癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

今年の年越しは「ホテル恵風」で

2019年12月31日 | 日常生活・つぶやき

 

 6年前から、年越しは温泉に泊まってのんびり過ごすことにしている。今年は2回目のホテル恵風である。ここは、バカみたく高くなる正月料金という設定がないのがうれしい。

 今日は天気が良ければ、椴法華コースから恵山の外輪山の461ピークへ登る予定だったが、荒れ模様なので中止にし、ホテルでのんびり過ごすことにした。

 肩の痛みだが、29日の登山でぶり返しが来るかと思ったが、逆に昨日から痛みが和らぎ、今朝になったらほとんど気にならなくなった。このまま治癒してくれることを願っている。

 13:45に家を出た。市内は吹雪模様だったが、恵山に来たら、山は見えて青空も広がっていた。

 ホテルには15:10にチェックイン。まずは温泉へ。

         日帰り温泉とどぽっくる

 

          宿泊者専用浴場

 温泉はいつも入っている日帰り入浴のとどぽっくると、宿泊者専用の2ヶ所あるので、宿泊者用に入った。

        温泉から眺めた恵山

 

 ビールを飲みながら、夕食まではテレビの年寄向きの「大晦日恒例年忘れにっぽんの歌」を観て過ごした。

         楽しみな夕食

 

 

 

今年も大変お世話になりました。ありがとうございます。

みなさん、良いお年をお迎えください。

 


2019年「挑戦と感謝」の10大感動

2019年12月30日 | 日常生活・つぶやき

 この1年間、1日も欠かさず更新を続けてきたこのブログを改めて見直してみた。元号が令和に変わり、後期高齢者の仲間入りをしたが、今年も相変わらずの「やりたいこと三昧」の1年で、我ながらもよく遊んだものだと感心してしまう。

 趣味の中心となっている登山だが、今年の山行日数は75日に終わった。しかし、2回の旧街道歩き旅を含めると106日だった。

 いずれにしても、今年も多くの新たな出会いや感動に満ちた、若い頃からの座右の銘である「挑戦と感謝」の1年でもあった。
 
 そんな中から、今年の締めくくりとして、特に感動の大きかったことを時系列に沿って10個選び出して、「10大感動」としてみた。

◎1月~2月 クロスカントリースキー大会5レース完走

 毎年、その年の一番最初の印象的な出来事のトップは、いつものこのクロスカントリースキーレースである。毎年同じことを繰り返しているが、この全レースの完走は、自分にとっては大きな出来事である。

 1月の「HBCハウス歩くスキー大会(15km)、2月は日曜日ごと4週連続の「札幌国際スキーマラソン大会」(50km)、「おおたき国際スキーマラソン大会」(15km)、「恵庭クロスカントリースキー大会」(30km)、「湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会」(80km)のすべてを完走することができた。

 加齢とともに、徐々にタイムや順位は落ちていくが、まだ辛さよりは滑走の楽しさやゴール後の満足感が大きい。しかし、アップダウンの大きな札幌国際50kmは、年々辛さの方が大きくなってきた。そこで、75歳という年齢を機会に来年は25kmへのエントリー変えをすることにした。 

 これらの大会はすべて遠路の車の運転から始まり、前日のほとんどは車中泊である。これもまだ大儀ではない。この運転ができるうちは参加し続けようと思う。

 

◎3月 後期高齢者の仲間入り

 3月28日が誕生日である。ついに75歳となり、後期高齢者の仲間入りをした。若いころはこの年齢になってどのような自分になっているのか考えることもできなかった。実感としては、意外と若く元気で過ごせるものだとと思っている。周りには80代、90代になっても元気な年寄りが多い。

 自分も、今のような行動的な生活を、とりあえず80歳までは続けてみたいと思っているが、果たして・・・?

 

◎北海道新聞(みなみ風)「どうなん・とうほく山楽紀行」連載終了

  2012年~2017年の5年間にわたる北海道新聞(札幌圏版)への115回の連載は、写真をふんだんに入れて最構成し、拙著『ほっかいどう山楽紀行』として発刊することができた。それに引き続き。北海道新聞(みなみ風)への連載も依頼され、「どうなん・とうほく山楽紀行」として2017年~2019年まで、59回を重ねて終了した。

 足掛け7年間にもわたる連載だったが、推敲に推敲を重ねて決められた字数に収めて書き上げた時の満足感は大きいものだった。どちらの連載も「評判が良いからもっと長く続けていただきたい」という北海道新聞からの依頼で、予定よりはるかに多くの回数となった。

 余談だが今年の秋に北海道新聞函館支社から「朝の食卓」の執筆者候補者として推薦したいとの電話をいただき、OKを出しておいた。

 「朝の食卓」の執筆者はその地域で活躍しているいろいろな分野の人材を掘り起こして執筆依頼をするらしい。ところが、その後、本社の段階で「坂口さんは、北海道の人口の半数以上を占める札幌圏版で5年間も連載していただいて、もはや全道的な有名人なので、企画の意図にそぐわない」ということで、却下されたという連絡を受けた。喜んで良いのか・・・?

