癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

五稜郭雪景色

2018年11月30日 | 日常生活・つぶやき

平地は白いが、横津連峰は雪がほとんどない不思議な光景

 奥州街道歩き旅で、岩手県に入った日の朝に初雪に見舞われ、雪景色の中を歩いたが、函館での雪景色を見たのは、今日が初めてだった。
 ウォーキングがてら、五稜郭公園の雪景色をカメラに収めて来た。
 向こうでも今日と同じ-3℃を経験したが、北西の風が強い分、こちらの方が非常に寒かった。


すっかり葉を落としたサクラの木々


松並木の緑と雪の白のコントラストがくっきり


堀の中のスイレンの葉と茎


水を抜き、水位の下がった堀を泳ぐマガモとシロサギ


水位の低い北側の堀には氷が張っていた


いつも春になると花を付けて安心させる老木のサクラ


雪吊り風景

孫の七五三 & まるごといか焼きせんべい

2018年11月29日 | 日常生活・つぶやき



 娘のところの孫の七五三の写真が、本人が書いた絵手紙と一緒に送られてきた。
 3歳の時にも送られてきたが、今回は5歳のお祝いもやったらしい。旦那のご両親は、3年前に相次いで亡くなっているので、普通は2人ずついる祖父と祖母は、この孫には自分ひとりしかいない。ある意味かわいそうな孫である。

 覚えたての字で文を書いているが、この時期良くある逆さ文字や右から書いているところもあって可愛い。

◎函館駅名物まるごといか焼せんべい

 函館駅のお土産コーナーで、孫にお祝いのお菓子を送ろうと思って行ったら、その一角で、いかをそのままプレスして焼く「まるごといか焼せんべい」を作って売っていたので、1枚注文して、その作り方をカメラに収めて来た。


メニュー・・・カニやホタテやエビもあるらしい。


小さないかの開いたものに練った小麦粉?をまぶす


それをプレスして焼く


予想を超える大きさに引き伸ばされて薄いせんべいになった。家へ持ち帰って食べたが、
周りの白いところはせんべいっぽいが、中央部の以下の部分は珍味のような感じだった。
いかの味が濃くて美味しかった。焼きたてなら中央部もパリパリしているのだろうか?
それにしても、いろいろなアイディアがあるもんだ。

ラッピのカツ丼20%OFF & ライフコーチ交流会

2018年11月28日 | 食べ物

函館B級グルメの王者・ラッキーピエロでは、毎月「大好き祭」と評して、期間限定でいろいろなメニューの割引キャンペーンをしている。そのチラシが毎月新聞に挟まって来る。

 昨日と今日は、「カツ丼大好き祭20%OFF」で、安くてボリュームがあって美味しい490円のカツ丼が392円だった。ランチとしてはこれを逃す手はない。

 このような日に店で食べようとしたら、混んで大変である。そこで、電話で申し込んでテイクアウトにしてもらった方が、待たなくて良い。我が家から一番近い車で5分も掛らない昭和店である。


安くてボリュームがあって美味しいカツ丼

 11:45にお願いして、5分ほど早めに行ったら、できたてで、家へ持ち帰っても熱かった。
 妻はちゃっかり半額の黒ごまシェイク(115円)も注文していた。

◎ライフスポーツコーチ交流会

 スキーシーズンを前に、スキーを中心としたシニアスポーツクラブ「函館ライフスポーツ」のコーチスタッフと事務局スタッフの交流会が行われた。


会場となった函館生まれの函館育ちの「魚まさ」




おしながき


鍋料理以外の料理。


個々に、今シーズンに掛ける思いを語る


もうこんな季節

奥州街道(松前道)歩き旅を振り返る

2018年11月27日 | 登山・旅行

 登りたい山もだんだん少なくなり、宿泊代が掛るのが難点だが、今後の旧街道歩き旅のことをいろいろ考えていた中で、松前藩の参勤交代はどの街道を利用したのだろうと興味を抱いた。

 最初の2回は羽州街道を利用したが、その後は奥州街道を利用していたことが分かった。江戸幕府が直轄した五街道の奥州街道は、奥州道中と呼ばれる日本橋~白河(福島県)の間だが、そこから三厩までも続いていることも分かった。

 それを調べていたら、どうしても松前藩の参勤交代の足跡を辿ってみたくなった。季節的には少し遅い感じだったが、盛岡までの「松前道」と呼ばれている部分だけでも歩こうと考えた。


 しかし、白河以北は、これまで歩いてきた旧街道(四国遍路・中山道・東海道・熊野古道)のようなガイドブックは市販されていない。唯一『奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド』があるらしいが、今は絶版になっていて、中古品を探しても5000円以上もする。

◎100%頼りにしたサイト
 いろいろネット上で探したら、三厩まで歩いている記録は思っている以上に多かった。その方々の記録を見ると、その『奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド』を参考に歩いている人が多い。中には、そのルート地図をアップしている人もいる。しかし、いずれも、日本橋から三厩まで北上するものばかりで、自分と同じ三厩から南下する記録は見られなかった。

 ただし、泊った宿の人の話では、最近この奥州街道を三厩まで歩く人が確実に増えているとのことだった。今回は、時期的なころもあり、誰にも会うことはなかったが・・・。

 その中でいろいろ比べでみたら、「揺次郎のウォーキングライフ」「松前道ウォーキング」は、ガイドブックも持参し、それをもとに歩いかれているので、とても詳しいし、宿場間ごとのルートをgooglemap上に記載してくれているので、それを利用することにした。

 ただし、こちらは南下するので、今春の四国遍路と同じ逆打ち状態である。道路の分岐等や見所の場所や順番などはそれを反対に読み変えなくてはならないのが難点だった。しかし、100%それに頼った。

◎現在地とルート確認に役だったRuntasticのアプリ
 これまで自分の現在地やトラックログを知るために、登山用のGPSを利用することが多かったが、参考にした揺次郎さんのルートマップがgooglemap上に記載されているので、自分のスマホに入れてあったランニング用のアプリ「Runtastic」を利用した。これも同じgooglemapだったし、歩いた距離や時間が表示されるからである。

 どちらも同じ地図なので、非常に照合しやすかった。登山用のGPSは店や建物や信号などは記載されていない。特に街中を歩くときは、建物や店の名前、信号の場所も提示されるので、非常に助かった。

◎服装・装備等について
○服装


 寒い時期なので、冬用のコンプレッションシャツ2枚、その上に着る半袖Tシャツ2枚、スポーツタイツ2本、ハーフパンツ2本、厚手の登山ズボン1本、インナーダウン1着、薄手のウインドーブレーカー1枚、パンツ5枚、五本指のランニングソックス2本、その上に履く普通の靴下2枚、レインウェア上下、手袋2枚など

