昨日は新聞でもTVでも、2/11の野村克也氏のご逝去に関することが大きく取り上げられていた。
昨日、先日の「おおたき国際スキーマラソン」の成績一覧が掲載されているので、コンビニで道新スポーツを購入したが、それも「追悼特別紙面」となっていて26ページもの分厚い構成になっていた。そのうち、14ページが野村氏関係の記事だった。
10月の金田正一氏ご逝去の時も書いたが、プロ野球に興味を持ち始めた子供のころから印象に残っている選手を5名上げるとしたら、長嶋、王、金田、野村、稲尾である・・・その野村氏が2/11に85歳で亡くなった。
特にノムさんこと野村氏は、現役時代は凄い成績を残している割には、長嶋選手や王選手に比べて地味な存在だった。それは、当時のプロ野球は巨人を中心としたセリーグがマスコミで多く取り上げられていたことによるのかもしれない。そんなこともあり、「長嶋、王はヒマワリで、自分は月見草」との名セリフとなってい残っているのだろう。
自分にとっては、野村氏は監督や評論家になってからの印象が非常に強い。今でも長嶋氏や王氏は選手としてのイメージが強く、野村氏は監督というイメージが強い。
しかし、改めて野村氏の現役時代の成績を見ると、「生涯一捕手」にこだわった「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーであり、印象に残っているよりもずっと凄い数字が並んでいる。
「戦後初の三冠王」「歴代1位となるベストナイン19回」「8年連続でホームラン王」「通算2901安打、ホームラン657本、1988打点、通算3017試合出場はいずれも歴代2位」などなど・・・。精神的にも肉体的にもきついキャッチャーという立場で残した数字である。
しかも、昭和29年に京都の峰山高校からテスト生でソフトバンクの前身・南海に入団している。しかし、1年目で17打席ノーヒットで戦力外通告を受けている。このたび初めて知ったことだが、そのときに「南海電車に飛び込んで死んでやる」と言ったことで、残ることができたという。ノムさんらしいエピソードである。
選手時代も「月見草」のほかに「ささやき戦術」などのエピソードもあるが、監督になってからは「ID野球」「ぼやき」「野村再生工場」などのエピソードも多く残している。また、著書も多く、自分も何冊か購入して読んでいる。
監督になってからは、南海での選手兼監督も経験しているが、なんと言っても強烈なのは、「ヤクルト監督としての日本一3度」である。当時に教えを被った、同じ捕手だった古田氏を初めとする当時の選手たちは今でも多くの監督やコーチとして活躍している。
その後、駒大苫小牧高時代から大ファンだった田中将大投手が楽天に入団したお陰で、楽天ファンになったが、そのときの監督がこの野村氏だった。いつもTVで見ていただけに、「マー君、神の子、不思議な子」の名セリフと共に、楽天監督時代の印象が一番強い。試合後の記者会見も面白かった。
監督を辞してからは、評論家として、長嶋氏や王氏よりマスコミに登場する機会がはるかに多く、味のある解説や楽しいセリフに魅了されたものだ。
いろいろな関係者が語っている内容を読むと、昔から他人に対して非常に細やかな気遣いの回る方だったようだ。監督を辞めてからも多くの関係者との手紙などでの個人的なやりとりが行われていたようだ。人情派と言われる由縁であろう。
「野村−野球=ゼロ」という名セリフや、個性の強い紗知代夫人とのおしどり夫婦ぶりなども含めて、本当に愛すべき方であった・・・ご冥福を心から祈りたい。
◎「おおたき国際スキーマラソン」の記事
同じ道新スポーツに「第30回おおたき国際スキーマラソン」の画像と成績一覧が掲載されていた。
紙面左下のゲキ坂の写真に自分が写っていた(右の2人目)。
公式のタイムと順位だが、タイムは2時間11分23秒で、順位は18位と昨年より1つ下がっただけだったが、後ろに残っている人が少なくなり寂しい限りだ。70歳以上には怪物が多く、60~70歳未満の方に自分より遅い人が多い。
星野さんの阪神監督時代はよく知っているのですが…。
さすがに南海での活躍は小さい頃で記憶にはありませんが。