 

◎4月~5月 「利尻山元号またぎ登山」

 めったに経験することができない「元号またぎ登山」・・・成最後の4/30に7合目の避難小屋まで登って夜を明かし、令和初日の5/1に登頂し、利尻山令和登頂者第1号となった。2日とも好天に恵まれて、当初の目的を果たすことができ、記念すべき印象に残る山行となった。

 この計画は、一昨春の四国遍路の時にお世話になった松山市の法起坊見習いさんのその当時からの計画だった。それに同行する約束をしていた。彼のお陰で、自分の登山史に残る印象的な山行となった。

 

◎多くの仲間が駆け付けてくれた「道南全山219座完登」の太田天狗岳

 道南や札幌の山仲間16名がお祝いに駆けつけてくださり、一緒に登っていただいた。
 横断幕やオリジナルプリントのお祝いTシャツ、そして、下山後のケーキまで用意していただいて、感謝・感激・感動の山だった。
 道南219座とは、上陸に文化庁の許可のいる渡島大島を除いた、国土地理院の地形図の掲載されている全山である。その中で登山道のある山は70座あまりで、あとは藪山である。したがって150座ほどは藪漕ぎか、藪を漕がなくても済む冬山登山で踏破した。
 この記録は、故斎藤博敏さん、故Ko玉さん(札幌)、函館山の会会長の林さんについで4人目である。

 

◎8月 天売島・焼尻島中心の「道北の旅」

 北海道の離島では、利尻島、礼文島、奥尻島、渡島大島は渡ったことはあるが、この天売・焼尻は長い間の念願だった。

 妻のお盆休みを利用し、5泊6日の道北の旅をした。主な目的はこの2島の歩き旅である。1泊2日ですべてのコースを歩き回った。そのほか、芦別市、下川町、雄武町、羽幌町、苫前町などを回った。

 

◎9月 「東北百名山」巡り

 <夏油温泉手前から温泉街とその上にそびえる牛形山を眺める>

 北海道内の主だった山はすべて何度も登っているので、そろそろ飽きがきた。新しい山に登りたい。かと言って藪山のピークハントはもう卒業したい。
 そこで、次の目標として、すでに52山登っている「東北百名山」(一覧・登頂記録)踏破を考えていた。
 天候に恵まれ、9/7~9/22の間で、青森、秋田、岩手を中心に14日、17山に登ることができた。日本三百名山に選ばれている山や有名な山はすでに登っているので、物足りない山が多かったが、新ピークならではの楽しみが多かった。
 あと福島、宮城、山形を中心に31山残っている。これらは来年と再来年の楽しみである。

 

◎10月 NHK朝ドラ「なつぞら」のロケ地・関連地巡りin十勝

 我が家では珍しく録画してまで、毎日見続けたNHK朝ドラの「なつぞら」だった。

 放送が終わったばかりの10月上旬に2泊3日で十勝まで走り、新得町、帯広市、陸別町、鹿追町などのロケ地や関連地を巡った。

 

◎10月 windows7から10への切り替え

 windows7のサポートが2020年1月で終了するというので、重い腰を上げて、ようやくwindows10へ切り替えた。
 いつもお世話のなっているブルーコンピューターへ行っていろいろ相談して、中古の一番安かったDELLの29,800(税込)で十分だとのことでそれにした。
 立ち上がりもこれまでのよりずっと速いし、インターネットはクリックすると瞬時に繋がるのにも驚いた。windows7に比べて作業スピードが非常に速くなっているという。
 今まで使っていたMicrosoft Office2007はもう古いので、新しくmicrosoft office2013(手数料も含めて15,000円)も入れてもらった。

 しかし、いつものことだが、その後、いろいろな機器との接続やソフトのダウンロードに手間取って、イライラの日々が続いた。しかし、何といっても、一番うれしかったことは、HP立ち上げ当時から使っているホームページソフト「HOTALL2001」がダウンロードできて、使うことができたことだった。

 

◎4月と10月 「奥州街道~日光街道~甲州街道」歩き旅

 昨秋に三厩からスタートした奥州街道だが、今年の4月には盛岡から白河(盛岡道・仙台道)まで歩いた。11月にはお江戸日本橋までの「奥州道中」(江戸~宇都宮間は「日光街道(道中)」と重複)を歩いて、日光街道も含め、奥州街道を全踏破ゴールすることができた。

 さらに、その足で、日本橋から「甲州街道(道中)」も歩き通し、これで、五街道を全踏破することができた。まだ旧街道はたくさんあるが、歩いてみたい旧街道は「羽州街道」や「山陽道」である。いつかはこれらも踏破してみたいと思っている。

 

次点 大会参加卒業ランとなった「函館マラソン(ハーフ)」

     

 57歳~60歳の4年間、65歳から75歳までの11年間、合計15年間完走し続け、フルとハーフの同時開催になった72歳の時にはフルに参加して完走もできた。その後、昨年と一昨年はハーフの70歳以上の部では2年連続13位になり、20位まで掲載される新聞にも名前が載ることができた。

 しかし、今年に入って、練習でも昨年までの6分切り/kmのラップで走ることができなくなった。6月の「千歳マラソン(ハーフ)」も完走したが、目標のタイムでは走ることができなかった。函館マラソン(ハーフ)は、途中で便意を催してトイレに駆け込んで、戦意喪失ランとなった。

 完走だけを目標にすれば、タイム的にはまだまだ余裕があるが、それも面白くない。今までのペースを維持するには、さらにハードな練習が必要となる。しかし、もともと好きになれないマラソンなので、今年で大会参加を卒業することにした。 


登り納め延長戦「遊楽部岳6合目まで」

2019年12月29日 | 登山・旅行

        5.5合目付近から臼別頭を望む

 12/22の健八流が今年の登り納めだと思っていたが、SHOさんからお誘いがあって、「遊楽部岳の登山道を行けることろまで行く」という計画にした。夏でも片道20kmもあるロングコースの山である。もし行けてたとしても臼別頭までだろうと思っていた。

 SHOさんがラッセル要員として函館山の会の若手の2人を誘ってくれた。一人は夏に松倉川支流の白滝沢川を一緒に遡行したKiさん、もう一人は3月に松前の奥深い木無山~松倉山へご一緒したトレイルランナーのNaさん。この二人にラッセルを任せて一番後ろから付いて行った。3人とも健脚なので、遅れがちになりながら付いていくのが精いっぱいな上に、雪が締まっていないので急なところは崩れて非常に登りづらかった。登り納めの山が今年の山で最もキツイ山となった。

