西安の李真の息子と宸宸(チェンチェン)は2歳半になり、よく話をするそうだ。近頃は方言も話すようになっていると李真は言った。どこの方言かと聞いたら、西安弁だと言う。李真も夫君の陳君も働いているから、宸宸の養育は両親と母親の妹に任せている。中国にはこういうことが少なくないようだ。宸宸は祖父母が話すのをいつも耳にしているから、西安方言を覚えたのだろう。祖父母は宸宸と話す時には標準語(普通話)で話すと言う。西安弁と普通話とはどのように違うのかは、もちろん私には分からないが、アクセントや、たまには発音がちょっと違うのだそうだ。東京弁と大阪弁の違いくらいなのかもしれない。しかし東京人は大阪弁のアクセントでは話せないし、大阪人も東京のアクセントでは話さない。李真の両親が自分達同士では西安弁で、孫には標準語でと使い分けるのは器用なことだと思う。
広大な中国には、山一つ隔てると言葉が通じないと言われるくらいに、方言は無数にあるようだ。2009年の10月に西安に行ったとき、西安から車で1時間余りの所にある北張村という村に製紙をしている家を訪れたが、その家の主の張さんという老人はかなり強い方言だったと同行してくれた謝俊麗が言った。西安から僅かな距離でも言葉が違うようだ。これは日本でもあることで、例えば私が住む阪神間の宝塚市の言葉は、近くの大阪弁とちょっと違うらしいし、さらに西の方の神戸や播磨地方でも違うと言う。私の次男の家族は播磨地方の東の播磨町というところに住んでいるが、孫達は標準語の「行ってる」、「見てる」を「行っとう」、「見とう」と言うので、初めのころは面白く思ったものだ。関西圏でも、大阪弁、京都弁、和歌山弁などそれぞれずいぶん違う。