癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

アスリートたちの忘年会

2019年11月30日 | オフミ・飲み会


 毎年11月末の土曜日は、「函館トライアスロンクラブ」の忘年会が開催される。
 自分はトライアスロンはやらないが、以前会長を仰せつかっていたクロスカントリースキークラブ「函館クロカンキッズ」の会員がほとんどダブっていたので、合同忘年会として開催されていた。

 数年前に「クロカンキッズ」の会員の減少もあり、解散して、「トライアスロンクラブ」に統合している。
そんなことで、今は自分も「トライアスロンクラブ」の会員となっている。
 そんなことで、自分のクロスカントリースキー大会やマラソン大会の所属は「函トラXC」として登録している。

 このクラブの特色は、トライアスロンの海外大会のほかに、マラソンやトレイルランでも全国レベルの大会で活躍するメンバーが多いことである。
 しかも、凄いのは、毎年年齢がアップしているはずなのに、個々のレベルもアップし、進化し続けていることである。
 それだけ、日常のトレーニングや練習が凄いということである。

 それらの活躍の様子は、「Athlete ML」と年数回発行される「会報」で紹介される。
 そこから、自分もアスリート気分だけは刺激を受けている。
 自分の登山もクロカンスキーも歩き旅も、今年で卒業したマラソンもこのメンバーからの刺激がベースとなっている。


 今回の会場は中央病院近くの「味処 北の幸」で、21名の会員が参加した。


まずは、高谷会長の傘寿のお祝い


 皆さんから贈られたマフラーを首に巻いて・・・。






 最後は、ご夫妻で海外のトライアスロン大会に出場しているFuさんとマッキーさんの乾杯で〆。
  

かっぱえびせんジャンボ

2019年11月30日 | 食べ物

 1964年誕生のカルビーの「やめられない、とまらない かっぱえびせん♪」・・・最近はいろいろなバージョンの商品が発売されている。

 昨日妻が買ってきた「かっぱえびせんジャンボ」には、ちょっとびっくり。
 約3倍の大きさというが、もっと大きい感じがする。

 食べてみたが、さくさくの食感や風味はそのままだが、気のせいかなんとなく大味な感じがしないでもない。
 1本まま口へ入れたときの頬張り感と咬み応え感はあるが、やはり通常サイズの方が「やめられない とまらない」感は上のような気がする。

 それにしても、55年間も愛され続けながらも進化し続けている「かっぱえびせん」は凄い。

恵山「水無沢右岸北東尾根ルート」・撤退

2019年11月29日 | 登山・旅行

 ホテル恵風の駐車場下から水無沢と登る予定だった右岸北東尾根を見上げる。しかし、下の方で断念・撤退。


      GPSトラックログ
 
 この水無沢から右岸の北東尾根に取り付いて頂上まで登っている古い記録を見つけたので、SHOさんと2人でそれを参考にトライしてみた。
 ホテル恵風駐車場の横から、砂防ダムの工事用の道路を車で一番上まで上がって、沢の中へ入ってみた。
 下りは、9月に登った磯谷古道の峠からの東尾根ルートを下りてきて、車を回収するつもりだった。

 参考にした記録では、我々が沢の中で戻った地点の左側の火山灰の崖に明瞭な鹿道があり、それを利用して尾根に取り付いていた。
 しかし、その崖も荒れていて、当てにした鹿道は痕跡すらなかった。
 その上も偵察してみたが、沢中からの尾根への取り付きは無理と判断。砂防ダムまで戻って、そこから直接右岸尾根に取り付いた。
 しかし、その尾根は途中で切れていて、火山灰のナイフリッジ状の痩せ尾根となっていた。
 SHOさんはともかく、自分はそこの突破は無理と判断し、結局そこで断念し、撤退した。


 工事用の道路の終点から入った一番上の砂防ダム。ここは左前から巻いた。


 砂防ダムを越えたら、目に飛び込んできた断崖・・・水があれば立派な滝だが、左側を登ることができた。


 その上のゴルジュ状のところを通過。荒々しくも迫力ある眺めに感動。


 参考にした記録は、この先の左側の崖に斜めに横切る明瞭な鹿道があって、そこから右岸尾根に取り付いている。
 しかし、その崖は荒れていて、鹿道の痕跡すらなかった。


 SHOさんが空身で偵察に行くも、無理とのこと。下の砂防ダムまで戻って直接右岸尾根に取り付くことにした。


 水無沢に水流があった証拠の小さな氷瀑


 砂防ダムから右岸尾根を登る。


 しかし、その先で尾根が切れていて、火山灰剥き出しのナイフリッジ状の痩せ尾根になっていた。
 上の方はともかく眼下の尖った痩せ尾根(木の幹と重なって良く見えないが)は、自分は通過不可能である。ここで断念・撤退。

