中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

手回しオルガン

2008-01-22 08:54:23 | 身辺雑記
 大阪に出るためにH君夫妻と待ち合わせた駅のコンコースで手回しオルガンを演奏していた。


 手回しオルガンはパリの街頭風景の写真などで時々見るもので「ストリート・オルガン」の別名もあるようだが、実際に見たのは初めてだった。神戸の六甲山での氷の祭典のPRのようだった。Wikipediaによると、ライエル(lyre)とも呼ばれ、 ピンの出た円筒に接続されたハンドルを手で回し、円筒に隣接した鍵盤をピンで押さえる仕組みの自動オルガンで、発音機構としてはパイプオルガンとあるが、もう1つ仕組みははっきり分からない。

 このコンコースの中央にはカリヨンのある時計があって、定時になると組鐘の演奏があり、その周りは待ち合わせの場所になっている。日曜日に朝だったので、多くの人が往来していたが、その中で奏でられている手回しオルガンの音色はのどかなものだった。阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」などもやっていた。いろいろな曲を演奏できるのはどのような仕組みになっているのだろうかと思ったが、後で調べてみると、音楽を記録した部分(連続したパンチカード、シリンダー、円盤など)を取り換えることで複数の曲が演奏できるのだそうだ。時間があればもう少し詳しく見てみたかった。

初積雪

2008-01-21 09:57:29 | 身辺雑記
 このところ少し冷え込んでいて、昨日は夜には平野部でも雪が降るだろうと言う予報だった。午後から小雨が振り出し、一緒に大阪に行っていたH君夫妻と、これが夜には雪に変わるのだろうと話したりした。

 朝起きてみるとあたりは濡れてはいるが雪の気配はない。やはり雨のままだったようだ。インタネットの天気予報を見たら、真夜中は弱い雨で4度くらいだった。

 外に出てみると、向こうの山は白くなっていた。少し高度が高いと雪だったようだ。1週間ほど前の夕方にこのあたりでも小雪が短時間降ったそうだが、その時もちょうど大阪に出ていて不在だったから、この冬に雪を見たのは今朝が初めてだった。


 ブログ友の北海道美唄のSさんのブログを見ると、このところ彼の地は大雪のようで、昨日のブログでは、車庫の上に1メートルほど降った雪の雪下ろしをしたとあった。最後に「それでも極寒は去ったようで 氷点下も一桁の予報だ」とあったから、こちらでは想像できない寒さだ。Sさんや北海道の人たちにとっては、このあたりの雪などはケーキにまぶした粉砂糖みたいなものだろう。

平湖

2008-01-20 08:28:40 | 中国のこと
 烏鎮から上海の戻る途中で、上海と隣接する浙江省平湖(ピンフ)市に寄った。ここはガイドブックには載っていないが、たまたまインタネットで見たので立ち寄ることにした。

 平湖市は浙江省の東北に位置していて、東は上海に隣接して南は杭州湾を臨んでいる。この地図は不鮮明だが東が上海、南が杭州湾、西北が江蘇省となっている。歴史は古くこの地に海塩という県が設置されたのは紀元前222年と言う。現在の人口は50.2万人。

 
  この平湖で有名な史跡は莫(モ)氏荘園ということなので、まずここに行くことにした。通りに面した小さい門をくぐると受付がありここから入る。買った案内書によると、この荘園は典型的な江南地方の建築様式の建物群で、面積は4,800平方メートル余り、建築面積は2,600平方メートル余り、建物内の部屋は70以上とある。清朝の光緒23(1897)年に莫放梅(モ・ファンメイ)という人物が白銀10万両を投じて建造し3年後に完成したと言う。
 荘園俯瞰。平湖市のHPから。

 ガイドの梁莉が頼んでくれたようで、案内役の女性が付いて荘園内を回った。まだ若いが落ち着いた美人だった。


 荘園内は非常に広く、いくつかの建物がある。瓦が美しい。




 建物の精緻な装飾と燈篭。
 
 
 建物にある中門。




 建物の中には多くの部屋があった。もっとも大きいのは主人の応接間(正庁)。


 女主人の応接間(女庁)。


 寝室。大家族なのでいくつもある。




 新婚の部屋


 部屋は廊下で結ばれている。


 厨房


 中庭



 
 主人などが外出するときに使う駕籠。




 正門は運河(南河)に面している。




 案内役の女性が丁寧に説明してくれたが、非常に広くて多くの建物や部屋があるので、かなり時間がかかった。この荘園の設立者の莫放梅は豪商であったようだが、その桁外れの豪奢な生活ぶりが想像された。