 結果的に、思ったより寒く、汗はほとんど掻くことがなかったので、パンツ以外は2~3日同じものを着続けた。初めの数日は、インナーダウンは朝のうちだけだったが、その後は1日中離せなかった。毎日のように雨が降る天候だったので、レインウェア上下は、寒さ対策も兼ねて、朝は必ず着てスタートした。暑くなると脱いだりしたが、下は、スポーツタイツとズボンかレインウェアの下との重ね履きが多かった。

○その他の装備
 カメラ、スマホ、ガラケー、GPS等の充電器具、普段登山のときにリュックに入れている体のメンテナンス用のものなど。

◎宿の確保

 最初の3日間は予約しておいたが、その後は、いつも通り臨機応変に対応したいので、前夜か当日の午前中に、その日歩けそうな距離を計算して、宿をスマホで探して予約をした。都合良く宿がない場合は、駅付近をその日のゴールとして、電車で行ったり来たりということも多かった。朝早くスタートすることもあり、素泊まりが安上がりである。しかし、近所に食べる場所やコンビニがない場合は2食付きをお願いした。

◎1日の行動時間と歩いた距離
 この時期は日が短く、夜が明けるのは6時半以降で16時を過ぎると暗くなる。宿に着いてからのブログアップに必要な3時間も確保するためには、せいぜい歩ける時間は8~9時間だった。日が長いときには、5時にはスタートできるので、10時間以上40kmも歩けるが、せいぜい30km平均が良いところだった。
 当初は8日間で歩く計画を立てたが、結果的には途中で調整しながら、30km平均の10日間を要した。他の方々の記録を見ても10日間が多かった。30kmくらいが一番疲れを残さない楽な距離だった。

 22の宿場を繋ぐ三厩~盛岡間の距離は、ガイドブック上では約280kmだった。しかし、間違えて遠回りや引き返しやあちこち寄り道も含めて、Rauntastic上の実際の距離の合計はジャスト300kmだった。

◎実際に歩いてみた奥州街道(松前道)


 この区間を参勤交代で歩いた大名は松前藩と八戸藩くらいのもので、東海道や中山道に比べて。物足りなさは否めなかった。特に宿場の面影はほとんどなかったし、本陣跡も松前藩が利用した三厩でしか目にできなかった。

 一番多く目に付いたのは、明治天皇の明治9年と14年の2回の東北巡幸に伴う史跡や石碑だった。それと東海道や中山道より多く残っていた一里塚である。ほかには、いろいろな歴史的な文化財や史跡を中心に観て歩いた。



 ただ、野辺地以南は山越えの部分が多く、自然道も多く、当時のままの街道の雰囲気を味わうことができた。後半は、「歴史の道」とか「新奥の細道」の指定に合わせた標識や案内板が多く設置されていて助かった。しかし、国道や県道には案内標識が少なく、街道との分岐には神経を使った。



 季節的には、樹木のほとんどは葉を落とし、道端の花も少なく、殺風景な感じの歩き旅だったのが残念だった。特に最後の3日間の内2日は、うっすらとした雪景色の中の歩きとなったのは想定外だった。




 今回歩いたのは青森県と岩手県だった。昔の津軽藩(弘前藩)と南部藩(盛岡藩)の領地だったところある。特に今の青森県の下北半島から中央部東側一帯は、南部藩の領地だった期間が長い。同じ青森県でも、津軽と南部の文化や方言の違いがある。また昔からよく「同じ青森県でも、津軽と南部は仲が悪い」と言われるわけが、その歴史的経過からも垣間見ることができた。
 ※詳しく、分かりやすく知りたい方は、ここをクリック!

◎ブログアップについて 
 今回も、「歩いては書く」を踏襲し、スマホから旅日記を毎日アップしながら歩いた。やはり3時間は必要だった。遅く宿に入った時などは、最後は疲れて目がしょぼしょぼしてくる。見直すのが面倒で、妻にラインでアップ報告をし、校正をお願いした。

 これまでの歩き旅は、ガイドブックがあったので、宿へ入ってからもそれを見ながら、撮った写真と照合しながら書くことができた。
 今回は、前述した「揺次郎のウォーキングライフ」の記述を参考に書いた。特に、これまでの旅は、史跡や文化財の説明部分はガイドブックやカメラで写したものをもとに記述することが多かった。しかし、今回は、揺次郎さんが詳しく書いてあるので、それをコピペさせてもらったものが多く、非常に助かった。



◎今後の奥州街道歩きの予定。
 この後のことだが、何度かに分けても、日本橋まで歩き通したい。分けるとすれば、盛岡~仙台(盛岡道or南部道)、仙台~白河(仙台道)、残りの白河~日本橋(奥州道中)である。 

 妻が、「5月の10連休に一緒歩きたい」と話している。この時期は宿の確保が難題だが、早めに細かな計画を立てて、早めに宿を確保するという手もある・・・?

◎その他 
 今日中に、ホームページからも見られるように、毎日の最下段に前日と翌日のページへリンクを張ること、文章の中に宿場間の小見出しを入れた。

無事帰宅

2018年11月26日 | 登山・旅行
 10時間も爆睡し、8時に起きた。駅でお土産を買い、ドトールでカフェラテとチーズトーストの朝食。

    
  10:05発青森行きの高速
バス(3300円)に乗る。うれしいことに、このバスだけ青森フェリーターミナルまで行く。

 青森から8日間掛けて歩いたのに、3時間で着いてしまうのが、少々癪な感じ。

 癪といえば、今日の天気も非常に良くて、暖かいこだ。まったく雨や雪に降られなかったのは、昨日とあと1日しかなかっただけに…。
 
 14:35発の青函フェリー(1440円)に乗り、フェリーターミナルから35分歩いて無事帰宅。

 ちなみに、津軽海峡フェリーもあるが、向こうは2220円と高い。おまけに歩いて帰るとなると結構厳しい距離で、我が家へ帰るバスもない。

    
〈フェリーから眺めた1日目に歩いた三厩から平舘の海岸線。右端は竜飛岬。
 後ろの山は丸屋形山(左)と袴腰山。来年にでもほかの津軽半島の山と合わせて登りに来るつもり〉