 ここが突破できれば、上の尾根は急だが、木が生えているのでそれらに掴まりながらなんとか登れるはずだ。
 この尾根にこだわるとすれば、もっと下の方から左の谷の右岸を登ってくれば、登ることは可能だと思われる。

 しかし、今日は、予想以上の荒々しい姿で突き上げる迫力満点の水無沢をまじかに眺めただけで満足だった。
 無理せず、ここで撤退することにして温泉にも入らずに帰路に就いた。

 なお、津軽海峡の太平洋と日本海の境界は、恵山岬と下北半島の尻屋崎を結んだラインである。
 そういうことからすれば、この北東尾根は、亀田半島の分水嶺となっている尾根である。

今や注目の懐かしい函館市大船町

2019年11月28日 | 日常生活・つぶやき




 函館市大船町・・・自分が2回7年間住んだ当時は南茅部町字大船だった。
 今や、世界文化遺産候補の構成要素でもある「大船遺跡」で有名なところである。
 自分が住んでいた当時は姿すらなかった遺跡である。子供たちが土器の欠片を拾ってくるということはあったが・・・。

 ここは、墓地を広げようとした1996年にたまたま確認された、縄文時代中期の大規模な集落跡である。
 自分が大船を出て3年後のことである。それ以来何度か足を運んでいるが、当時ここにこんな遺跡が眠っていたということは考える由もなかった。

 国指定の史跡で、大型竪穴住居を含む100軒近くの住居跡を確認。長期間にわたる集落跡で遺構が密集していること。
 住居の規模が大変大きなことが特徴で、深さ2m、直径10mを超えるものもある。地中には、さらに多くの住居跡があると推測されている。

 しかし、先日、地元の方と話したが、「周りが騒いでいるだけで、地元へのメリットは何も感じられず、関心はまったく高まっていない」とのこと。

 大船のもう一つの魅力は、「大船温泉」である。





 毎年今頃、お歳暮用の真昆布を分けてもらいに大船へ出かける。
 先日もその帰りに大船温泉のホテルひろめ荘に入ってきた。
 ここは、1995年に開業し、渡島半島唯一の硫黄泉を楽しめる温泉でもあり、2種類の源泉掛け流し温泉に入浴できる。
 2回目に住んだ翌年(1990年)に開業した南かやべ保養センター(日帰り入浴施設)も、現在はホテルひろめ荘と同一営業である。
 これらの施設は、昨年函館市が民営化の方針で売却先を募集していたが、黒字経営を続けている現在の指定管理会社が買い取ったらしい。

 <大船時代の思い出>
 昭和58年(1983年)、新卒以来17年間函館市内ばかりの勤務で、「一度郡部経験をしてきなさい」と言われた。
 そのときに、自分は農村(旧大野町)育ちだったので、まだ経験のない漁村を希望した。
 それが、この大船とのお付き合いの始まりだった。当時はどこにある地区かさえ知らずに地図で確かめたほどである。

 自分が子供時代田舎で育ったことこともあり、当時小学生と幼稚園児だった2人の子供も田舎で育てたいと思った。
 前浜を生活の生業とした漁村だが、裏山は自然がいっぱいで、非常に新鮮で楽しい3年間だった。
 地区の漁師中心の野球チームに入れてもらい、漁村特有の気質にも触れ、楽しい日々が続いた。

 3年後には函館市内へ戻ったが、さらに3年後に管理職として再び同じ職場に戻り、家族ともどもさらに4年間住み続けた。
 2度に渡るその7年間は、魚はもらいすぎて困ることは多々あったが、買うことは一度もなかった。
 家族も基幹産業である養殖昆布関連のアルバイトという貴重な経験もした。

 最初の時は、大船川の上流にあったのが、上の湯と下の湯である。しかし、上の湯は営業していなかった。
 そのときにもっぱらお世話になったのは「下の湯」である。
 

 
 大船温泉の始まりは、1839年頃にこの下の湯に温泉小屋が建てられたことによる。
 昔は、函館の赤川地区から山越えをしてやってくる湯治客で賑わったそうだ。
 浴室の向かいに建つ母屋は、昔からの湯治宿で築150年ほどだという。現在で4代目とか・・・。

 自分が住んでいたころも今も地元の人たちの専用といった感じの温泉である。
 しかし、鄙びた秘湯の雰囲気が好きで、こちらにやってくる秘湯愛好者も多い。
 皮膚病には良く効くようで、治療のために全国の温泉をあちこち回ったが、ここで治ったという人に出会ったことがある。

