中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

方言(2)

2011-07-14 09:32:17 | 身辺雑記

 私の中国語などお粗末至極なものだが、それでも中国の地方に行くと、習った普通話(標準語)とは少し感じが違う言葉を耳にすることがよくあった。そんな時通訳に尋ねると、決まって方言だと言う。私が西安で李真と食事をした時、終わって「喫飽了チィパオラ もう十分食べた=ごちそうさま」と言うと、李真はそれは陝西方言だと笑った。「飽」のアクセントが違っていたらしい。西安は陝西省にあるが、陝西省の方言もいろいろあるようだ。

 

 誕生日に東京の施路敏に贈られた現代小説『手機(ケータイ)』には陝西省の東隣の山西省の方言が出てくる。和訳では関東地方の方言のようにしてあったが、日本ではどんな方言でも仮名で表記できるが、漢字の国中国ではどのように表記するのだろうと思って、李真に尋ねてみた。方言も漢字で表わすようで、例えば英語のmy godに相当する中国語の標準語の「我的神」の陝西省方言は「額的神」で、この「額」の発音はe。eは日本語にはない発音で、強いて言うならば「オ」に近い。「我」の発音はwo(ウォ)だから、俺(オレ)を「オラ」というようなものか。

 

 李真はさらに、標準語の「何をしてる?(你在干什么呢ニイツアイガンシェマナ)」の陝西省方言では「你干呢(ニイガンサナ)」で、陝西省と山西省に接している河南省方言は「呢(ノンシャナ)」となることも教えてくれた。「おまえ」の「你(ニイ)」は河南省では「弄(ノン)」となっているわけだ。漢字の国だから方言などは言葉は違ってもそれに相当する漢字があれば当てるのだろうし、見るほうもそれでどこの方言か分かるらしい。李真は方言についていろいろ知っているようで、聞いていると面白い。広い中国の方言が他の地方でも分かるのは、テレビの影響もあるのかも知れない。有名な『三国志演義』などを見ると、当時の曹操や劉備などは生国が違うから意思の疎通がどれくらい図れたのだろうか、まして南方の呉の孫権とは直接話ができたのだろうかと思う。

 

 前に国語関係の雑誌で読んだのだが、東北地方のある県で「ケ」、「ク]という遣り取りがあり、これは「食べろ(食え)」、「食べる(食う)」という意味らしく面白く思ったが、実際に耳にしたら、さっぱり 理解できないだろう。やはり北の方のある地方では、「私」を「ワ」、「お前」を「ナ」と言うと聞いたことがある。我(ワレ)汝(ナレ)が省略されたものか。息子達がまだ小学生の頃に家族で宮城県の鳴子温泉に行った時、行く途中、山形県のある駅から土地の婦人達が何人か乗ってきて、後ろの席で賑やかにおしゃべりを始めたが、まるで外国語のようで何を言っているかさっぱり分からない。それで持っていた小型のテープレコーダーで録音し、帰ってから両親が山形出身のN君に聞かせたら、「漬物の話をしてるようですね」と言った。それにしても同じ日本でかくも意味の通じない言葉があるのかと、改めて感心したものだ。幕末の頃に、奥州津軽と鹿児島の武士が話し合うのに通訳を介したと聞いたことがあるが、あながち作り話でもないだろう。

 

 方言を使うことは何か泥臭い、粗野なようなものと思うのか、一時は方言は敬遠される傾向にあったようだが、最近は復権してきて、方言の詩集などもあるようだ。良いことだと思う。方言についてのCDがあれば聞いてみたい。

 

 


方言

2011-07-12 09:49:22 | 身辺雑記

 西安の李真の息子と宸宸(チェンチェン)は2歳半になり、よく話をするそうだ。近頃は方言も話すようになっていると李真は言った。どこの方言かと聞いたら、西安弁だと言う。李真も夫君の陳君も働いているから、宸宸の養育は両親と母親の妹に任せている。中国にはこういうことが少なくないようだ。宸宸は祖父母が話すのをいつも耳にしているから、西安方言を覚えたのだろう。祖父母は宸宸と話す時には標準語(普通話)で話すと言う。西安弁と普通話とはどのように違うのかは、もちろん私には分からないが、アクセントや、たまには発音がちょっと違うのだそうだ。東京弁と大阪弁の違いくらいなのかもしれない。しかし東京人は大阪弁のアクセントでは話せないし、大阪人も東京のアクセントでは話さない。李真の両親が自分達同士では西安弁で、孫には標準語でと使い分けるのは器用なことだと思う。