 登り始めは上空に濃い雲が懸かっていたが、登るにつれて雲が取れて、素晴らしい好天に恵まれた。真っ白に輝いて凛と聳える臼別頭を眺めただけでも大満足だった。

       

           GPSトラックログ

 8:10国道の登山口をスタート。

 

 夏の登山口から登山道へ入る

 

 臼別頭手前のピークを眺める。右後ろの微かに臼別頭が見える。

 

 登山道が崩れたような崖を登る。ここが一番辛かった。

 

 登山道を見失って、笹藪を漕ぎながら登山道があるはずの尾根を目指す。

 

 11:35、5合目到着。この時点で臼別頭までは断念し、6合目ピークを目標にする。

 

 5合目から臼別頭を見上げる。

 

 6合目ピークへの登り。

 

 ダケカンバの樹氷と青空

 

 6合目表示板

 

 12:45、引き返し地点6合目ピークで、臼別頭をバックに記念撮影。ここからは遊楽部岳山頂は見えなかった。

 

 登ってきた尾根を見下ろす。手前のピークは5合目ピーク。登りで苦労した崖状の所は尻滑りで下った。

 15:20、登山口到着。登り4時間30分、下り2時間25分。

 帰りに八雲の和(やわらぎ)の湯で疲れを癒して帰路に就いた。


消えゆく運命?「歳の市」

2019年12月28日 | 道南の風物詩

◎グリーンプラザ(旧広小路)では唯一となった「国井商店」

 昔は年の暮れの風物詩といえば、正月のしめ飾りや縁起物やまゆだまを売るこの「歳の市」だった。これがずらーっと並んでいたものだった。

 しかし、今では函館市内では、グリーンプラザ(旧広小路)の国井商店と、中島廉売の小林商店の2軒だけになったそうだ。

 函館市歳の市商業組合加盟店は、ピーク時の1970年ごろには市内6ヶ所に計30軒ほどが並んだそうだ。昔は神社やお寺の境内にもあったような気がする。

 2年前にはすでに湯の川にはなくなっていたが、グリーンプラザと中島廉売にはまだ2軒ずつ計4軒があった。

 それが、今日の新聞によると、2軒になっているというので、もしかしたら来年は見られなくなるかもしれないと思い、カメラに収めてきた。

 今は、スーパーやホームセンターで同じようなものを扱っているので、そちらで購入する時代になっている。だんだん古来の風習や文化が消えていくのが寂しい・・・。

◎中島廉売では唯一となった「小林商店」

 

〇ホームセンターの正月飾りコーナー


時期の悪い「肩の痛み」再発

2019年12月27日 | 大腸癌以外の検診・健康関係

         

 2004年には「腱板損傷」を患っているし、2014年には日本人には少ない「変形性肩関節症」と診断されている。

 その影響で、時折右肩に痛みが発生する。今年は8月に次いで、これで2回目だ。何の因果関係もなく突然出現する。今回も、先週の金曜日に朝起きたら痛みが発生していた。思い当たる原因となりそうなことは思いつかない。

 5年前に五稜郭病院の整形外科レントゲン撮影をして「変形性肩関節症」と診断されたときに、「これからも痛みが出たり出なかったりすることはありますが、整形外科的に完治するには人工関節しか方法はありません。ですから、痛みが出たときは、今まで通り五稜郭整骨院で治療を受けるといいでしょう」と言われていた。

 その後、高いところのものを取ろうとしたときに痛みが出るくらいで、日常生活には全く支障がなかったし、肩に負荷のかかる腕立て伏せやクロカンスキーのストックワークでも痛みを感じることはなかった。

 今と同じ痛みが出るのは今年になって2回目である。腕を動かさなければ痛みは出ないが、腕の捻る角度によって肩関節の前面にズキッとした痛みが出る。また、ボールペンで文字を書いても、スマホを指でいじっていても、姿勢によっては痛くなることである。そのくせ、肩だけをグルグル回しても痛みは出ないし、雪掻きの動きでも大丈夫である。

 心配なのは、これから続くクロスカントリースキーのストックワークである。両肩に強い負荷が掛かるからである。しかし、2014年の時は、痛みが出ている最中でも、そのストックワークの動作では痛みは出なかったので、大会をキャンセルしないで済んだ。今回も多分そうなのかもしれないが、やってみなければ分からない。

 今週の月曜日からいつもの五稜郭整骨院に治療に通っている。肩関節の周りの筋肉が硬結しているそうだ。時間は掛かるが、それが取れて柔らかくなれば治るだろうとのこと。

 8月の時は10日間ほどで改善したが、今回は30日から年始年末休診が5日間続くので、回復にはもっと日数が掛かるかもしれない。

 すでに、大滝のクロカンコースはオープンしている。いつもは年末と年明けに練習に行っているのだが、どうしようか迷っているところである。最初のレースは1/19なので、最悪それまでに治れば良いのだが・・・。


今年の山を振り返る~印象に残る山ベスト10

2019年12月26日 | 登山・旅行

      今年一番の山行となった「利尻山元号またぎ登山」(令和元年5月1日)

 先日の「二ツ森&健八流」が今年の〆登山になると思われるので、今年の山を振り返ってみた。

 かっては山だけで100日を超えていたが、登りたい山もだんだん少なくなり、ここ数年は山だけで100日を超えるのは難しくなっている。

 そこで、ここ数年は、歩き旅も含めての100日超えを目標にしている。

 今年の山行は74日で、歩き旅は31日で、合計105日だった。

 その中で、特に印象の強い山行のベスト10を選んでみた。

 