 最初のときは100円だったが、2回目のときは200円に値上がりしていた。今も200円のようだ。
 熱い源泉がかけ流しで引き込まれ、熱いときはホースで引かれている川の水で温度を下げるという方式である。
 カラン等もないので、体を洗うときは浴槽から直接お湯を汲んで洗うことになる。
 今は立ち入り禁止になっているが、この源泉地帯で子供たちと遊んだことも懐かしい。

今月末で廃業となる「富岡温泉センター」

2019年11月27日 | 日常生活・つぶやき


   

 我が家から徒歩5分ほどのところにある温泉銭湯「富岡温泉センター」が、11月30日で営業を終了し廃業するという。
 最近はご無沙汰だったが、これまでに一番多く入った温泉かも知れないだけに、そう聞くと寂しさが募る。
 本日、見納めと入り納めを兼ねて、6時から営業している朝風呂に入ってきた。
 以前は、朝風呂の常連がいて賑わっていたものだが、今日は自分を入れてわずか4名だった。
 
 この温泉は、昭和40年(1965年)に「富岡浴場センター」の名で開業。そのときから数えると55年になる。
 昭和60年(1985年)には地下1200メートルから65度の温泉を掘り当てて「富岡温泉センター」になった。
 当時、湯の川には温泉銭湯は何軒もあったが、富岡のような住宅街にはまだないころだ。
 最近では市内あちこちに開業されているが、住宅街での温泉銭湯の先駆けだった。

 ※以下の懐かしい画像は、撮影禁止だったので、他サイトから借用したもの


 開業当時からもったいないほどドバドバの「65度の源泉掛け流し」である。1個50円のゆで卵も懐かしい。
 
 開設当初から20年ほどはもの凄い人気で、建て増しもし、近所一帯の空き地が全てこの駐車場となったくらいである。
 その当時を知っているだけに、最近は過去の賑わいがなくなっていたのは寂しい限りだった。
 露天風呂を備えた近代的な施設の温泉銭湯があちこちに開業した影響が大きい。
 かくいう自分も、最近は少し離れている昭和温泉へ行くことが多い。





 客が減り始めてからは設備投資はほとんどしないで来たせいか、逆に昭和チックな雰囲気が残っていて、これも魅力だった。



 当時から源泉を薄めないことにこだわって、65度の源泉を循環させて、46度くらいにしてから浴槽へ注いでいたようだ。
 開業当時から、浴槽は4個で、一番右奥が小さなサウナ用の水風呂で、次の一番深い浴槽から「高温」「中温」「低温」と浴槽が並んでいる。
 46度くらいの源泉は高温浴槽に注がれ、そこから段々になった中温浴槽>低温浴槽へ流れていくうちに、湯温が下がる仕組み。
 また、湯温を下げるためにも浴槽の深さもだんだん浅くなっていた。 
 自分が入るのは、もっぱらその42度くらいの低温浴槽だった。当然、この浴槽が一番混んでいた。

 最盛期のころは、隣の同じ方式の女風呂を繋いで男風呂として使用していたこともある。
 その時の女風呂は建て増しした方に移ったらしい。

 温泉の質の良さは折り紙付きだったが、湯温が高いこともあり、ゆったりと入浴を楽しむのにはちょっと不向きな温泉だった。
 それでも、前妻が亡くなって一人暮らしをしていた3年間は、自宅の風呂は使用せずに、回数券を買ってこの温泉に通っていた。
 なんと言っても、湯船に入ったときの体に染み入る感覚が筆舌に尽くしがたいほど好きだった。
 疲れも抜けていくような気がするし、最高に温まるのも魅力だった。
 ずっと6時から年中無休で営業しているので、早朝ジョギングをしていたころは、この駐車場に車を置いて、そこからスタートして、ここに戻ってきて、汗を流し体を温める・・・寒い時期などは一日中体がポカポカしていたものだ。

 帰りに、番台にいた社長と、最盛期のころの駐車場の広さや女風呂も男風呂として通して使ったことなど懐かしい話をして来た。
 源泉はすでに昔駐車場だったところに建っている老人福祉施設で利用しているので、改めた利用は考えていないとのこと。

初冬の五稜郭公園

2019年11月26日 | 道南の風物詩

  薄氷の張る堀と、この時期にしては珍しく、雪のない横津連峰 

 例年のブログを見ると、今ごろの五稜郭公園は雪景色のものが多い。しかし、今年は、いつもは真っ白なはずの横津連峰さえ雪が見えない。
 そんな中、午前中の好天の下、ひと月以上ぶりに五稜郭公園へウォーキングに出掛けた。

 
 公園の外堀の遊歩道へ入って一番先に目に飛び込んだ、きれいに集められた桜の落ち葉の山。
 今まであまり印象にない光景だが・・・?