    
〈お土産~どれも自分が食べたいものばかり〉

 明日のブログに、今回の歩き旅を振り返って総括をし、親サイトのホームページ用に、多少手を加えるつもり。

奥州街道(松前道)歩き旅・10日目

2018年11月25日 | 登山・旅行
《岩手川口駅入口~21渋民宿~22盛岡宿(30.8km)8時間〉
  
 いよいよラストウォーク。10日間で初めて晴れの天気に恵まれた。朝は放射冷却で-5℃まで下がった。周りは雪はなくなっていたが、霜が降りて真っ白。徐々に暖かくなり、気持ちよく歩くことができた。
 たいした疲れもなく、足はどこも痛いところや張りもない。まだいくらでも歩けそうで、ここで終わるのはもったいないくらいだ。

 盛岡駅のコインロッカーに不必要な荷物を預け、6:25の電車に乗り、岩手川口まで戻る。

岩手川口駅入口~21渋民宿

    
 7:00、県道158の岩手川口駅入口をスタート。すぐ右角にナマコ壁の土蔵があり、昨日の写真にアップした櫺子格子の建物があり街道筋の面影を感じた。
 昇ったばかりの朝日がまぶしい。

    
 3度登っている雪化粧した岩手山が朝日にくっきりとした姿を見せている。

 川口地区を抜けると、国道に合流。

    
 ラーメン屋の前に二ツ森一里塚跡。標識がないと、見過ごしてしまいそうな感じ。

    
 巻堀地区に入るとずっと奥州街道の標識が立っているのが嬉しい。

    
 国道沿いに無造作に置かれている江戸時代のものと思われる墓石。このあと、5ヶ所ほど目についたが、昨日までなかったものだ。

    
 才津沢の交差点の右手の一角に、一字一石一札供養塔が現れる。東北地方は昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われてきた。その際の死者を供養するために法華経典を一石に一字ずつ書写して供養塔の下に多数埋めたものであり、1778年に明円寺の和尚によって建立されたものである。このあたりで大勢の死者が出たことからなのだろう。

 
 国道から左に別れる街道の入口に奥州街道の標識がおり、「アズキとぎ石」とその伝説についての案内板があった。この石の前を通るとザック、ザック、ザラー、ザラーという音が聞こえて恐れられ、その対策として近くに地蔵堂が建てられたと解説されている。今は車の音でそれどころではない。

    
 沢田地区を進んでいくと右に石碑群が現れる。その先には往時飛脚便の中継点があったとの案内がたっている。

    
 渋民宿の入口辺りに、新塚一里塚が現れる。右手の塚はない。多分車道を造ったときに消滅させてしまったのだろう。

    
 石川啄木記念館が現れる。一昨年の姫神山と岩手山に登ったときに訪れているのでパス。

 このあと、渋民宿になるが、街道筋の面影はまったくない。

21渋民宿~22盛岡宿

 やがて、国道から農村風景の広がる中の街道となる。

    
 昔の街道がそのまま舗装されたような道と家並みが続く。

    
 ずっと端正な頭部分しか見えなかったが、ようやく全容を現した姫神山。この山は2度登っている。

 このあと、渋民一里塚跡があったはずだが、カメラに写っていなかったところを見ると、見落としたらしい。

    
 今日も「明治天皇御小休史跡」が現れた。

 このあとは、北上川を右手に見ながらの歩きとなる。昔の街道がダムに没しているところもあるらしい。
 笹平一里塚も見落としたようだ。

   
 北上川がもっとも広くみえたところ。ダムで水位が上がっているからたろう。

 このあと、小野松地区で入り江の外側を回る入口を見落として、そのまま小野松橋を渡ってしまった。この辺りに小野松一里塚があるはずなので、もしや、通らなかった部分にあったのかもしれないと、そちらへ戻って1周してみたが、見つからなかった。諦めて先へ進んだ。25分のタイムロスだった。

    
 ところが、その先に小野松一里塚が現れた。反対側を見ると西の塚も健在である。県道の両側にあり、ほかの一里塚より幅が広いので、2つとも残ったのだろう。

 昼を過ぎたのに、食堂もコンビニもない。今日は盛岡に近いので、行動食は持参しなかった。
 そんな中で今日一番の感動が昼食だった。

    
 12:30、ようやく小泉うどんの看板と幟が現れた。車がたくさん停まっている。ところがそれらしい建物が見当たらない。

    
 まさか?と思う普通の民家に暖簾だけが下がっている。恐る恐る戸を開けたら、普通の民家の玄関に靴棚があるだけ。しかし、メニューが置かれていた。面白そうな創作メニューもある。満席の場合名前を書く紙もある。そんなに混むのだろうか?と思って上がり込んだ。
 3部屋を通した和室に4人用のテーブルが7つ。ほとんどか塞がっていた。サイン色紙などがあり、かなりの人気店のようだ。
 
    
 注文したのは、野菜あんかけうどん。あんの下には1.5玉ほどのうどんが隠れていた。そのうどんも美味しかったが、あんが抜群の味だった。今回の旅で食べたものの中でトップだった。汗だくになって食べた。
 近いところならほかのメニューも食べてみたい。店構えとのギャップもあり、人気店のわけも納得。

 やがて、市街地へと入っていく。片側2車線の広い現代的な商店街が続く。

    
 松並木が現れ、その先のショッピングセンター・カワトクの前に上田一里塚が現れる。逆光なので、通りすぎてから一里塚と松並木を一緒に撮った。
 この一里塚は江戸から140番目になる塚だが、東側の塚は消失し西側だけ残っている。
    
 広い道から、昔の街道の面影を残す家並みの続く道を進む。

    
 信号のある交差点に右手に「是よりは小本街道 牛追のみち」と刻まれた石碑が現れる。小本街道は内陸の盛岡と沿岸の小本を結ぶ塩の道であり、早坂峠の難所を牛を追って塩を運んでいたとのことである。そしてあの有名な南部牛追唄の生まれたところでもある。

    
 上ノ橋を渡る。木製の欄干と青銅擬宝珠が往時を忍ばせてくれる。この擬宝珠は1609年当時の現物だとのことである。
 この上ノ橋と中ノ橋の間が、盛岡城下の街道の中心地で、豪商が豪華な店を連ねていたという。

    
 街道の雰囲気を残す建物も多い。

    
 マンションの前に鍛冶町一里塚跡碑を見つけた。もともと昔も市街地だったので塚は造らず、石の碑杭を立てたが、それも明治9年に撤去したそうだ。

    
 その先に、今も営業している菊の司酒造の建物。

    
 さらに進むと大正時代に建てられた洋風木造建築の紺屋町番屋(市消防団番屋)が現れる。

    
 そのカーブの左手に茣蓙九という店が現れる。江戸末期の建物だそうだ。灯明の芯や藁製品を商っていた豪商・沢井屋九兵衛の店で、往時の風情を残している。

    
 15:00ちょうど、中ノ橋の交差点に旧盛岡銀行本店の赤煉瓦の建物が現れる。
 ここから中ノ橋を渡ると盛岡城址公園なので、ここを今回の奥州街道(松前道)のゴールとした。

    
 このあと、中の橋を渡り、盛岡城址公園へ。明治9年に建物は解体されたとのこと。日本百名城に選ばれているのに、建物がまったく残っていないのは残念。戊辰戦争で、幕府側についた悲哀か?
 