 1番は、松山市の法起坊見習いさん発案の「利尻山元号またぎ登山」

     <平成31年4月30日、利尻山山頂をバックの長官山>

 平成最後の4/30に7合目の避難小屋まで登って夜を明かし、令和初日の5/1に登頂し、利尻山令和登頂者第1号となった。

 この計画は、一昨春の四国遍路の時にお世話になった松山市の法起坊見習いさんのその当時からの計画だった。それに同行する約束をしていた。

 2日とも好天に恵まれて、当初の目的を果たすことができ、記念すべき印象に残る山行となった。

 

 2番目は、「道南全山219座完登」の太田天狗岳

 道南や札幌の山仲間16名がお祝いに駆けつけてくださり、一緒に登っていただいた。

 横断幕やオリジナルプリントのお祝いTシャツ、そして、下山後のケーキまで用意していただいて、感謝・感激・感動の山だった。

 道南219座とは、上陸に文化庁の許可のいる渡島大島を除いた、国土地理院の地形図の掲載されている全山である。その中で登山道のある山は70座あまりで、あとは藪山である。したがって150座ほどは藪漕ぎか、藪を漕がなくても済む冬山登山で踏破した。

 この記録は、故斎藤博敏さん、故Ko玉さん(札幌)、函館山の会会長の林さんについで4人目である。

 

 3番目は、案内方々、藤沢市の保川氏の「日本二百名山完登」に立ち会ったペテガリ岳

 一昨年、やはり案内方々一緒に登ったカムイエクウチカウシ山に引き続き、昨年にこのペテガリ岳で「日本二百名山完登」する予定だったが、天候に恵まれすに、今年に持ち越しとなった。

 『北海道夏山ガイド』執筆者の哲さんの取材を兼ねた同行もいただき、2泊3日で予定通り完登に立ち会うことができた。

 1日目は神威山荘からペテガリ山荘まで、2日目が頂上往復、3日目がペテガリ山荘から神威山荘という2泊3日の行程だった。

 

4番目は、「東北百名山」巡り

 <一番印象の強かった活火山・焼山の噴火口を見下ろす>

 北海道内の主だった山はすべて何度も登っているので、そろそろ飽きがきた。新しい山に登りたい。かと言って藪山のピークハントはもう卒業したい。

 そこで、次の目標として、すでに52山登っている「東北百名山」(一覧・登頂記録)踏破を考えていた。

 天候に恵まれ、9/7~9/22の間で、青森、秋田、岩手を中心に14日、17山に登ることができた。日本三百名山に選ばれている山や有名な山はすでに登っているので、物足りない山が多かったが、新ピークならではの楽しみが多かった。

 あと福島、宮城、山形を中心に31山残っている。これらは来年と再来年の楽しみである。

 

5番目は、「大雪の花巡り山行」

    <トムラウシ山をバックの化雲岳斜面の花畑>

 大雪山の主だった山も何度も登っているが、今年は、花が最盛期の7月に、標高年でもある緑岳~小泉岳、富良野岳、黒岳~お鉢平、化雲岳を巡った。

 特に2回目の天人峡コースからの化雲岳の花畑が印象的だった。

 

 6番目は「自宅から~袴腰岳~烏帽子岳~横津岳~自宅」のロングトレイルウォーク

     

 8/16に、自宅~新中野ダム~アメダスコース~袴腰岳~烏帽子岳~横津岳~函館新道~自宅の46.5kmを11時間で踏破することができた。

 

7番目は、2回の下見を行って地元の関係者を案内した「江差・天然記念物ヒノキアスナロ・アオトドマツ自生地巡り」

 岳友でもある道新本社の黒川記者の企画だったが、江差町の関係者を案内するというので、自分がその下見を2回行って、当日のコースを設定した。

 お陰で、檜山の名前の由来となっているヒノキアスナロの天然記念物に指定されている自生地を3回も歩き、その植生の魅力に触れることができた。当日は14名もの参加者を引率しての歩きとなった。

 

 8番目は、新ルート開拓を兼ねて、それぞれ違うルートから3回登った「駒ケ岳」

        <逆川源頭部の剣ヶ峰右側を狙う>

 駒ケ岳の上の方は藪もなくどこでもの歩ける地形なので、これまでも正規の登山道以外にいろいろなルートから登っている。

 今年は、新ルート開拓も兼ねて、押出沢川左岸尾根からの「剣ヶ峰」、テントウ沢からの「砂原岳」、逆川(函中沢)からの「剣ヶ峰」と3回登った。

 

 9番目は、3回目の挑戦で登頂が叶った「柿崎山」

 <3回目にしてようやく登頂できた柿崎山山頂にて>

 松前半島の最深部にある山で、1度目は海岸から続く西尾根にトライしたが雪不足で断念。2回目は道々607号(石崎松前線)~土岐沢林道~南東尾根を狙ったが、地図を車の中に忘れ、GPSも修理中で、地図に掲載されていない林道を進み、遠回りをしてしまい、608ピークで撤退。

 3回目は、残雪のあるうちにと、その1週間後に2回目と同じ30kmのコースからトライして無事登頂。この山に登って、今年中の「道南219座完登」の弾みがついた。

 

10番目は、国内で(世界で?)最も登山者の多いという「高尾山へ陣馬山から縦走」

    <陣馬山から眺めた富士山>

 ずっと以前から登りたいと思っていた高尾山だったが、甲州街道歩き旅のあとに念願が叶った。

 陣馬山からの縦走だったが、日本中の登山者がここに集まっているのではないかと思うくらいの登山者の多さに呆れるばかりだった。


遊び心満点の「金森海鮮スィーツ弁当」(プティメルヴィーユ)

2019年12月25日 | 食べ物

     

 クリスマスケーキの代わりに、遊び心満点のプティメルヴィーユ(フランス菓子専門店)の「金森海鮮スイーツ弁当」(1450円)を購入。函館ならではのアイディアである。

 