 少し先へ進んだら、このようにビニール袋に入れて捨てる準備をしていた。

 
 さらに、先へ進んだら、エアーで落ち葉を飛ばしながら集めていた。
 一面に散り積もった桜の落ち葉をこのようにして、集めて捨てる作業をしていることを初めて目にした。


 12/1から灯される「五稜星(ほし)の夢」のタワーツリー


 すでに、堀の水が抜かれて、石垣の縁には「五稜星の夢」のイルミネーションの取り付けられていた。


 雪吊りと石垣


雪吊りと菰巻きが施された松


 公園内の名残紅葉・・・堀周りを歩いている人は日本人、公園内を歩いている人はアジア系の観光客が多かった。


 水を抜かれた堀のスイレンの茎と葉


 崩れた石垣の修復工事・・・まだほかの箇所にも崩れているところがあるので、これからも大変だろう。

クリスマスファンタジーツリーの電飾工事

2019年11月25日 | イベント鑑賞・参加

 
 冬の函館の街中をイルミネーションで彩る今年の「はこだてクリスマスファンタジー」(11月30日~12月25日)で、16年ぶりに道産トドマツを使った巨大ツリーが登場する。
 ツリーとなるモミの木を寄贈してくれていた姉妹都市のカナダ・ハリファクス市で9月、ハリケーンによる倒木被害が発生し、木を調達できなくなったため。
 実行委は函館の市有林か周辺の道有林でツリーに適したトドマツを選定したようだ。

 その電飾15万球の取り付け作業は 寒風吹くいつもの北埠頭の一角で行われている。
 20mもの高さの幾重にも組まれた足場の中で、枝切りから始まり、色とりどりの電球の取付け工事が行われていた。
 毎年、ここで工事をして、はしけに固定して、11月30日には会場へ運ぶらしい。 
 








 昼休みの時間に行ったので、作業は行われてはいなかったが、ここでも試験点灯はするようだ。


     (他サイトから借用)

アイヌ・フェスティバル2019

2019年11月24日 | イベント鑑賞・参加

 来年の4月24日に白老町にオープンする「ウポポイ~国立アイヌ民族博物館・国立」民族共生公園」のPRを兼ねた
 「アイヌ・フェスティバル2019」が、昨日と今日の2日間、五稜郭タワーアトリュウムで開催されていた。
 今日の12:30からウポポイ開設PRアンバサダー宇梶剛士さんのトークショーがあるというので出かけてきた。


 再現されたチセの内部をバックに語る宇梶剛士さん


 2階から会場を写す。

 トークショーのあと、千歳アイム文化保存協会のみなさんによる、アイヌ古式舞踊や歌などが公開された。





 ムックリの演奏


 民族衣装の説明


 剣の舞


 食体験で振る舞われた餅粉で作られたシトという団子(昆布味とブルーベリー味)


 展示されていた工芸品


 販売コーナー

剣ヶ峰(駒ケ岳)<逆川(函中沢)ルート>

2019年11月23日 | 登山・旅行

 上が剣ヶ峯、その右側の尾根の先まで登った。

 最近は、SHOさんと2人で、駒ケ岳の新ルート開拓を兼ねて、いろいろなところから登っている。
 昨年の南西尾根(函中コース)からの剣ヶ峰に始まり、今年の北西尾根(押出沢川左岸ルート)からの剣ヶ峰、テントウ沢からの砂原岳などなど。
 今回は、昨年の南西尾根の右側にある剣ヶ峰の南側の根元まで突き上げている逆川(函中沢)を上まで詰めてみた。

 今週の初めにドカンと降った雪があった方が歩きやすかったのだが、ここ数日の暖気で溶けてしまっていて、すっかり夏山モードだった。
 しかし、タイヤ交換をまだしていなかったので心配だった。
 それでも何とか旧別荘地・若駒園の奥の南西尾根ルートの登山口まで入ることができた。
 行く途中、大沼トンネルの手前で、反対車線の車が3台衝突をしていた。よく見たらブラックアイスになっていた。
 こちらは夏タイヤのままなので、そこから慎重に走った。その先の登山口までの道路もブラックアイスのままだった。


      〈GPSトラックログ〉

 若駒園のゲートから車の入れる終点まで進み、そこから林道(砂防ダム工事道路)を終点まで歩いた。
 南西尾根コースはそこから尾根に取り付くが、今回は水流のない逆川の中を進んだ。
 