 

 広大な中国には、山一つ隔てると言葉が通じないと言われるくらいに、方言は無数にあるようだ。2009年の10月に西安に行ったとき、西安から車で時間余りの所にある北張村という村に製紙をしている家を訪れたが、その家の主の張さんという老人はかなり強い方言だったと同行してくれた謝俊麗が言った。西安から僅かな距離でも言葉が違うようだ。これは日本でもあることで、例えば私が住む阪神間の宝塚市の言葉は、近くの大阪弁とちょっと違うらしいし、さらに西の方の神戸や播磨地方でも違うと言う。私の次男の家族は播磨地方の東の播磨町というところに住んでいるが、孫達は標準語の「行ってる」、「見てる」を「行っとう」、「見とう」と言うので、初めのころは面白く思ったものだ。関西圏でも、大阪弁、京都弁、和歌山弁などそれぞれずいぶん違う。 


個人情報(2)

2011-07-10 10:42:44 | 身辺雑記

 学校や教師に対しては批判が多い。もちろん学校や教師のあり方に方に問題があることも少なくないのだが、一方ではモンスター・ペアレントの存在など教師に対して理不尽な攻撃をする親もいるし、例えば新型インフルエンザが発生したときには海外に修学旅行に行った学校に対して陰湿な電話攻撃をするなど、不寛容な社会の空気もある。

  

 そういう状況の中で、学校や教師はどうしても防衛的になるから、外に向かっては個人情報の保護を盾にしてしまうのだろうが、それはしばしば行き過ぎではないかと思われることもある。前にも書いたことがあるが、交通事故遺児に奨学金を贈っている団体が、対象学生の有無を学校に問い合わせても個人情報だからと教えてくれないので困っていることがあった。

  

 かつては学校では生徒名簿や連絡表を作っていたが、最近ではこれも個人情報だからということで作られないようだ。学校だけでなく、卒業生のクラス会の名簿も個人情報だから作れなくて連絡に困ると、私がかつて担任していたクラスの世話役がこぼしていた。

 

 卒業生で医師のK君は、街頭などでの署名活動には応じないようだ。氏名と住所を書けば個人情報を公開することになるからということらしい。彼は医師だから個人情報の秘匿について慎重になるのは職業倫理上当然のことだが、しかし民主社会の市民としての意思表示の一つである署名活動への署名も個人情報だからと拒否することには私は理解できない。

 

 私が住んでいる町には週に1回、生活協同組合の共同購入日があって、生協の車が来てカタログと注文票を配る。その注文票に記入して渡すと翌週注文した物品を届けてくれる。申し込みしない時はカタログを返却すると引き取ってくれる。一度カタログと一緒に注文票も返したら、個人情報ですからと言って受け取ってくれなかった。注文票には氏名、住所、組合員番号などが印字されているから、なるほど個人情報には間違いない。しかし注文票は生協で作ったもので、それを返却したらなぜ個人情報だからと言って受け取らないのか理解できなかった。何か「個人情報」という言葉が独り歩きしているような気がするし、黄門様の印籠のようにそれさえ言えば天下御免で通用してしまうような感じもする。

 

 前に、ある知人のブログに祭の写真が紹介されていたが、だんじり(関西地方の祭礼の曳物)を曳く人たちを皆後ろから撮っていて、個人情報を配慮してと言うことだったが、そこまでしなくてはならないものかと、これも理解できなかった。 

 

 このように神経質なほどの個人情報保護の風潮だが、一方ではいろいろなカタログが送りつけられてきたり、商品などの電話勧誘も多い。このような私の個人情報はどこから知られたものだろうかと不審に思うことはよくある。

 

 もちろん個人情報の保護は大切なことで、病院で管理するカルテや、企業などの顧客名簿が流出するようなことはあってはならない。だからと言って何もかも個人情報だと済ましてしまうのも行き過ぎではないか。

  

個人情報の保護に関する法律(略称は個人情報保護法)は2003(平成15年)5月23日に成立し、2005(平成17年)4月1日に全面施行された。この法案が国会に出された時には反対もあったようだし、何としても通したいとする、ある民間の大きな勢力があって、その意図に胡散臭いものを感じさせるということも一部では言われたようだ。