 今日は本通店は定休日だったので、末広店へ電話をしたら、「1個だけなら在庫がある」とのことだった。函館BAY店でも扱っているようだ。一応電話で予約方々確かめた方が確実である。

 購入時は冷凍になっていたので、2時間ほどかけて自然解凍してからでないと食べることができないのがちょっと面倒である。11時半に買ってきたが、完全に解けるのを待って、妻の仕事が終わる16時に食べた。

      

 見た目は、まさに海鮮弁当だが、まぐろ、ホタテ、うに、数の子、鮭フレーク、しょうゆ、わさび、いくら、ごはんは、すべてがスィーツで作られている。

 特にいくらは、プチっと裂けて口の中に皮状のものが残るのには驚いた。

 

 上のものをほとんど食べて、鮭フレーク(焼いたクレープ生地)としょうゆ(キャラメルソース)をかけて、ご飯の部分(スポンチケーキの上にカスタードクリームとホイップクリーム)を食べた。

 さすが一流のプティメルヴィーユである。どれも上品な甘さで非常に美味しい作りになっている。遊び心を楽しみながら食べることができた。

 

 ほかに海鮮スイーツ丼(1050円)もあるようだ。


函館地区初出店「コメダ珈琲上磯イオン店」・初訪問

2019年12月24日 | 食べ物

 名古屋発祥の全国コーヒーチェーン「コメダ珈琲店」が北斗市七重浜の「イオン上磯店」敷地内に12月20日にオープンした。

 現在、北海道には10店舗展開しているが札幌市や江別市、苫小牧市の道央圏のみの出店だった。今回初めて道南圏に出店したが、この後、函館市のベイエリアにも出店の準備がされていて、すでに外観は出来上がっている。

 建物は、伊予製麺の入っていた店舗を大幅にリノベーションしている。外観にも昔の面影は全く感じられない。

 そんなわけで、昨日のクリスマスファンタジーのツリーを見た後、夕食でもと思って車を走らせた。

 ところが、まだ通常営業になっていなくて、フードは17:00までとなっていた。それでも、初訪問が目的なので入店。

 

 木がふんだんに使われている。これは、妻に言わせると、札幌の店舗も同じとのこと。

 

 天井もすっかりリノベーションされていた。伊予製麺だったころの面影は微塵もない。

 

 二人掛け用の席。コンセントも設置されている。

 

 非常に落ち着く感じの一人用のカウンター席。ここにもコンセントが設置されている。

 

 夕食のつもりだったが、フードはなかったので、いつもの看板メニューのシロノワール。2人で半分こして食べた。

 

 思っていたよりボリュームのある珈琲ゼリー。

 結局、夕食には足りず、帰宅後、昨夜の残りのおでんを食べた。

 食べそこなったフード類のメニュー ↓↓↓

       昼の画像(他サイトから借用)

 コメダ利用客の平均年齢は日本の平均年齢とほぼ同じで、今回の出店に際しても「お子さまからお年寄りまで幅広い人に楽しんでもらえるよう、経営理念でもある『くつろぐ、いちばんいいところ』を磨いていく」としているという。


二ッ森 & 健八流(松前町)

2019年12月22日 | 登山・旅行

 松前の道の駅で朝を迎える。

 Ikkoさんご一行の今日の計画は、積雪が少ないことを期待した松前の藪山2山(二ッ森と健八流)である。

 まさか、これらの藪山を再訪することになるとは思っていなかったが、お付き合いすることにした。

 Ikkoさんが、ずうっと先頭で藪漕ぎをしてくれたので、ただ後ろをついていくだけだったが、強烈な笹藪や笹や灌木に掴まりながら上り下りする急なところもあり、それなりに疲れた。

◎二ッ森(277m)

 三角点ピークから振り返る二ツ森ピーク。地図上の二ッ森はこの陰のもっと低いところにあったが、これが地元の人が下から眺めて命名した二ッ森であろう。

      

  自分は右側の尾根から地図上の二ッ森を往復しただけだったが、Ikkoさんの提案で南の三角点ピーク(点名・荒谷)も踏む周回コースを採った。

 そのおかげで、藪中のピーク感のない地図上の二ッ森は本当の二ッ森ではなく、その南に地図上には表されていない双耳峰(青色の▲)が実質的な頂上だろうということが判明した。

 7:30スタート~8:00尾根取り付き~9:25二ッ森~10:05三角点ピーク~11:10ゴール。所要時間3時間40分

 

 林道終点の手前から荒れて藪に覆われた荒谷川沿いの廃道を歩き、橋を渡った先の左側の尾根に取り付いた。この尾根には鹿道ができていた。

 尾根の上には鋭くとがった出尾根が見える。これを越えなくてはならない。

 前回の自分は途中から左に巻いて登ったが、Ikkoさんは直登した。

 

 急斜面を登る。この上のピーク下の急な岩場が核心部だった。

 

 その途中から沢を挟んで見える三角点ピーク(左)と二ッ森山(右)

 

 出尾根のピークを登り切った地点にイチイの巨木が生えていた。

 

 出尾根ピークから下って登り返すと、背丈をはるかに超す笹藪漕ぎとなる。密集しているが割と細いので搔き分けやすかった。

 顕著なピークでないので、頼りはGPSである。

 

 GPS上の頂上にて。

 

 南の三角点ピークを目指して藪を漕ぎ分けて行くと、このあとに判明した双耳峰の東ピークが見えた。

 

 東ピークから越えてきた地図上の二ッ森を振り返る。漕いできた跡が残っている。後ろは大沢川と小股川の間の山並み。

 

 双耳峰の東ピークから、イチイが生えている西ピークとその下の松前町市街地を眺める。この双耳峰が、市街地から眺めた二ッ森であることを確信した。

 東ピークを超えて、この後登る三角点ピークを眺める。

 

