午後から、函館中央図書館で開催された「五稜郭タワー 第43回函館文化発見企画講演会」に参加。
北海道新幹線開業に伴う青函圏交流イベントの一環の企画らしい。演題は「青森から見た箱館戦争」。
講師は、青森市民図書館歴史史料室 工藤大輔氏(北海道遠軽町出身)
講演内容は、箱館戦争勃発から終焉までの1年間の当時の青森町の様子がおもな内容だった。
典拠となった史料は、当時の青森町屈指の豪商・滝野伊東家の滝野彦太郎の書いた「滝野日記」。滝野伊東家は、弘前藩など諸藩の御用達を勤め、箱館奉行とも取引があった。
当時は、弘前が弘前藩のお膝元で、青森は人口1万人ほどの小さな湊町だった。
○開戦~新政府関係者の青森への避難
明治元年10月25日に、突如蒸気船が入津し、旧幕府軍の五稜郭占拠前に、箱館惣督清水谷公考一行と新政府軍兵士が約1100人が避難してきて大騒動になったことが、箱館戦争との関わりの始まり。
さらに、援軍が次々とやってきて、12月の時点で、人口とほぼ同じ約9500人の新政府軍が青森町に駐留し冬を越した。再び函館へ派兵することになった翌年4月には12000人に膨れ上がった。宿舎は民家や寺院が割り当てられた。
○蒸気船や外国人の増加
・函館から戦火を恐れて青森へやってくる蒸気船や外国人が増え、外国文化との触れあう機会が増えた。
○その間の市民生活への影響
・駐留する新政府軍兵士の世話や物資の調達に困窮。
・経済活動~スパイ対策、物資の移出制限
・ライフサイクル~年末・年始の行事禁止・競馬(くらべうま)の中止。
○再び箱館への派兵後の影響
・駐留する新政府軍はいなくなったが、箱館で怪我をした兵士が移送されてくる。塩町の遊郭に収容。その対応に追われる。
・終戦~戦後処理の一環として、降伏人の収容と調達金の賦課が重荷に。
・戦争が終わり、清水公考が箱館へ戻って行ったのが、明治2年10月25日。期せずして、清水公考が避難してきた日と全く同じ日で、ちょうど丸1年、青森は箱館戦争に振り回された感じである。
○箱館戦争と青森
・箱館戦争の兵站基地としての役割が強かった。
・マイナス要素~過重な負担が強いられた。
・プラス要素~政治的な地位が向上・北海道への渡航地としての重要な港。
明治4年の「県都青森」誕生の背景に?
丸1年間、青森にとっては、箱館戦争に振り回され、過重な負担を強いられて、非常に気の毒な感じが強かった。いつの時代も戦争は、市民にとって負担や犠牲を強いるだけで、良いことは何もない。