 結果的には、剣ヶ峯の南端から東側に巻いた所まで登ることができた。
 そこから剣ヶ峯へ取り付こうとルートを探したが、適当なルートが見つからなかったので、無理しないでそこから戻ることにした。

 7:55南西尾根ルート登山口~8:25林道(砂防ダム工事道路)終点~10:25剣ヶ峯南端を巻いた地点。<登り2時間30分>
 下りは、斜度の若干緩そうな円山への尾根の途中から下ったが、沢地形の中へ下りるところが崖で少し登り返した。
 途中から南西尾根へトラバースして、林道終点まで尾根の踏み跡を辿った。<下り1時間40分>


 逆川の右岸に続く林道を進む。正面にこのあと登った逆川の広い源頭部を望む。
 この時点では上まで登れるとは思っていなかった。適当な所で左の南西尾根に逃げて、戻るだけでも十分だと思っていた。
 

 林道終点の砂防ダム。この上にあと3本あったので、左端から巻いた。


 最後の砂防ダムを越えたら、深いゴルジュの中に入っていく。足元は灌木の藪や岩ですんなり歩くことはできない。
 個人的には、以前から気になっていたこのゴルジュを抜けるだけでも良いと思っていた。


 両側が垂直の高い崖になっている。


 ゴルジュの中から下界を見下ろす。


 ゴルジュの正面には剣ヶ峯が見える。


 登って行くと徐々に崖が低くなり、霧で覆われた大沼が見えた。


 やがて、沢地形は広くなり藪も薄くなる。左側に岩崖が見えてくる。この右側を登って行く。


 崖から転げ落ちたと思われる大きな岩が沢地形を塞いでいる。この上から斜度がキツくなる。


 やがて、剣ヶ峯の下から、左へのコースと右のコースがある。
 左はこの沢から南西尾根コースに合流するコースとなる。SHOさんが冬に登っていることもあり、右を登ることにした。


 剣ヶ峯の南端の際を登って行く。


 登り切ると、右手に円山と隅田盛が見えた。馬の背は円山と隅田盛の間?


 東側へ回り込むと、火口原と砂原岳が見えた。


 その地点から剣ヶ峰を見上げる。できれば、剣ヶ峰のP3とP4へのコースへ抜けて、南西尾根コースを下りたかった。
 しかし、この地点からは無理なので、そこで引き返すことにした。


 円山への尾根から登って来た逆川の地形を見下ろす。


 登ったコースを下るには斜度がきついので、円山への尾根を少し下ってから、トラバースして沢地形を下ることにした。


 広く急な沢地形を斜めに下る。


 途中から南西尾根を目指す。


 南西尾根は、昨年に比べて、テープが煩いほどたくさん付いていて、踏み跡も非常にしっかりとしていた。
 自分たちが登って、HPにアップして以来、かなり多くの人が登っているようだ。


 林道から往復したコースを振り返る。逆川の深いゴルジュの部分も穴が開いているようにはっきりと見えた。

 同じ駒ケ岳でも、いろいろなバリエーションルートを登ることにより、そのたびに眺める景色が新鮮で非常に楽しい。
 次は、まだ冬に登ったことのない南西尾根コースから、剣ヶ峰の根元まで登り、氷雪で覆われた迫力ある剣ヶ峰を下から眺めてみたい。

 ほぼ快晴の好天に恵まれて、市内の最高気温が14℃まで上がっていた。汗を搔いたので、ちゃっぷ林館に寄って帰路に就いた。
 帰宅後、ようやくタイヤ交換ができた。 

心温まる、こちらが恥じた小学生の行い

2019年11月22日 | 日常生活・つぶやき

 下校時にカラスが散らかした生ごみを拾い集める3人の小学生

 これも昨日の話である・・・我が家の隣のマンションのごみステーションのしめ方が悪く、朝から生ごみをカラスが広範囲に散らかしていたのを目にしていた。
 自分の家のごみならすぐにでも拾い集めていただろうが、それもしないでいた。
 ところが、夕方、下校する3人の子供たちが、雨上がりの中、それらを素手で拾い集めているのを妻が目にした。
 それを見た妻も火ばさみとビニール袋を持って、一緒に拾った。

 妻からそれを聞いて、出て行ったら、終わって我が家の車庫の水道で手を洗っているところだった。
 亀田小学校の6年生だという。女の子2人と男の子1人だった。名前はあえて聞かなかったが、褒めさせてもらった。