個人情報

2011-07-08 08:54:04 | 身辺雑記

 私の下から2番目の妹はダウン症で、障害者の作業所に毎日通っている。ダウン症特有のおとなしく真面目で几帳面、亡くなった母もとても可愛がっていた。最近会っていないがもう28歳になり、この子の兄は「アラサーじゃないか」と冷やかすと妹は笑っていた。

 

 その姪が少し前に急に家に帰ってきても元気がなく、夕飯の時もしょんぼりするようになった。もともとおしゃべりな子ではないが、それでも元気がなく黙り込んでいる。どうしたのかと尋ねても何も答えない。妹はおかしいと思って作業所に相談した。すると同じ作業所にいる10歳くらい年下の女の子が中心になって、作業所で働いている中のおとなしい子や弱い子を口汚くののしったりしていじめていたことが分かった。その女の子は特別支援学校(旧養護学校)を出て作業所に来たようだが、来るなり作業所の職員に「オイ」などと呼び捨てるような、家庭ではまったく躾けられていない子だったようで、すぐにいじめも始めたらしい。母親は意識ばかりが強い女性らしく、作業所の職員が呼んで実情を話して相談したら機嫌を悪くして、それからは親の会にも出てこなくなったと言う。この親にしてこの子ありというところだ。

 

 私は退職後しばらく知的障害者の親の会の事務局にいたことがあるが、知的な面で障害を持っていても親としてきちんとわきまえた躾をするかしないかで、子どものあり方が違ってくることは、健常児の場合とまったく変わらないということを見聞きしていた。姪をいじめた子の親は育て方を間違ったのだろう。結構悪知恵もあるようで、姪のようないじめた子には「ちくるなよ」と脅したりもしていたようだ。もう成年近くになるから、口で諭してもなかなか改まらないだろうが、今ではいじめも少し収まったのか、姪は落ち着いてきているようだ。

 

 ところが、妹が不快に思ったのは、その女の子が在籍していた特別支援学校の姿勢だ。作業所ではこの子の生い立ちや学校での様子などを聴いて指導の参考にしたいと考えて、学校に問い合わせしたが、学校では個人情報だからと言って教えてくれなかったようだ。本来なら自分たちが教育した生徒について、卒業後の就職先の作業所に申し送りをするのが当然のことだろう。それを個人情報だからと言って作業所の要請に応えないのは、個人情報保護について履き違いしているのではないか。あるいは民間の作業所の職員に対する見下した意識があるのかも知れない。

 

 近頃は何かと言うと「個人情報」だからと言うことがよくあって、行き過ぎではないかと疑問に思うことが少なくないが、これについてはもう少し書きたい。

 

 


中央新幹線

2011-07-06 08:51:51 | 身辺雑記

 リニアモーターカーで東京から大阪まで走行する計画の中央新幹線は、2027年に東京-名古屋間の開業を目指している。東京と名古屋を最短40分程度で結ぶ計画だ。

 

担当するのはJR東海だが、このほど建設する路線と駅の位置の案を示した。計画によれば南アルプスの地下にトンネルを貫通させ、東京と名古屋をほぼ直線に結ぶルートになるようだ。駅は、東京都は品川駅付近の地下、神奈川県は相模原市、山梨県は甲府盆地の南部、岐阜県は中津川市の西部、愛知県は名古屋駅付近の地下に造るとしている。ことし12月に環境影響評価を始め、その結果を基に正式なルートと駅の位置を絞り込む予定で、2014年度中の着工、2027年の開業を目指すということだ。 

 

 

中央新幹線は最終的には大阪まで延長されるが、名古屋ー大阪間の開業は2045年だそうだ。2045年と言えば今から34年後で、もし私が生きているとしたら112歳だから、その時に矍鑠としていて乗車を希望したら、珍客として一番列車に招待されるかも知れない。もちろんそういう夢想をするだけでも滑稽で、その時には長男は84歳、次男は80歳になっているから、これも覚束ない。今22歳の孫娘を初めとして4人の孫達には機会は大いにあるだろう。私にとっては、目の黒いうちに2027年の大阪-名古屋の開業のニュースを目にすることができるかどうかも分からない。

 

負け惜しみを言うようだが、私はこのような新幹線に乗ってみたいとはあまり思わない。リニアモーターカー自体には、2004年1月に上海で乗車している。上海市内から、空港のある浦東(プトン)まで僅か7分、遊園地の乗り物のように、あっと言う間のことで感興を覚えることもなかった。

