手が弱い立場の者だと感情がエスカレートして制御できない性格なのだろう。惨めな人間だと思った。
私は店で買い物をして支払いをした時や、飲食する時に注文した品や水を持ってくると「有難う」と言う。ずっと以前に何かで、米国人はスーパーで買い物をした時も店員に「サンキュー」と言うという記事を読んで、ああ、これはいいことだなと思ってからかも知れない。店員はそれが仕事なのだし、礼を言うのは店の方だと言ってしまえばそれまでだが、もう習慣になってしまっている。もっともそう言っても言葉が返ってくることは多くないが、言って損をすることではない。中国ではレストランで食事をする時には、湯飲みやコップの茶が少なくなると、すぐに店員が注いでくれるが、その時にも「謝謝」と言うと、多くの場合小声で「不客気ブカチ」(どういたしまして)と返ってくる。去年西安の李真の結婚式に出た折に泊まったホテルでチェックアウトを済ませた時に「謝謝。再見」と言うと服務員は「再見」と返してくれたが、そばにいた李真が「爺爺は丁寧だね」と言って笑った。
何も大げさに感謝の意を表すということではなく、ちょっとした挨拶なので、彼我の心と心の潤滑油のようなものだろう。相手は売り手、こちらは買い手と言うだけで立場は平等で、客の方が偉いということはない。士農工商の時代ではあるまいし、サービス業が劣る存在ではない。最近は本当にそう思っているかどうかは別にして、お客様は神様というような考えがサービス業にあり、日本のサービスは世界一とも言われているが、それを当然としていると、自分の方が偉いと錯覚するような品性卑しい者が出てくるのだろう。