最京

2008-01-19 10:14:44 | 身辺雑記
 JRの車両に1枚の吊広告があった。広告の全面は美しい屏風か壁面かの前に和服姿の若い女性が立っている写真で、左上隅に「京の冬の旅×池坊由紀」、右下隅にやや大きな文字で「最京」とある。

 車内の壁面にやはり「最京」と書かれた小さな広告が2枚張ってあり、どれにも「京の冬の旅」とあるから、JRの京都の旅のキャンペーンらしい。しかし、どうも「最京」の意味が分からない。近寄って見ると1つには「最京の駅」とあり、京都駅の天井の鉄骨の幾何学的な構造の写真、もう1つは今公開されている知恩院の経蔵にある輪蔵の写真に大きな文字で「絡操」とある。小さな文字を読むと「絡操」は「からくり」と読むらしい。なるほど「絡む」と「繰る」で「からくり」か、また1つ勉強したと思った。
 
 見ているうちに、どうやら「最京」は京都の異称である「西京」と「最強」の掛詞らしいと気がついた。京都駅は最強の駅、知恩院の輪蔵は京都最強のからくりと言うことだろう。家で調べてみると、知恩院の輪蔵には6千巻の大蔵経が納めてあり、これを1回転させると大蔵経を暗誦するのと同じ功徳を積むと言われるとあるから、からくり仕掛けの経蔵のようだ。吊広告の方はJRの「京の冬の旅」で池坊会館にでも行けば最強の京都が見られると言うことか。何やら小さな字で書いてあったが読まなかった。

  「最京」の文字に引っ掛かってあれこれ考えさせられたが、それがこの広告の狙いだったのだろうか。広告というものはすとんと胸に落ちるようなものの方が好きだから、これは少しひねくり回し過ぎているような気がする。判じ物のようなものは性に合わない・・・などと思いながら、一度知恩院に行ってみようかなどと考えたから、「最京」の広告効果があったのかも知れない。

レイコ

2008-01-18 09:33:50 | 身辺雑記
 最近、札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』(新潮新書)という本を読んだ。新書本だが中身は濃く、非常に面白い。読んでいるうちに私の心の片隅にあった大阪弁への偏見が氷解し、親しみが持てるようになった。

 今でこそ大阪弁は漫才などを通じて日本中に知られるようになったが、かつては大阪弁に対する偏見、蔑視はとりわけ東京人に強かったように思う。私の祖父などは大阪弁が嫌いで、聞くと殴りたくなるなどと乱暴なことを言っていた。どうも東京人には自分たちが日本の中心のように考え、地方を蔑視する傾向があるようだ。

 この本が強調していることだが、大阪弁が広まったと言っても、大阪人が聞くと「ほんまもんとちゃう」(本当のものとは違う)ものがかなりあるらしい。筆頭に挙げられているのは、大阪人の挨拶言葉としてよく言われる「もうかりまっか?」、「ぼちぼちでんな」。生粋の大阪人である筆者はこんな挨拶は聞いたことがないと言い、誰が最初に言い出したのか、昭和30年代前半のようだが特定できないと述べている。

 読み進んでいるうちに、これは!と驚いたことがある。私は昨年2月20日のブログに日本語や外来語を省略形にした言葉について書いたが、その中で次のように言った。

 喫茶店などでは「レイコー」があるが、「冷コーヒー」のことで、これなどは日本語と、外来語のような日本語を組み合わせたものだ。(中略)こちらの注文に応じてウエイトレスが「レイコー、ワンです」などと厨房に向かって言ったり、客が知ったような顔で「レイコー」と注文するのを聞くと、嫌な感じがしたものだ。