    
 この橋を渡ると本丸なのだが…。

    
 本丸には、銅像のない台座が現れる。この上に馬に跨がった南部家42代南部利祥の像は戦時中に供出され消失したと説明がある。

 その寂しい台座をバックに、今回の歩き旅ゴールの姿を、若い二人連れの女性たちに撮ってもらった。
 
 このあと、駅まで歩き、コインロッカーから荷物を引き取る。西口にある今年の4月にオープンしたばかりのユニゾ イン エクスプレス 盛岡へ。素泊まり3980円と安いが、繁華街は駅の反対側なので、周りは寂しい。

 最後のブログも書き終えたので、これから駅を抜けて、打ち上げに盛岡冷麺を食べに行くつもり。

 昨日のブログに、「奥州街道最高点」を載せ忘れたので、書き加えておいた。

    
 駅前のちょっと高級そうな盛楼閣で、打ち上げの盛岡冷麺。これもこれまで食べた冷麺で一番美味かった。


奥州街道(松前道)歩き旅・9日目

2018年11月24日 | 登山・旅行
《小繋集落入口~20沼宮内宿~岩手川口駅(29.4km)7時間10分》

 今日のコースは、午前中歩いた一戸町小繋から岩手町御堂の13.3km区間は環境庁で「新奥の道」と命名し、東北自然歩道のハイキングコースに推奨している。それもあり、整備されているような感じだった。
 午後の沼宮内宿の前後は、あまり見るものがなかった。

 今日は、昨日より気温は高く、あまり寒さは感じなかった。登りの山道ではうっすらと汗ばんだくらい。

    
 6:30に用意してくれた朝食をいただく。この旅館はネット上の評判もよい。総合的に期待通りだった。幸い、この丹野旅館の前が奥州街道なので、不必要な荷物を預けて、背中を軽くして沼宮内駅へ。 

    
 東北新幹線が通ってからは、昔の東北本線は、青森県内は青い森鉄道、岩手県はいわて銀河鉄道になっている。それぞれの発着駅は青森県の八戸駅。

 7:18発の電車で、小繋駅へ移動。さらに、25分歩いて昨日のゴールの小繋集落入口へ。(この分は上の距離や時間には入れていない)

小繋集落入口~20沼宮内宿

    
 8:00スタート。道路には雪はあるが、それほど気にならない。

    
 小繋集落へ入る手前に、坂上田村麻呂の建立とされる長楽寺の地蔵堂が現れる。寺は江戸勤番往路の際には本陣ともなっていたのであるが、明治、大正の大火で全焼しわずかに地蔵尊を残すのみとなったと案内板に解説してある。
 本陣ということは、松前藩主もここに泊まったのであろうか?

    
 その手前の右手に小繋番所跡の案内板が現れる。ここの番所は「領内の物資と交通を監したとある。

    
 昨日と同じ一戸町の標識が充実している。道の分岐には必ず設置されているので迷うことはない。さらに、次の文化財までの距離も示されているのがうれしい。

    
 集落を抜けて、未舗装の街道を進む。小繋一里塚の道標があり、一里塚と案内板が現れる。盛岡から12番目の一里塚で、西塚のみ現存している。

    
 やがて、轍もない昔の街道のまま残っているような道となる。整備されているような感じだ。

    
 しかし、その先の長い登り坂は、ぬかるんだ感じで歩きづらかった。
 
 登り切って舗装道路に出たら、左手の標識には「よの坂」と書かれ、右手の案内板には当時からの悪路だったと書かれていた。また、「奥州街道のなかでもかなりの難所」だったようだ。また「周囲には一軒の家も樹木もないさびしい道」だったと脅している。これは今も同じだった。

    
 まもなくして、火行(ひぎょう)集落へと入っていく。

    
 集落の半ばに火行伝馬所跡の案内板がある。江戸時代、公用通行のための伝馬所が置かれていたとの解説がある。火行付近は明治になっても「山又山の果てしなき地」といわれていた地域だったらしい。

    
 街道の松並木かと思ったが周りに松林があるので、たまたまそのように見えるのかもしれない。

   
 中山一里塚は、今の道とは違う畑の中にあるらしいので、気を付けて歩く。標識があったが、そこには見当たらない。周りを探したら、やはり畑の中に見つかった。今は畑となっているところにこの一里塚があるということは、往時はここに街道が通っていたのだろう。
 片方は畑を作るときに、削られてしまったらしい。おまけに、この一里塚の所有者名まで書かれていた。この畑の所有者なのだろう。ということは、片方を削ってしまった子孫ということになる?

    
 その先、緩い上りが続くが、上りきったところに「欧州街道最高点484m」の標識が立っていた。もう、江戸まではここより高いところはないということだ。

    
 摺糠集落と馬場松集落を抜けると、御堂・馬羽松の一里塚が現れる。左右ともに健在だ。盛岡から10番目の一里塚とのことである。
 ここには、一戸町と岩手町の説明板があるところを見ると、この辺りが町境界なのかも知れない。
 昨日から、一戸町には多くの一里塚が残っていた。それは、「一戸町の国道が奥州街道を通らなかったから」と書かれていた。

    
 御堂集落の手前に、地名の由来となった御堂観音が現れる。この観音堂は坂上田村麻呂が祈願所として開基し源義家が堂を建立したと書かれている。 

 あとで分かって悔しい思いをしたが、境内へ昇っていけば、観音堂の右手に「北上川の源泉泉 流 弭(ゆはず)の泉」があったらしい。
 この泉は、1057年の安倍一族と源頼義・義家らの朝廷軍との戦いの折、源義家が打続く炎暑に対処するため大杉の根本の岩を弓弭で突いたところ清水が湧き出たところと言われる。
 岩手町は、北上川の源泉の町を謳っていて、その向かいに川の駅もあった。

    
 観音堂の下に、今日歩いてきた小繋から御堂までの13.3kmは「新奥の細道」として、東北自然歩道であるという環境庁と岩手県の案内板があった。

 やがて、国道に出て、南下する。ちょうど正午に御堂駅前に到着。周りには食べ物屋はない。駅舎へ入って、このような時のための背負っていた賞味期限切れのバナナ饅頭と大福を食べた。