 妻と「朝から気付いていた自分たちがしなかったことを、子供たちが自ら進んでしていて、自分たちが恥ずかしいね」と話した。
 早速、学校に電話を入れて校長に報告しておいた。校長も非常にうれしそうだった。
 

米田さん(和歌山県観光連盟・プロジェクトマネージャー)を囲む会

2019年11月22日 | 日常生活・つぶやき

 米田彰夫さん(右上から2人目)は、熊野古道など世界遺産ガイドチーム責任者でもある。
 このたびは、鎌鹿さんを頼りに函館の観光に関する視察と情報収集にいらしたらしい。

 昨夜、その来函交流会が開催され、鎌鹿さんから声が掛かり、参加させていただいた。
 参加メンバーは、米田さんの他に、函館市と国交省の行政関係者4名、鎌鹿さん、中尾さん、毛利さん、自分の9名だった。


 自分は、世界遺産に指定されている和歌山県の熊野古道(中辺路・小辺路・伊勢路)や大峯奥駈道も歩いているし、高野山も何度も行っているので、気楽に承諾した。
 しかし、ほかの参加者の顔ぶれと交流会の意図を知ってちょっとビビってしまった。
 函館の縄文文化が世界遺産候補に上がっている現在、今後の函館の観光振興の在り方やガイド育成の方法を交流するような内容が主だった。
 門外漢だと思っていたが、大変勉強になった非常に楽しいひとときだった。


 いつもお世話になっている函館歴史散歩の会主宰の中尾さんを囲む毛利さんと自分。(鎌鹿さんのブログから借用)
 

街道沿いの石仏・石塔群

2019年11月21日 | 登山・旅行

 これまでに歩いてきた街道、古道、遍路道の路傍には、あまり触れてこなかったが、おびただしいほどの石仏・石塔群が目に付く。
 また、草むらに隠れた小さな石仏に出会ったりするが、なぜか数種類がまとまって設置されていることが多い。
 昔からその場所に設置されたことにはその意味合いもあるのであろうが、道路整備のために1ヶ所に集められたと思われるものもある。


 これらは、馬頭観音、庚申塔、道祖神、地蔵尊、石灯籠、常夜灯、供養塔、題目石などなど、さまざまである、
 これらは歩かないと気付かないものがほとんどである。
 設置された時代が読めるものもあるが、風化して読めないものが多い。しかし、概ね江戸時代から明治にかけてのものが多い。
 また、北海道でも多く目にする馬頭観音は昭和までのものが見られる。
 それぞれの石仏・石塔には庶民の願いがこめられていて、民間信仰と結びついたものがほとんどである。


 道祖神は峠や村境などに多く祀られている。本来、この神様は外敵や疫病から守ってくれるという民間信仰らしい。
 さらに、縁結び、安産、子孫繁栄などに結びついているという。
 その姿も中山道の群馬県・長野県では双体道祖神、甲州街道とりわけ山梨県では丸石道祖神が多くみられた。


 庚申塔は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔である。
 庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃とのこと。
 当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。
 その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加したらしい。


 馬頭観音とは、六観音の一つで、馬頭観世音とも呼ばれる。
 頭の上に馬の頭をいただいていることから、六道の一つの畜生界を済度するといわれ、馬の守護神として昔から広く信仰されている。
 馬の頭を頂いた観音様の姿を見て、馬とともに生活する当時の人々が、馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれた。
 農耕馬のほかにも馬とともに歩む道中の安全を祈ったり、死んでしまった馬の冥福を祈ったりということからか、非常に多く目にする。


 常夜灯・石灯篭は、街道沿いに見られるものは、夜道の安全のため、現在で言う街灯の役目を果たしており、街道の道標として設置されているものが多い。
 港町などには灯台の役目をした大型の常夜灯が設置されている。

自分にとっては初雪景色

2019年11月20日 | 日常生活・つぶやき
  
 こちらの留守中に初雪や初積雪があったようだ。
 しかし、今朝の5㌢ほどの積雪は、自分にとっては今冬初めて目にする雪景色である。
 気温もマイナス4℃まで下がり、今季最低を記録したようだ

 交通量の多いメイン通りは解けたが、家の前などの裏通りはまだ解けていない。明日には解けて欲しい。

 実は、まだ車のタイヤ交換はしていない。慌ててディラーに電話したら、23日(土)の15:30まで予約がいっぱいとのこと。
 23日は山の予定が入っているが、ここしばらくは雪の心配はなさそうなので、大丈夫だろう。
 その時間までには戻れそうなので、そこに予約を入れてもらった。