 これがまったくの私の勘違い、独断だということが分かった。どうやら生粋の大阪弁と言うか、大阪生まれの言葉らしい。「レイコ」または「レーコ」と言い、その起源は同書によると「調べれば調べるほどいろいろな説が出てくるのだが」とあって定かでないようだ。以下同書によるとこの言葉は「アイスコーヒー・コールコーヒーのこと。冷コと略したもの」(「大阪ことば事典」)で、アイスコーヒーは明治時代には「冷やしコーヒー」と呼ばれていたらしい。それがやがて「冷コーヒー」または「コールコーヒー」となり、この「冷コーヒー」が「レイコ」の起源になったようだ。ある人は「コールコーヒー」はコーヒー専門店で、「レイコ」は一般喫茶店で主に使われていたと言っているそうだ。

 このような「歴史」があるとも知らず、レイコが喫茶店で使われる単なる今時風の符丁のように思って、ブログに上のような文を書いたのは、まことに汗顔の至りと言うものだ。しかし、このレイコも今では50代以上の人くらいしか使わなくなったようで、50半ばの卒業生に使ったことがあるかと尋ねたら、前に一度ありました。一緒に店にいた友人が、懐かしい言葉やなあと言いましたと答えた。レイコ(その卒業生の発音を聞くとコにアクセントがある)も今ではコールコーヒーとともに絶滅危惧種になっているようで、共通語のアイスコーヒーに取って代わられている。喫茶店でコーヒーを注文すると「ホットですか、アイスですか」と聞き返される。

 ブログに何かを書くときは一応いろいろ調べはするのだが、レイコのように勘違いをしたことが分かると、勝手な思い込みをしないように心しなければならないと改めて思う。

井戸端会議 

2008-01-17 11:26:25 | 身辺雑記
 毎週木曜日の朝は生活協同組合の共同購入の日で、配達の車が来ると共同購入に参加している家の人達が集まる。皆主婦ばかりで男は私一人だ。妻がいた時にはもちろん妻の仕事だったし、私はまだ勤めていたから何も知らず、時折妻に様子を聞かされる程度だった。


 妻が逝った後にも、やはり購入を続けたほうが便利なので、購入者の名義を私に変更して、ちょうど仕事もやめたので私が出ることになった。前週に注文した品を受け取り、次の注文書を受け取ることだけのことなのだが、続けているうちに雑談も交わすようになった。妻がいた頃から隣近所の人達とは挨拶もし、時には話もすることもあったから特に抵抗を感じることもなく、元来が人好きなのでしだいにあれこれと話すようになっていった。

 冬の間は寒いから用が済むとすぐに家に戻ることは多いが、天気の良い朝には、配達車が引き上げた後でも何人か残って雑談する輪に入ることはよくある。これがなかなかよいものだと思うようになった。堅苦しい儀礼的なことのないざっくばらんな庶民的な会話はまことに気楽で、ときには冗談の応酬もあって楽しい。それにご婦人方はベテランの主婦だけあって、生活の知恵が豊富で、それを聞くのは独居生活の私にとって為になることも多い。これも井戸端会議のようなものだろうが、井戸端会議も有閑主婦がする無駄なものではないと思うようになっている。

 日本の家庭の男性は近所づきあいが下手で、挨拶もできないことがあると言われる。私たち夫婦は息子たちが小さい頃から近所の人達には挨拶するように言ってきた。男と言っても近所づきあいは大切だ。いつ私のような境遇になるか分からない。そのためにと言うことではないが、やはり一人前の社会人として、挨拶くらいはするものだと思うのだが。

汁粉とぜんざい

2008-01-16 10:43:48 | 身辺雑記
 小豆粥をつくるために買った小豆が余ったので、その一部を使ってぜんざいを作った。



 つくり方は我流だが簡単である。前の日から水に漬けておいた小豆を、その水で煮てアクを出し、水を捨ててからまた水を足して軟らかくなるまで煮る。煮あがったら砂糖を加える。それだけのことだ。