 三角点ピークで、三角点探しをするがなかなか見つからない、Ikkoさんがストックで突いて探していたら、カチッと石に当たる音がした。掘り返してみたら、三等三角点(点名・荒谷)であった。

 

 三角点を見つけて安心して、尾根を下り始める。

 

 急な尾根には笹藪がなくなる。下に見える細くて急な尾根を下って、林道へ出て、すぐにゴール。

 この後は、同じ松前町の江良地区の奥の健八流登山口となる大鴨津林道入口を目指して移動。

 

 前回の山行記録は、右記でどうぞ!http://sakag.web.fc2.com/hutatu.htm

<凄いニアミス!>

 このブログをアップしたあと、下記のブログへアクセスしたら、すぐ後から、同じコースを登ってきていたグループがあったことが判明。しかも、そのメンバーは、こちらのメンバーと同様に6月の太田天狗岳へお祝いに駆けつけてくれた道南の「チーム他力本願」の中の6名だった。こちらのメンバーと全員顔なじみだったのだが…。こんな藪山に10人も入っていたなんて信じられないニアミスだった。

 http://sikijyousera.blog.fc2.com/blog-entry-352.html

 https://yamap.com/activities/5273922

◎健八流(539m)

 健八流の手前の516ピークに祀られている北海道では珍しい月待信仰の石塔、しかも慶應元年のものである。これで2回目の対面である。

 江戸時代に海岸から直線距離で6km以上離れたこの高さのピークに祀られたことに驚く。さすが歴史のある松前だ。

 月待信仰は江戸時代から明治にかけて広まった民間信仰である。前回見た時には一番上の字が読めなくて、三日月を待つ「三夜」と思ったが、この字が「廿」だとしたら、日本全国に分布している「二十三夜」の可能性もある。

 なお、左上の前回は正真丸と読み間違った「正五九」は、陰暦の正月・5月・9月の称。忌むべき月として、結婚などを避けたり厄払いのために神仏に参詣したりしたとのこと。 

 

 積雪が遅かったお陰で、登山口となるところまで林道を入ることができた。例年だったら無理だったろうと思われる。

 登りは前回と同じ作業道の痕跡が残るジグザク道を辿ったが、下りは尾根を下った。月待信仰の石塔のある516ピークには先に寄った。

 12:20スタート~13:40 516ピーク~14:15頂上。登り1時間55分、1時間10分。ゴール15:30。

 

 古い作業道の痕跡が残る尾根を登る

 

 途中から隣の御三流が見える。

 

 尾根上の516ピークを見上げる。

 

 月待ち信仰の石塔の立つ516へ先に寄る。

 

 516ピークを下り、頂上手前のピークを目指す。このあとの作業道跡はこのピークの横で終わっている。

 

 ようやく頂上へ頂上へ到着。

 

 前のときも三角点は見つけておいたが、今回も雪を除けたらすぐに見つかった。その三角点を前に記念撮影。

 下山は途中までは作業道跡を無視して、尾根をまっすぐ下ったnで、効率が良かった。

 一番日の短いときだったが、なんとか暗くなる前に下山することができた。

 国道の出口で札幌組と分かれて、2日連続となる松前温泉に入って帰路に就いた。ひと月ぶりの山で、1日2山はさすが疲れた。

 前回の山行記録は、右記でどうぞ! http://sakag.web.fc2.com/kenpatii.htm


岩部岳(福島峠コース)

2019年12月21日 | 登山・旅行

 札幌からやって来た山仲間の3人に付き合って、7回目の岩部岳(794m)へ福島峠コースを往復した。

 過去6回の「岩部岳の山行記録」は、右記でどうぞ⇒ http://sakag.web.fc2.com/iwabe1710.htm 

 メンバーは、6月の「道南全山219座完登」の太田天狗岳に札幌からお祝いに駆けつけてくださった6名のうちのIkkoさんとmocoさんご夫妻。

 Ikkoさんは、現在、北海街道の山1400座以上を登っていて、全山1594座を完登した故Ko玉さんの快挙にもっとも近い方である。

 GPSトラックログ。アップダウンの多いタフなロングコースである。

 7:55福島峠~11:00 697ピーク~11:30 登り3時間35分、下り2時間25分

 雪が少ないので、旧国道の福島峠まで入ることができた。峠の切通の急な尾根を登る。

 

 尾根の上には快適に刈り払われた国有林境界管理道が続く。スタートして間もなくは、急なアップダウンが続く。

 このコースを往復するのは2回目で、もう1回は大きな沢川林道から縦走して下りている。

 

 まっすぐ伸びたブナ林の中を進む。

 刈り払い道沿いに、前に「宮」と丸く彫られた石柱が点在する。裏には「界己〇」と彫られている。

 これは、戦前の国有林の境界を示すものである。戦前の国有林の管轄は宮内庁であった。

 道南の山には多く見られるが、札幌組の3人は初めて目にしたようだ。

 

 途中から振り向くと、前千軒岳(左)と大千軒岳(右奥)が見える。この山も今年は雪が異常に遅いようだ。

 

     

     大きく枝を広げたブナの巨木

 

 やがて、左手に目指す岩部岳山頂部と山頂へ続く稜線が見える。

 

 697ピークから福島町の海岸線を見下ろす。その奥は津軽半島。

 

 697から方向を北東に変えて、稜線を進む。眼下の谷の下に岩部集落が見え、海峡を挟んで下北半島が見える。

 

 最後のピークを下って、このコースの核心部である頂上までの急な登りが続く。

 

 斜度50度はあろうかと思う急斜面を笹に掴まりながら、四つ這いで登る。

 

 山頂標識をバックに記念撮影。

 この山には三等三角点と戦前の宮内庁管轄の国有林を示す石柱がある。

 