 やがて、国道と別れ、県道を進む。
 少し奥まっているので寄りはしなかったが、沼宮内小学校は、当時郡の中心であった南部盛岡藩の沼宮内代官所跡だったらしい。

    
 13:10、街道は突然、直線の広い道となる。沼宮内宿の繁華街だ。街道筋の面影はなく現代的な町並みが続いている。

    
 しかし、その中に、歴史を感じる建物も多い。

    
 ここは上路旅館というしにせ旅館だったところで、二階のガラス窓の繊細な造りがそれを漂わせている。

 沼宮内の繁華街を抜けて、丹野旅館に寄って、預けた荷物を受けとる。

    
 街道は沼宮内駅の西口を通っている。

20沼宮内宿~岩手川口駅入口

 その後、国道や県道や昔の街道歩きを繰り返す。

 北上川が大きく屈曲するところを国道は直進しているが、街道はその外側を通っている。しかし、その入口を間違って早く入り、遠回りをしてしまった。やがて、街道とぶつかったところに「芦田内一里塚入口」の標識を見つける。その道が街道だったのである。

    
 民家の奥に、説明板もないが、片方だけ残っていた。しかし、その先の街道から国道に抜けようと思ったが、その先は崖になり、ぶっつりと切れていた。

    
 戻る途中から大きく屈曲する北上川をながめ、国道に出る。

    
 川口集落の手前に川口城跡の案内が現れる。川口氏は、祖を川村氏といい、1189年源頼朝の命によりこの地に移住し築城、川口氏と改名。1665年八戸へ移住、八戸南部藩主より400を賜り、後に家老となる、と案内板に解説されている。

    
 川口集落の中ほどに、このような大きな旧家があった。

    
 15:15、今日のゴールは、この岩手川口駅入口である。

      
 国道から5分ほどで、新しい奇妙な駅舎に到着。無人駅であったが、中は普通の駅の造りだった。

 今日の宿は、盛岡に取ってあるので、時刻表を見たら、わずか6分後の15:26の電車があった。素晴らしいタイミングだった。

 16:05にホテル盛岡ヒルズに到着。素泊まり4700円。
 無料の洗濯機と有料の乾燥機があったので、まず洗濯機を回す。バスタブにお湯を入れてのんびり疲れを癒す。

 いよいよ、明日は盛岡宿までのラストウォークである。あと残りは30km弱のはず。
 ブログも終わったので、これから外で夕食。

    
 盛岡名物じゃじゃ麺の美味しいところをホテルで訊いたら、駅の地下街にある盛岡一の有名店という白龍(ぱいろん)を教えてくれた。
 人気店らしく混んでいた。安くてボリュームはあるが、どうも自分好みではなかった。やはり冷麺の方が好きだ。明日はそっちを食べよう。

  

奥州街道(松前道)歩き旅・8日目

2018年11月23日 | 登山・旅行
《17金田一宿~18福岡宿~19一戸宿~小繋集落入口(29km)8時間30分》※丹野旅館(沼宮内)

 昨夜の雨が雪に変わったようで、うっすらと雪景色になり、午前中は道路はブラックアイス。滑って怖かった。一度転倒した。これまでで一番の厳しい寒さだった。

17金田市宿~18福岡宿(二戸)

 三戸駅から電車に乗り、金田一駅を6:50スタート。路面はツルツルで慎重に歩く。

    
 金田一宿の中心は良くわからないまま県道になっている街道を進む。現在の町の中心は国道の方らしい。
 街道を進み、長瀬橋を綿って県道274号へ出る。昔はもっと手前に渡船場があったそうだ。

    
 家並みが混んでくると、福岡宿が近い。福岡宿は今の二戸町である。

    
 宿場内には街道筋の趣のある家やこのような立派な構えの家が非常に多い。

    
 その向かいの村井ホテルの敷地の隅に「明治天皇御駐輦の地」の碑が現れる。宿場内には街道筋の趣のある家もある。
 この辺りが宿場の中心だったのだろう。

    
 県道の交差点の橋の袂に標識が見えたので行ってみた。追分石だった。「右 もり岡 左 白とり」と刻んである。元は坂下の白鳥川に沿った白鳥道との追分にあったものだ。白鳥道は白鳥を経て九戸氏発祥の地、九戸村に通じる道である。

    
 その細い昔の街道の坂道を下っていくと、白鳥川に架かる橋の下に岩谷観音堂がある。11面観音菩薩像と阿弥陀如来像の2体が納められ、百年に一度のご開帳とのことである。
 
    
 左手に九戸城址の案内板がある。今まで同様ここもパス。二戸に九戸城、さっぱり分からない。
 そもそも、「のへ」の付く地名の由来もその数字の並び方もまったく分からない。

   
 福岡宿の外れに来ると、左手に二つの道標がある。「末の松山波打峠従是三十丁」という刀剣状の石碑と、「右浄法寺、左一戸道」と刻まれた追分石である。

18福岡宿~19一戸宿 
    
 県道から山越えの街道へ入るところに、今では珍しい火の見櫓がある。

   
 山を越えて県道に出て少し進むと、左側に浪打峠への街道が続く。
 この街道にあじさい街道という名前の標識があったが、一戸の出口まで、道沿いにあじさいがずっと植えられていた。街道の文化財を辿るハイキングコースとしても、整備されているようだ。

    
 この先の浪打峠での明治天皇の野立に使われた御膳水となった山下水の石碑。

    
 坂を上りきると浪打峠の広場に出る。街道の両側には交叉層という1500万年前の海底の堆積層が露出している所で、海岸のような雰囲気をかもし出している。それで浪打峠と言われてきたとのことだ。ここには明治天皇御野立之碑があり、休憩用の東家もある。

      
 浪打の一里塚。切り通しとなって道が下げられているので、一里塚がだいぶ高い所にある。左右とも健在だ。

    
 峠から一戸町になるのか、このような立派な案内表示があちこちに立てられていて非常に助かった。次の文化財までの距離も書かれていた。
  
     
 やがて、高速道路の上を通り、国道4号を2回潜って、一戸の郊外の街道沿いの家並みの中を進む。

    
 その先で県道に合流し、一戸宿へと入っていく。

    
 今は営業していない造り酒屋もあり、このほかに街道の賑やかな雰囲気を残す立派な建物も多い。

    
 このような白塀を回した旧家も。

    
 役場近くの商店街。この辺りが宿場の中心地らしい。

 ちょうど昼になったので、目にした食堂で、温かいかしわそばをたべた。体が暖まる。

    
 県道からトンネルを潜って、今日2回目の山越えの道に入る。

19一戸宿~小繋集落入口

    
 坂を上っていくと展望が開け、百姓一揆集結の地の碑と案内板が現る。1836年、凶作に苦しんだ百姓達がここに集結して一揆をおこし、一戸へ向かったが暴徒化して失敗。首謀者の三名は関屋川原で打ち首になったとある。当時の農民の悲惨な歴史に胸が痛む。合掌!