 私の実家では汁粉をつくっていた。小豆をゆでてからそれを擂鉢で擂り潰す。今ならミキサーに掛けるところだが、当時はそのような便利なものはなかったから擂り潰すのにはかなり労力が要るようだった。擂り潰した小豆に水を加え、それを晒しで作った袋の中に入れ、水を張った容器の中で揉む。すると袋の中から濃い小豆の汁が出てきて容器の水の底に沈殿する。その上澄みを捨てるときれいな小豆でんぷん(漉し餡)が残るから、それを鍋に移し砂糖を加えて煮てから適当に水を加えてのばす。このようにしてつくるのだが、そばで見ていただけだからざっとこのような手順だったと思うとしか言えない。こうしてできた汁粉はかなり濃厚なものだった。

 初めてぜんざいを食べたのは高校1年の時だったと思う。生物の授業の担当だった講師のK先生は人気があって、正月に生物クラブの者達が揃って京都の先生のお宅に伺ったことがあった。その時に振舞われたのがぜんざいだった。私は汁粉しか知らなかったから、小豆色の汁にゆでた小豆が浮かんでいるようなものを奇妙に思った。戦後間もない頃だったから使った小豆の量が少なかったのか、何か水っぽい感じだった。家に帰って母に話すと、それはぜんざいでしょと言ったので、初めてぜんざいというものを知った。
 
 汁粉は漉し餡を使う御膳汁粉と、潰した餡を使う田舎汁粉、粒餡を使う小倉汁粉の3種類の区別があるとされているが、汁粉という名称は御膳汁粉についてだけ使われると言う。ぜんざいは田舎汁粉や小倉汁粉を指すことになる。要するに小豆の粒があればぜんざい、漉し餡であれば汁粉ということだ。もっとも東日本でも地方によっては粒餡を使ったぜんざいも汁粉と言うそうだし、餅や白玉団子に汁気のない粒餡をかけたものはぜんざいと呼ぶようだから混乱する。汁気のない粒餡を使うものは関西では「亀山」とか「小倉」と言う。

 おかしなもので、関西にずっと住み着いた今では、汁粉を食べると濃厚なものだから胸が焼けるような感じがして、さらっとした感じのぜんざいの方が口に合うようになっている。私の長男の嫁は三笠饅頭などの餡でも粒餡でないとだめなようだ。



小正月

2008-01-15 09:24:09 | 身辺雑記
 1月15日は小正月。私が中高生の頃には聞いたことがあるが、今では聞くことがない。おそらく地方ではまだ残っているのではないだろうか。元旦を大正月と言うのに対してこのように呼ぶのだそうだ。

 元来は旧暦の1月15日のことで、この日は満月で望の日と言う。かつてはこの望の日を月の初めとしていた名残が小正月なのだそうだ。本来の松の内は小正月までとされている。

 小正月には小豆粥を食べる風習があるが、これは私の記憶にもある。『土佐日記』や『枕草子』などにも小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうだから古い習慣なのだろう。

 ふと思いついて昨夜小豆粥を作ってみた。小豆の色が薄いように思うが、今朝食べてみると何となく懐かしい味に思えた。


 1月15日は成人の日だったが、これは武家や公家の成人式である元服の儀が小正月に行われたからだと言うことだった。それがハッピーマンデー制度の導入で成人の日は1月第2月曜日(その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日)に変更されたから、今ではこの日は特に行事のない日となった。


 中国では1月15日(旧暦)は元宵節(ユアンシャオチエ)と言い、賑やかに祝う日である。灯節(トンチエ)とも言って、街を美しい燈篭で飾る。

 上海豫園商場での元宵節の夜。






 元宵節にはゴマなどの餡を入れたもち米の団子とそのゆで汁を食べる習慣がある。この団子はかつて宮女の元宵がつくったものがおいしかったので元宵と呼ばれるようになったと言う。あるいは湯圓(タンユエン)とか湯団(タントゥエン)とも言う。また一家団欒の場で食べるので団圓(トゥエンユエン団欒の意)元宵とも言うそうだ。

 上海豫園商場の湯圓の店。大混雑であった。


 話が中国に飛んでしまったが、中国に比べると日本では伝統的な風習がしだいに少なくなって来て、そう言う私自身が正月もいい加減に過ごしているような有様である。

高校生が開発した卵

2008-01-14 08:32:21 | 身辺雑記
 兵庫県立播磨農業高校畜産科3年の生徒たちが「卵アレルギーの人でも食べられる」鶏卵を開発したそうだ。

 鶏に与える飼料に健康によいとされるさまざまな食材を混ぜて産卵させる実験をした。その結果魚粉やシソを混ぜた餌がアレルギー抑制効果のあるα-リノレン酸を通常の約5倍含む卵を生ませることができたという。評判が広がって、大阪のデパートでも発売され好評だそうだ。「ハリマ夢たまご」と名づけている。