 暖かい関東で過ごして来たせいか、この寒さはまだ身に染みる。家でおとなしくしていた。

「奥州道中~日光街道~甲州街道・歩き旅」を振り返る

2019年11月19日 | 登山・旅行

 11/15の下諏訪宿の「甲州道中中山道合流之地」碑が今回の15日間に渡る「奥州道中~日光街道~甲州街道」歩き旅のゴールである。
 これで、これまでの中山道と東海道を含め、五街道すべてを踏破したことになる。
 今回歩いた3街道は、すべて街道は「道中」とも呼ばれている。

 今回の奥州街道は、「奥州道中」と呼ばれる幕府直轄の白河宿から日本橋までの間だが、宇都宮から日本橋間は「日光街道(道中)」と重複する。
 そのため、記録上は、白河宿から宇都宮までを「奥州道中」、東照宮から日本橋までを「日光街道」とした。
 しかし、自分としては、1日だけ日光に寄って、奥州街道を歩き通したという思いが強い。


 今回は15日間の歩きだったが、なんといっても全日天候に恵まれ、それも快晴という日が多かったことである。
 夜半から朝まで雨が降っても、スタートするときには止んでいたという日が2日あったが・・・。
 快晴の日は放射冷却で朝のみ寒い日もあったが、日が昇ると暖かくなった。

奥州道中・日光道中の印象について




 白河宿から日本橋までの奥州道中・日光道中は、27藩の大名が参勤交代で通過している。それだけに街道や宿場の面影が充実していたように思われる。
 また、あまり取り上げなかったが、芭蕉の「奥の細道」の句碑も多く見られた。
 しかし、我が函館で終焉を迎えた戊辰戦争の戦場になっているところも多かった。それだけに城も宿場も焼かれているというところも多かった。
 五稜郭までやってきた旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三や大鳥桂介らが仙台まで戦いながら進んだ街道でもあると思えば、非常に身近な感じもする。
 
 
 日光街道のシンボルともいえる杉並木は車で通ったことはあるが、ほんの一部だったということが分かった。
 国道と並行して旧道として続いているところが予想以上に飽きてくるほど長かった。
 この杉並木は、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた武州川越藩主松平正綱が寛永2年(1625年)から約20年の歳月を掛けて杉並木を植栽し、家康33回忌に東照宮に寄進したことも分かった。
 戊辰戦争で日光東照宮に立てこもった旧幕府軍だったが、新政府軍の板垣退助と旧幕府軍の大鳥桂介の話し合いで戦火を免れたことも初めて知った。

甲州街道の印象について

 甲州街道を利用した大名はわずか3藩だけという割には、国道に吸収されずに、宿場や当時の街道の面影を残すところが多かった。
 特に台ケ原宿は、「日本の道百選」にえらばれるほど、宿場の面影を色濃く残す建物が並んでいた。


 小原宿と日野宿には、江戸時代後期に建てられた本陣がそのまま残っていた。今までの街道歩きで数軒あったが、無料開放は小原宿だけだった。


 何よりうれしかったのは、小仏峠(480m)と笹子峠(1090m)を越える昔のままの自然道が残っていたことである。
 この辺りは、中山道と同じような雰囲気があった。
 今回の歩き旅で、初めての登山モードであったが、このような道は往時にタイムスリップできる楽しみがある。

なお、触れなかったが、この甲州街道には徳川家康に敗れた武田勝頼が逃げ延びた際のゆかりのある寺社や史跡が多かった。

 五街道というと、江戸時代がクローズアップされるが、これはもともとあった昔からの街道を江戸幕府が管轄し、宿場に本陣や脇本陣、問屋場や高札場等が設置されただけである。
 したがって、奥州街道には、坂上田村麿や源義経など、甲州街道にも日本武尊や親鸞などの痕跡や史跡も登場する。

歩く距離と時間
 春は5時スタートが可能だったが、今回は日が短いので、スタートは6時が精いっぱいだった。
 ブログアップの時間確保のためにも15時にはゴールできるよう計画を立てた。それでも、長いときで9時間以上、40km以上という日が2日あった。
 しかし、1日の歩く距離が短いので、足や体の疲労は少なく、毎日体力的には余裕があった。 

費用と宿の確保
 費用は、できる限り1日6,000円を心がけた。宿4,000円、食費2,000円を基本に考えた。高ければ食費を削るなどの工夫をした。
 結果、4,000円以内の宿は、カプセルホテルや24時間営業の温泉がメインだったが、民宿やビジネスホテルでもあった。
 しかし、結果的には1日平均7000円ほどだったと思われる。
 甲州道中・日光道中の宿は出発前に予約し、甲州街道は甲州道中・日光道中のゴールした東京で予約した。