 函館山とその奥に横津連峰も見えている。

 過去6回の「岩部岳の山行記録」は、下記でどうぞ!

 http://sakag.web.fc2.com/iwabe1710.htm 

 下山後、松前道の駅に車を置いて、飲まないで運転してくれるというmocoさんの車で松前温泉へ。

 休憩室で、20時近くまでのんびりおしゃべりをして、松前町の道の駅で車中泊。

 


ハンドボール全日本チーム函館合宿・最終日ほか

2019年12月20日 | イベント鑑賞・参加

     

 東京オリンピックに出場するハンドボール男子日本代表「彗星JAPAN」の強化合宿が「函館アリーナ」で、12/16から開催されていて、今日が最終日だった。

 高校時代にハンドボールで2年連続、国体とインターハイ(高校総体)と全国高校選抜大会に出場している妻に付き合って、今日の最終日の練習を観に行った。昨日までの公開は16:00~18:00だったが、最終日の今日は9:00~11:00だった。

 ハンドボール男子日本代表は1988年の韓国・ソウル大会以来、開催国枠で32年ぶりの東京オリンピックへの出場が決まっている。

 しかし、この合宿は、来月クェートで開催されるアジア選手権の代表選考も兼ねているとのことで、選手も真剣である。

 デフェンスとオフェンスの練習・・・パス回しの速さに圧倒される。

 

 実戦形式の練習

 

 シュートの練習

 

    

 最後の30分以上は、2人がペアになっての筋トレ・・・コーチの号令に合わせて、休みなく続けるのに、最後までリタイアする選手は誰もいない。

 今日の夕刊で分かったことだが、この中の函館出身の小沢基選手(23歳)は、鍛神小学校卒業で、自分がいたころの低学年の子だった。

 自分の在職時に創設されたハンドボール少年団「かやげクラブ」に所属していたらしい。因みにパラリンピックの陸上で活躍している重本(旧姓辻)沙絵選手もこの「かやげクラブ」に所属していたが、こちらの退職と入れ替わりに転校してきた子だった。

 

◎帰りに食べた北々亭の「ワンコイン寿司ランチ」(税込み)

 目の前で一貫つずつ握ってくれて、10貫で税込み500円は凄い。味噌汁もコーヒーも無料。※平日限定

 平日は毎日やっているので、お昼時は結構混んでいた。

 

◎10数日ぶりの積雪

12/5に降ったドカ雪も間もなく消えて、10日以上は積雪ゼロだった。これで、ホワイトクリスマスになれるかどうか?


ティッシュペーパー雑感

2019年12月19日 | 日常生活・つぶやき

 妻が最近、箱入りティッシュを半分に切って使えるようにして、食卓と居間のサイドテーブルに置いてある(左上)。 

 確かに、鼻や鼻水をかむとき以外は、このくらいの大きさで十分なときが多い。

 改めて考えてみれば、いかに無駄な使い方やぜいたくな使い方をしているかということである。

 外国人が日本に来て、驚くことのひとつに日本人のこのティッシュの使い方があるそうだ。

 日本のティッシュペーパーの消費量は世界一で、年間47万トンとのこと。一人当たりに換算すると、年に平均18箱のティッシュペーパーを使用している計算になる。これは、ティッシュペーパーの消費量第2位の米国と比較しても3倍にもなる。

 日本のティッシュ消費量は、安くて質の良いことや、ポケットティッシュの無料配布が大きく関係しているらしい。

 世界ブランドのクリネックスティッシュペーパー1組当たりの価格を比べたところ、日本が最も安く0.31円。一方、米国は1.11円、フランスは1.77円、英国は3.70円(3枚1組)だったそうだ。

 また、日本のティッシュは質が良いと外国で評判になっていて、日本へ観光に来た外国人がわざわざティッシュをお土産に買っていく人もたくさんいるとのこと。質が良いからいろいろな使い方ができるということにもつながっているようだ。

 ポケットティッシュの無料配布は、配布物では一番宣伝効果があるそうだ。その始まりは、富士銀行が口座開設に伴う粗品として配布したという説がある。粗品として20万個ほど配布したとされており、古くからポケットティッシュがもらってもらいやすいものとして配布されていた証と言える

 そもそも、ティッシュペーパーは、第一次世界大戦の最中、脱脂綿の代用品として作られ、利用されたのが起源らしい。ガスマスクのフィルターとしても使われた。第一次世界大戦が終戦となった1924年以降、ティッシュペーパーの在庫は大量に余っていたため、アメリカにあるキンバリー・クラーク社が、メイクを落とす消耗品として、クリネックスティシューを販売した。そのため、アメリカではティッシュペーパーではなく、クリネックスという名称に馴染みがあった。

 その後、1953年に日本に伝わり、初めは主にメイク落としとして、さらに、ちり紙の代用品として広まったようだ。最近では布巾やハンカチの代わりにもなり、汚れなどを拭いたり包んで捨てたりする目的で使われることが多くなっている。

 箱入りティシュもポケットティシュも日本が発祥である。箱入りティシュは1964年に、ポケットティシュはその翌年には発明されている。

 なお、2枚重ねなのは、どちらも表になるようにして肌触りを良くしているのと、1枚だと裁断しづらくて大量生産ができないらしい。これも日本人の「ものづくり」に対する細やかな気遣いの表れなのであろう。


「北前船展示会」in渡島総合振興局

2019年12月18日 | イベント鑑賞・参加

 12/13~12/23まで、北海道渡島総合振興局1階ロビーおいて、「北前船資料展示会」が開催されているというので、ウォーキングがてら行ってみた。

 北前船の模型や函館の繁栄に大きく貢献した高田屋嘉兵衛の功績を紹介したパネルなどの資料が展示されていた。

 展示資料は、市内の小学校3.4年生に配布されている副読本『高田屋嘉兵衛さんとわたしたちの函館』の全ページを拡大コピーしているものだった。

 現職のころこの編集に携わったこともあり、特に目新しいものはなかった。ただ、小学生用に記述してあるので、一般市民にとっては非常にやさしく読めて、理解しやすい内容だと思う。