 開発に成功した高校生たち(MSN産経ニュースより)。健康そうな笑顔がいい。


 ある卒業生の息子が受験するとかでその下見に行くからと誘ってくれたので、この農業高校の学園祭に行ったことがある。


 都会の普通科高校では考えられないような広大な敷地で、さまざまな家畜も飼われていて、そこで見かけた生徒たちは生きいきとしていた。農業高校というと何か普通科よりも劣るかのような偏見があり、20年以上前には農村地方でも、農家の子で成績が良ければ普通高校に、農家ではない家の子で成績が芳しくなければ農業高校へといういびつな進学状況があった。昨今農業はいっそう経営が難しい状況にあるから、そのような進学状況は基本的には変わってはいないかも知れないが、今では農業高校の教育内容も多様になって農業の現代化に対応できるように工夫されていると聞く。中学生達が夢を抱いて進学を目指す学校であってほしいと思う。そして卒業生たちがいろいろな方面で活躍してくれるようにと願う。

 近頃は高校生が引き起こす犯罪がよくニュースになる。若者の心が荒廃しているのかと暗い気持ちにさせられていた中で、このような高校生の明るい話題を知るとほっとする思いだ。




好きでない言葉

2008-01-13 10:52:29 | 身辺雑記
  「声楽学科卒の才媛が魅せた!」。インタネットでニュースを見ていたら、こんな見出しがあった。

 開いてみると、人気急上昇中とやらのグラビアアイドル、声楽学科卒業なのだそうだが、最近DVDを発売したという内容だった。「B85・W59・H86の肢体をゆるゆるシャツや男性用タンクトップ、バスローブに包んだ大胆ショットの連続で」とあって、これが「魅せた!」ということらしい。

 パソコンで「みせる」を入力すると確かに「魅せる」とも変換されるし、広辞苑には「魅せる」はなくても「魅する」はあるから、別に文句のつけようのない真っ当な言葉であることは間違いない。実際「魅せられたように見入っていた」という言い方もある。しかし、これは私のまったくの偏見なのだが、「魅せた」という言い方には何かしら引っかかるものを感じてしまった。普段の会話にはあまり使わないこともあるが、スポーツ新聞の見出しなどではよく見かけるので、それがどうやら違和感の原因らしい。

 スポーツ新聞の記事には造語が多い。プロ野球のセリーグで首位争いが激烈になると、「乱世」に引っ掛けて「乱セ」とするように、語呂合わせ、駄洒落の類で、いちいち目くじらを立てるほどではないが、さりとて、うまいなあと感心するほどでもない。中にはそのスポーツのことをよく知っていないと、すぐには意味が分からないものもある。ちょっとしつこいと思わせるくらいよく目にするし、若い人が見るとそれが正しい表記だと思ってしまわないかと思うこともある。スポーツ新聞だけでなく、近頃は一般新聞のスポーツ欄でもこの種のものが見られる。そんなことで「魅せた」も語感から、「魅惑的に見せた」と言いたいのを「魅」と「見」とを引っ掛けた類のように思ったのは勝手な思い込みで、浅学を露呈したようなものだった。

 言葉は時代とともに変化するから、新しい言い方は急激に増えているようだが、どうにも付いていけないし、嫌いだと思うものも少なくない。それにこれまでは誤用とされていた言い方が市民権を得てしまう例もあるから、私程度のものが言葉についてあれこれ好き嫌いを言っても所詮は蟷螂の斧でしかないだろう。
 
  「魅せる」がまともな言葉であることは分かった。好きでないと思ったのは単なる偏見でもあった。だが頑固なようだが、やはり「声楽学科卒の才媛が魅せた!」というような表現にはどこか釈然としないものを感じて好きになれないのは、これはもうどうにもならんと肩をすくめられそうなことだ。