    
 駕籠立場所碑と明治天皇御野立所碑が右手に現れる。野立は峠の見晴らしの良いところで行われているようだ。

 県道へ出て、小鳥谷の1kmほどの直線道路を進む。昔の街道はまっすぐなことはない。あとで県道建設の時にそのようにしたのだろう。

    
 右手に野中一里塚跡の案内板と馬頭観世音が現れる。そこにあった太い松と檜はつい最近切られてしまったようで切り株だけになっていた。

    
 小鳥谷集落の外れに大きな屋敷が現れる。由緒ある家なのかと見ていたら「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っている。なるほどなと納得して先に進む。
 やがて、3度目となる山越えの道を進む。

     
 山道を進んでいくと奥州街道の道標が現れる。その手前に五月舘の追分石の案内板が現れる。街道の左手の土手の上にその追分石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。一戸方面からきた旅人に対する道しるべで、盛岡方面は左の道だと告げているものだ。

    
 山道から高屋敷集落を通る。ここには、馬継場があったようだ。また、当時使われていた共同井戸を3箇所復元していた。

    
 再び山道となり、川底一里塚が現れる。左右とも健在だ。ここは盛岡から13番目の塚だと案内板に記されている。
 以前は、道なき道を登っていって一里塚にたどり着いたらしいが、今は随分と整備されているようだ。

 その先で街道は通行止めになり、国道のトンネル口へ下りるように道が付けられた。

 そのまま、国道を進み、今日のゴールの小繋集落への入口をめざす。かなり気温が下がって、小雪が舞ってくる。トラックが通過する度に冷たい風が襲う。

    
 15:15、今日のゴール、小繋集落入口に到着。明日小繋駅からここまで戻らなくてはならない。

 さらに、25分ほど歩き、15:40小繋駅に到着。16:02の電車で、今夜の宿のある沼宮内駅へ。沼宮内駅は東北新幹線の駅と同じなので、その立派さに驚いた。
 16:35、駅から10分ほど歩いて、丹野旅館に到着。

    
 この宿は食事の評判が良い。期待通りの美味しい夕食だった。2食付きで6900円。寒いので外に出なくて済んだのがうれしい。

  

奥州街道(松前道)歩き旅・7日目

2018年11月22日 | 登山・旅行
《15五戸宿~16三戸宿~17金田一宿(34.3km)9時間》※清水屋旅館(三戸)
 
 9時間も爆睡し、明るくなって外を見たら、雪が降っていた。函館も昨日、気象観測始まって以来の遅い初雪が降ったらしい。まさか、ここで、1日違いの初雪を経験するとは思わなかった。雨に変わり、1時過ぎまで降り続いた。

 今日は、ほとんどが山越えの道だったので、アップダウンが激しく、泥んこ道や草道なども多かった。登山モードで、この旅で初めてうっすらと汗をかいた。
 しかし、五戸と三戸の間は「歴史の道百選」に選ばれていて、歴史的文化財も多く、奥州街道の標識もまめに設置されていて歩きやすかった。
 急いで歩いたが、山道が多かったので距離の割りには時間が掛かり、ゴールは薄暗くなってしまった。

15五戸宿~16三戸宿

 朝食を食べて、上下カッパを着て、折り畳み傘をさして宿を出る。昨日のゴール地点の江渡家住宅まで戻る。7:40スタート。これだけ着込むと寒さは感じない。
 
    
 街道を進み、立体交差で国道を横切るとまもなく、奥州街道の標識があり、農道となる。分岐のこちら向きからの標識は初めてだ。このあと、まめに標識があり、安心して歩くことができた。

    
 やがて、「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟」の石碑と案内板がリンゴ畑の隅に現れる。明治9年7月の東北巡幸に際して、八戸が巡幸のルートからはずれたので、八戸の人達はここで八戸のジオラマを作って天皇に見せたと解説されている。

    
 すっかり葉の落ちた渋柿野色と雪の白のコントラストが美しい。

    
 暫く進むと右手に一里塚の標柱が現れる。鳥内沢一里塚だ。標識がないと見逃す感じだった。

    
 急な坂が多く、そのすべてに名前の標識が立っている。

    
 暫く進むと右手に東家が現れ「十峰庵」の標柱が立っている。いわれの説明はなかった。

    
 9:00、浅水の集落へと入っていく。浅水は間の宿だったところである。この集落の両側が峠越えの道なので、ここに間の宿ができたのだろう。

    
 役場支所の前に「宿場坂」の標識がある。これはここが宿場であったという証拠になる。
 今まで三厩の本陣以外に、どこの宿場にも、そこが宿場だったという痕跡や史跡はなかった。しかも、ここは、正規の宿場ではなく、間の宿というのが皮肉なものだ。

    
 立派な塀を回した旧家。このほかにも、大きな家が多い。

    
 街道は高山峠へ向かうが、その入口に、歴史の道のルートと史跡などの表示板がある。整備が行き届いた「歴史の道百選」を進む。
 ここから先にも「奥州街道」の標識や坂の名前の標識が多い。
      
    
 登りの途中に整備された「水梨清水」がある。昔から旅人の喉を潤し続けて来たのだろう。
 
    
 落ち葉の上に積もった雪が滑る。この辺りから靴の中が濡れてくるが冷たさは感じない。

    
 10:15、尾根道の街道を進んでいくと高山頂上の展望台がある。真っ白な展望台の広場に出ると明治天皇御駐蹕所の記念碑がある。

    
 この高山峠からの下りは非常に急で車も走らないようで、草道だった。これまた滑る。何度か転びそうになった。

16三戸宿~17金田一宿

 やがて、三戸の郊外へと入っていく。この三戸は「南部藩発祥の地」であるが、今は青森県である。
 はじめは三戸に居城を構えていたが、豊臣政権の頃に領地が増えて、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。

 街道なりに進んでいき、南部利康霊屋を見るために左折して進む。
    
 1632年(寛永9)申の年に、南部27代太守利直公が、四男利康の死を悼んで創建された。
 江戸時代初期の豪華絢爛なる桃山建築の様式がそのままに取り入れられ、華麗なること東北随一と賞されているそうだ。その写真が右手に展示されている。昭和28年に国の重要文化財に指定されたこともあり、敷地の中は立ち入り禁止。