 「北前船」は、江戸中期から明治30年代まで、蝦夷(北海道)と大坂の間を、日本海沿岸の諸港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した廻船である。

 上方や瀬戸内では「北前」とは「日本海側」を意味し、北の日本海から来る船を「北前の船」と呼んだことに由来する。日本海沿岸では北前船とは呼ばず「千石船」「弁才船(べざいせん)」と呼ばれた。

 北前航路は「物資と文化を運んだ海の大動脈」と言われ、北前船はいわば“海を往く総合商社”であった。

 本州からは、米や塩、砂糖、酒、酢、鉄、綿、薬、反物や衣類などあらゆる生活物資を積み込み、売買しながら日本海を蝦夷地に向けて北上した。これを「下り荷」という。逆に、蝦夷地から上方へと向かう荷を「上り荷」といい、主に昆布や鰊、鰊粕、干鰯、鮭、鱈などの海産物を運んだ。一回の航海の利益は現在の額で約1億円にもなった。

 しかし、北前船は船主に巨富をもたらしただけではない。鰊粕や干鰯などの魚肥は、上方の綿花栽培を支え、麻に替えて肌触りのよい木綿の衣類を普及させたほか、各地の生活文化にさまざまなな影響を及ぼした。例えば、北前船が蝦夷から運んだ「昆布」は日本の食文化を一変させた。とりわけ北前船の故郷、北陸地方では昆布は郷土の食文化と深く関わっている。

 この函館の基礎を築いたといわれている高田屋嘉兵衛もその船主の一人である。嘉兵衛は得た富を函館のために還元したことは有名である。展示パネルにもそのことが詳しく述べられている。

 この展示では触れられていないが、忘れてならないのは北前船の巨富の犠牲になったアイヌの人々の存在である。

 江戸時代となり江戸幕府が対アイヌ交易権を北海道の松前藩に独占させた頃から、アイヌの人々にとってきわめて不利な条件で鮭や鰊などの交換レートが決められるようになり、アイヌの人々の不満が高まる。
 そのような中で起こったのがシャクシャインの戦い(1669年)である。しかしアイヌはこの戦いに敗れ、その後クナシリ・メナシの戦い(1789年)でも敗北し、和人に隷属する地位にまで追いやられていく。
 アイヌの人々は松前藩が制定した場所請負制度により縛りつけられ、それぞれの地を担当している商人が雇った。
 番人によって、労働を強制されるようになる。その結果、男の人は遠い場所へ出稼ぎに行かされ、妻と離れ離れになり、離島で5年も10年も酷使させられたそうだ。一家の働き手である男は問答無用で労働に駆り出され、食べる物も満足にない、というのがアイヌの家族の一般的な姿となってしまった。

 実際、1822(文化5)年に2万4000人あったアイヌの人口は、32年後の1852(安政5)年には1万8000人にまで激減している。
 このように実は華やかだった北前船の交易の陰には、アイヌの人々の大変厳しい歴史があったことも忘れてはならない。

 『千石船で一航海するだけで、千両の儲けがあった』という北前船の商売は、アイヌの人々からするときわめて不公平な交易であったということである。 

 松浦武四郎がその実態を幕府に上申したことや、明治政府の開拓使の役人になってもアイヌの待遇改善を申し知れたが、聞き入れられなくて役人を辞めて故郷へ戻ったのは有名な話である。


北海道ではなじみの薄い「里芋(サトイモ)」だが・・・

2019年12月17日 | 食べ物

 埼玉に住む弟から、家庭菜園で作ったというサトイモが送られてきた。

 食べることは結構あるが、北海道で作っているところは目にしたことはない。

 子供のころから、「芋の子」とも呼んでいたが、どうやら同じもののようだ。

 北海道ではイモといえば、一般的にはジャガイモを指すが、本州では、昔からイモといえばこのサトイモを指すとか・・・?

 良く耳にする「芋煮会」のイモはこのサトイモだし、俳句でイモと言えばサトイモを指すなど、歴史の古い作物のようだ。

  本州の畑でよく目にするこの葉が、サトイモの葉だということを知ったのは最近である。

 いつも目にするたびに、これは何だろうと思っていたし、ハスの仲間だとさえ思っていた。

 

 ちょっと興味が湧いていろいろ調べてみた。

 サトイモの原産は熱帯で、日本への伝播はイネよりも早い縄文時代後期と考えられているらしい。

 サツマイモやジャガイモが栽培されるようになる江戸時代までは、イモといえばこのサトイモのことだった。

 名前だが、山で自生するヤマイモに対して、里で栽培されるからサトイモと呼ばれたらしい。なお、世界中で200種類もあるらしい。

 また、サトイモは、子イモ、孫イモ、さらには曾孫イモと、親イモからたくさんのイモができることから子孫繁栄の象徴とされている。

 このことから、おせち料理やお祝いの料理として用いられているようだ。

 高温多湿を好み、夏の暑さでもグングン生長していき、栽培期間は長いが、手間はあまりかからず、放任栽培にも向いているらしい。

 北海道では栽培している農家はほとんどないが、植えると獲れるらしい。

 また、「芋の子」というのは、親芋から子芋、孫芋などたくさん育つことが語源ようだ。

 また、よく耳にしていた「ズイキ」とは、この葉茎のことで、良く食べていた「イモガラ」というのはそれを干したものだということも、この年になった初めて知った次第である。

 早速夕食に上った、圧力鍋で煮込んだ「サトイモと手羽先のほろほろ煮」。イモも肉も柔らかくてとても美味しかった。