 

老人の懐古趣味になるが昔の列車の旅には情趣があったが、新幹線になってそういうものはなくなった。まして中央新幹線のような超高速列車に乗っては、もはや旅をするという感覚ではなく、ただ運ばれる、移動するというものではないだろうか。

 

   

 


誕生日

2011-07-04 21:32:39 | 身辺雑記

 今日7月4日に78歳になった。昨年は喜寿になり父を追い越そうというので、いささか張り切って迎えたが、過ぎてしまうとこの一年は短かったように思うし、足腰の弱さが増して急に年をとったようでもある。それでも病気もせずに誕生日を迎えられたのは有り難いと感謝している。この一年間、何かにつけて心の支えになってくれた息子夫妻や孫達、卒業生、友人、知人に感謝する。

 

 昨日は次男が淡路島にドライブに連れて行ってくれた。岩屋というところの漁港近くにある鮮魚店が経営している寿司屋に行き、実に新鮮で美味い握り寿司を食べさせてくれ、そのあと島内を巡った。次男は小学校の教師をしているから話が面白い。mont-bellのシャツもプレゼントしてくれた。

 

 

 

 中国新疆ウイグルのウルムチの趙戈莉が駱駝の人形を贈ってくれた。いかにも新疆からのプレゼントだ。

 

     

 

 東京にいる上海人の施路敏は、中国の有名な作家で、文化大革命で紅衛兵に迫害されて自殺した老舎の『駱駝祥子(ルオトゥオシャンズ)』と、中国では映画化もされて有名になった流行作家の劉震雲の『ケータイ(手機)』の2冊を贈ってくれた。「爺ちゃんは本が好きだから」と言った。

 

     

 

 上海の唐怡荷と広州の伍海珠からはMSNで祝いの言葉をもらい、知人のSさんはメールで祝ってくれた。

 

 Hg君夫妻とHr君には、行きつけのお好み焼きの店で祝ってもらった。

 

 今年も家族や友人、卒業生、知人から祝ってもらった幸せな誕生日だった。次の目標は80歳(傘寿)。何とか頑張っていこうと思う。

 

 

 

 


65歳定年

2011-07-02 11:32:28 | 身辺雑記

 教員を定年退職して、もう18年になろうとしている。60歳定年だったから 退職してすぐに年金が支給され、お蔭で今日まで気分的にはあくせくすることがなく来られたのは有り難いと思う。私の退職後しばらくして、年金の支給開始年齢は延長され、それに伴って退職後も希望すれば講師として勤務できる再任用制度が施行され、多くは希望したので事実上は定年の延長のようになったが、もちろん給与はそのままではない。

 

 民間でも退職者の再雇用を実施している企業はある。Hg君は60歳定年である企業を退職したが、再雇用制度はあっても、仕事内容はまったく変わらず、給料は少なからず下がるのでバカらしいと応じなかった。仕事がなくなっても生活に困窮することはないので、花や野菜作りをしたりして、心身ともに健康な生活を送っている。私の長男は京都のある機械メーカーに勤めているが、56歳定年だそうで、今年50歳になったので気分は何か落ち着かないようだ。今時56などまだ若いと思うが、息子に言わせると民間企業とはそういうものだそうだ。

 

 今月7日に厚生労働省の研究会は、少子高齢化が進むなか、希望者全員が65歳まで同じ会社で働き続けられる新しい制度を設けたうえで、現在、法律で60歳以上と定められている定年を65歳に引き上げるべきだとする提言をまとめた。具体的には再来年度までに、希望者については定年後も再雇用することを企業に義務づけるなどして、65歳まで同じ会社で働き続けられる制度を設けたうえで、遅くとも厚生年金の支給が始まる年齢が65歳に上がる2025年度までに、定年についても65歳に引き上げるべきだとしている。

 

 2025年と言えば14年も先のことで、その時には64歳になる長男にとっては現実的な話ではないことだし、現在の法律では定年が60歳以上と定められていても、長男が勤務している企業のように定年を56歳としているように、法律で定年を65歳としても、それが行なわれるのは公務員くらいではないか。65歳定年になって、65歳になるまで厚生年金が支給されないことは、辛いことだろう。それに、65歳を過ぎても引き続き雇用を希望する人はいるだろうが、給料の支給額は減らされるだろうから、その年齢で働くということは身体的にも精神的にも負担が多いことだろう。