カード利用の便利さ
 今回は宿の関係で電車やバスの利用が多かった。そのたびに、函館市電利用のために作ったイカスニモカカードが利用できたので、非常に便利だった。
 また、コンビニや全国チェーンの食べ物屋さんはクイックペイが使えたし、宿では数軒を除いてクレジットカードが利用でき、現金を使うこことは以前より少なくなった。

食事について
 基本的には素泊まりがほとんどだったので、朝食はコンビニのイートインコーナー、昼食は安い食堂、夕食は外食を基本的に考えたが結果的にコンビニ弁当や行動食やカップラーメンで済ませたこともある。


 しかし、旅の楽しみの一つは食事である。特にその土地ならではのグルメはぜひとも食べたかった。宇都宮の餃子と山梨県のほうとうは外せなかった。


 喜連川宿に、向かいの温泉に無料で入れて、2食付きで5500円という民宿があった。ここの料理は非常に美味しかった。
 
ブログアップについて
 宿に着いてまずは風呂に入る。その後、ブログアップ作業となる。写真の選択から始まるが、それが意外と時間がかかる。
 それをブログ用にリサイズして、ブログに取り込む。この取り込む作業が、パソコンなら一気にできるが、スマホは数枚ずつしかできないので、時間がかかる。そこまでで1時間以上は必要となる。
 そして、ようやく文章打ちとなる。それが2時間程度。大体合計3時間は必要となる。中には4時間を要した日もある。
 それが終わってから夕食を摂るようにしたので、ビールを飲める夕食は概して遅い時間となったし外出が億劫なときもあった。

うれしい出会いについて

 今回も3名の方とのうれしい再会があり、差し入れをいただいた。
 宇都宮では、毎度のように遠くまで出掛けて差し入れしてくださるKa女史には、今回は料亭で「湯葉と豆腐のコース料理」をごちそうになった。
 もっとも驚いたのは、日光街道野木町では、前もっての連絡もなかった方が待っていてくださった。昨年の大千軒岳でたまたま同行したYaさんだった。
 ブログを見て、今日はここを通るはずと待っていて下さったそうだ。そこに住んでいることさえ知らなかったのでびっくりだった。
 甲州街道の府中では、多摩市に住んでいるてくてく人さんが、宿まで会いに来てくれた。最初の出会いは中山道で同宿になった方である。
 春の奥州街道の時もわざわざこちらに会うために、白河から奥州街道北上の旅を始めて、途中で再会している。

 これらの出会いは、毎日ブログをアップして歩いているからにほかならない。感謝・感激の何物でもない。

今後の歩き旅について
 旧街道歩きはこれで「五街道」と「伊勢街道」を踏破した。このほかに「熊野古道」の中辺路・小辺路、伊勢路を歩いている。さらに「四国遍路」も2回歩いている。
 旧街道はまだまだたくさんある。主だったところでイザベラバードが北海道まで歩いた「羽州街道」や大阪・京都から続く「山陽道」もある。
 しかし、街道歩きはひとまずここで休止符を打つつもりだ。来年と再来年は、東日本大震災復興の一環として開設された約1000kmの「みちのく潮風トレイル」を歩いてみたいと思っているが・・・?

 

無事帰宅

2019年11月18日 | 登山・旅行

 3連泊した八王子温泉やすらぎの湯は、八王子駅から3分の好立地にあって非常に都合が良い。
 様々な温泉に入り放題で、レストルームも仮眠室もあり、レストランもある。ただ、一度入館すると途中で外出ができない。
 レストランの料理は比較的安いが、ビールが高い。安い缶ビールで十分なのたが…。
 生も瓶も600円。意地汚くいつも量の多い瓶ビールを飲んでいた。
 

 レストルーム。リクライニングシートにもなり、テレビも見られる。ここで寝る人も多い。
 自分は、ブログを打つときや休むときはこちらを利用。


 自分が寝るのは、いつもこちらの仮眠室。
 防犯上真っ暗にはならないのと、いびきをかく人がいるので、アイマスクと耳栓を100円ショップで購入しておいた。 
 今朝も10時間近く寝て、9時にチェックアウト。

 近くのすき家で朝定食を食べて駅へ。
 JRに乗り、仲木戸で京浜急行に乗り換えて、羽田空港へ。
 

 余裕を持って行動したので、空港でのんびりした。

 満席の12:45発の飛行機に乗り、無事帰宅。しかし、旅中はほとんど雨に当たらなかったのに、こちらへ着いたら雨だった。


 それにしても寒い。今年初のストーブの暖かさが懐かしかった。


 甲州街道へ入ってからの7日間と一昨日の陣馬山~高尾山縦走の歩数計。