    
 道の左手には南部氏初代の南部光行が築き三戸南部氏の本拠地であった聖寿寺館跡が見えたが、標柱と敷地の配置図のようなものが掲示されているだけ。

   
 町の方へ入っていくと、唐馬の碑がある。八代将軍徳川吉宗に献上されたペルシア(春砂)馬が盛岡藩に下付され、この馬を種馬として馬の改良を図ったが、9歳で死んでしまったのでこれを悼み1743年に碑を建て供養したとのことである。

    
 13:00、三戸町役場前の商店街を通過。正面の山は、三戸城址。この辺りが宿場の中心地だったのだろう。

    
 ようやく食堂を見つけて、ニラキムチ入り醤油ラーメンを食べる。スープが美味しくて飲み干した。

    
 市街地から次の金田一宿へ向かう道は、こんな細い道?と驚くような狭い道だった。それは、そのまま未舗装の農道に変わる。

    
 農道から国道4号に出る。しばらく国道を進む。しかし、右に入る道が見つからない。そのまま国道を進んでしまった。
 参考にしているサイトの記録は、写真と説明文と地図を載せているが、その文章と地図が合わない。地図が間違っていたのかも?

 ずっと国道を進み、別の道から街道に入ったが、すでに峠の上の籠立場も集落も過ぎたあとだった。

    
 奥州街道の標識を見つけたところを左に曲がったら、未舗装の農道になっていた。

    
 その先は、まさに昔の街道かそのまま残っているような道へと続く。
 この先にも、奥州街道の標識が頻繁に出てくる。

    
 わずかな距離だが、こんな藪に覆われた、残された街道といった感じのところもあった。ここを抜けたところでスマホがないことに気づく。藪の道に戻ってすぐに見つかった。

    
 16:20、街道は金田一温泉駅前の家並みの中に下りていく。この金田一宿は岩手県である。どこに県境があったのか分からなかった。

    
 16:25、今日のゴール、金田一温泉駅に到着。金田一温泉はどこも高く、おまけに遠い。
 そこで、昨日のうちに、三戸駅前の方の宿を取っておいた。タイミング良く16:39の電車に乗って三戸駅へ。

    
 16:50、三戸駅前の清水屋旅館に到着。靴も靴下もびしょ濡れ。雑巾を借りて足を拭いて部屋へ。素泊まりで4320円。

 まずは、お風呂。広い浴槽に体を伸ばして、疲れを抜く。そのあと、夕食を食べに出ようと思ったら、靴の中に湿気とりの古新聞を入れておいてくれていた。

 宿の向かいの洋品店で靴下を買い、近くの中華料理屋さんで、野菜炒め定食を食べる。戻ったら、古新聞がたくさん置かれていた。それと靴を部屋へ持ち込み、ストーブの前で靴を干し、中の古新聞を取り替えながら、ブログを打つ。 

  

奥州街道(松前道)歩き旅・6日目

2018年11月21日 | 登山・旅行
《十和田市~13藤島宿~14伝法寺宿~15五戸宿※旅館さ・くら屋 (18.4km)5時間25分》

 日が短いし、ブログアップに3時間は掛かる(これも疲れる)ので、1日30kmくらいが理想なのだが、宿の場所の関係で、なかなか思うように行かない。
 今日も、後半の五戸と三戸の約20km間は山中のコースがほとんどで、途中に宿もないし、バスや電車も通ってない。頑張っても確実に暗くなるだろう。
 そこで、今日は無理しないで、五戸までの半ドン休息日とした。

十和田市~13藤島宿

 6:15、朝から雨の中の歩きは初めてだったが、まだ薄暗い中、ホテルを出る。気温は0℃まで下がったが、上下カッパを着たので、寒さはまったく感じなかった。コンビニのイートインコーナーで、簡単な朝食を摂り、藤島宿をめざす。

    
 十和田市のアーケード街の県道145号を南下。

    
 ピンク色のスーパー・アサヒの前に一本木の一里塚が現れる。西側の塚のみで東側は国道建設時に破壊されたと案内板にある。つい何年か前までは大きな欅が自慢の塚木だったらしい。今は切られたが、子供の幹が2本未来を向いて伸びている。
 そこで県道と別れて街道を進み、奥入瀬川の手前で、再び県道に合流。

    
 奥入瀬川に架かる御幸橋の手前に御幸橋由来の碑がある。明治9年の明治天皇の東北御巡幸に際し、それまで繰り舟渡しであったが急遽橋を架けたとのこと。 

    
 橋の袂の土手を右折して200mほど進むと舟渡場跡の標柱が川岸に現れる。

    
 再び県道に戻って、あるはずの「明治天皇駐蹕之跡」碑を探す。あちこち行きつ戻りつして、県道から街道へ別れる入口の先にみつかった。
 ここは小休所となった邸宅跡だとのことである。伝法寺宿と半月交代で継立業務を請け負っていたとのことなのだが・・・・。ここが、藤島宿の中心だったのだろう。

    
 こんな狭い、いかにも昔の街道のまんまといった道もある。

13藤島宿~14伝法寺宿

 藤島宿から伝法寺宿までのほとんどは、県道145号と別れて、林道に転用されたり、当時のまま残る部分もある山越えの街道だった。

   
 その入口に庚申塚があった。

   
 県道145号から別れた途端に雨で泥んこの林道となる。

 途中に分かりづらい土饅頭のような一里塚があるというので、見落とさないように歩く。

    
 土饅頭はなかなか現れないが、下り始めてから、ふと左手を見ると、深く掘れた、いかにも古道といった地形が続いている。
 深く掘れ過ぎて、林道には転用できないので、それと平行して新たに林道を造ったのだろう。

    
 林道から外れてその中を歩いていたらまもなく、両側に高い土饅頭が現れた。これに違いない。

    
 右の塚の上に標柱があるらしいので登ってみたら、微かに「一里塚」と読めた。そこから左の塚を写した。しかし、説明板はないので、どこの一里塚かは分からなかった。
 ほかの一里塚は下に標柱や説明板があるが、ここはその両方ともない上に見上げるほど高いので、見逃されやすい一里塚であろう。
 深く掘れた街道跡は、国道にぶつかる手前の民家の裏まで続いていた。
 民家の玄関先を通り抜けたら国道4号だった。
 
    
 国道4号に出て右に少し進むと高いところに伝法寺館跡の標柱があった。これも通り過ぎて、戻って探してようやくみつけた。
 ここに戦国時代の南部氏家臣、津村氏の居城があったとのことである。

 9:45、その標柱の先の左に入る細い道が伝法寺宿への街道だった。
     
 伝法寺宿は小さな村だったので隣村の藤島宿と半月交代で継立業務を行っていた。
 宿場内の細い道が、微かな街道の面影か?

 伝法寺宿を抜けて、国道4号を進む。

14伝法寺宿~15五戸宿

    
 10:25、五戸町に入る。とたんに歩道がなくなる。前からくるトラックが怖い。

 やがて、国道と別れ、五戸高校の前を通り、市街地へと入っていく。

    
 「明治天皇 田の草取天覧御聖跡」の碑が現れる。天皇にとってはマイナーな農作業である草取りなどは珍し光景だったのかもしれない。
 天皇陛下に見られて田の草取りをしたのは、ここだけであろう。それにしても、珍しい碑である。

    
 その先で左折して進むと、今でも営業している「菊駒」の造り酒屋が現れる。

    
 その先を右折すると、高菜を洗って漬け物の準備をしているおばちゃんがいた。珍しいので撮らしてもらった。

    
 突き当たりの右の階段を昇る。

    
 11:30、階段を昇りきったら、五戸宿の商店街に出た。この通りが昔の宿場の中心だったのだろう、

 その先の右側に公園があり、立派な図書館と古民家が建っていたので行ってみた。

    
 その古民家は代官所跡だった。盛岡南部藩28カ村を統轄した五戸代官所の設置年代は寛永12年(1635)ごろと推定されている。明治2年に廃止。現在の建物は当時の代官所の平面図を基に復元された。
 町の文化財にも指定されている門は、文久年間(1861~1864)の建築と推定され、屋根と土台が老朽化したため修復された、と書かれている。

    
 街道へ戻って、先へ少し進むと、天明年間(1781~89年)に飢餓救済事業の一環として建てられた江渡家住宅がある。
 茅葺き屋根の大きなつくりで、外には立派な門構えがついた家だ。とても五戸代官の下役を努めた御給人(在郷武士)の家とは思えない造りだった。

 11:45、ここを今日のゴールとした。再び、商店街に出て、1軒しかない食堂で昼食にする。

    
 五戸名物桜鍋定食。地元名物に弱いが、これも旅の楽しみである。
 そこで、宿の予約を入れた。もし11時前に着いたら、三戸まで進むかもしれなかったので、予約を入れてなかった。

    
 昼食後は、立派で大きな五戸図書館でのんびりブログを打つ。

  雨は午前中、降ったり止んだりをずっと繰り返していた。

    
 宿は旅館さ・くら屋。2食付きで、うれしい6480円。安い割りには、比較的新しく洒落たペンション風の宿で、若いおねえさんの接客対応も感じが良い。これまで古い宿ばかりだったので、快適に過ごせそう。 
 「さ・くら」の点は、ゆっくり休んでいただきたいという意味合いだそうだ。
 
 ブログも終えて、4時にチェックインしたので、珍しくのんびりできそう。明日以降、大幅に狂った計画をじっくり練り直すことにする。

    
 安いのに良い料理。ここに駅があれば、戻ってきて、また泊まりたいくらい。

 

奥州街道(松前道)歩き旅・5日目

2018年11月20日 | 登山・旅行
《11野辺地宿~12七戸宿~十和田市※十和田富士屋ホテル(36.4km)9時間45分》

 野辺地宿から江戸までは海から離れて、内陸の街道となる。今日は、七戸宿と藤島宿の間の十和田市市街地を通るので、そこに宿をとった。

 ちなみに、歩いた距離は、寄り道や道間違いも含めて、GPSで計測した実際の距離である。当然宿場間の距離より長くなる。

11野辺地宿~12七戸宿

 6:10、薄暗い中、旅館をスタート。旅館は街道筋だと思っていたが、街道の分岐を過ぎていた。少し戻って、正規の街道を進む。
 ここから七戸の郊外で県道173号に合流するまでの16kmほどは、林道や農道などに転用されている昔からの街道が続いていた。山の中の道や廃道になっているところもあり、笹やぶ漕ぎまでした。また、地図では無理で、GPSなどで、何度も確認しなくてはならなかった。

    
 野辺地宿を抜け、「一里塚→」の標識に従って進むと、いきなり未舗装の道となる。その街道は鳴子坂を上っていく。鳴子坂橋の袂には案内板があり、平安から鎌倉時代にかけて、この付近には先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。また、藩政時代には幕府や藩の要人の送迎に、宿場の主だった人たちがこの付近まできたとのことである。

    
 林道街道を進んでいくと坊ノ塚の一里塚が現れる。案内板には「奥州街道に残された最北の一里塚である」と記されている。
 林道は西の塚の外側を通っていたが、東の塚とのまん中には元の街道が通っていて、標識も設置されていた。その両側に続く道の痕跡は残っているが、どちらも藪に覆われていた。

    
 その先では、青森ひばの切り出しが行われていた。

 40分くらいで山を越えると、長久保の小さな集落を抜ける。そこから先は舗装道路となる。

    
 その先も林道や農道に転用されていて、山中や農地の中を南下する。

 8:45、今日一番のハイライトにぶつかる。
    
 未舗装の道路の先は、街道が切れていることは知っていた。ほかの記録は遠回りの迂回をしている。その道が完全に消えている先へ進んでみた。

    
 人工的に削られて整地された痕跡があり、道の痕跡はなく、その先は笹藪で覆われている。その手前まで下りてみたら、深い川が流れている。
 両岸は崖状になっていて、水は少ないが、簡単には上り下りできない。しかし、笹藪は50mもない感じだ。そのために1km以上迂回するのも癪だ。
 藪山に比べたら楽なものだ。意を決して、笹にぶらさがりながら、背丈ほどの川に下りる。上るのは大変だったが、やはり笹に掴まってなんとか登ることができた。あとは、笹藪漕ぎだけだ。

    
 蔓が絡んで難儀したが、わずか6分で、反対側の道に出た。

    
 ほっとして歩き始めてまもなく、蒼前の一里塚が現れた。ここは、江戸から176番目とのこと。

    
 畑地の中のその先を進むと道がやはり消えている。ここはGPSの地図で見ても道の続きはない。
 この辺りから、七戸郊外の県道に出るまでの部分は田畑に吸収されて分からなくなっているらしい。それに一番近い車道や農道を通っているようだ。
 はっきりしているのは、県道173に合流する地点手前の天寿園という老人施設の前を通る道らしい。
 10:20、そこを通って県道に出た。

    
 県道173を進み、七戸宿を目指す。

    
 県道173から離れ、直角に曲がって再び合流する前に、原型をきれいに保ったままの天間館の一里塚の間を通る。この欅はこの塚が造られて以来から樹齢360年以上は経つらしい。
 これまで、東海道や中山道で多くの一里塚を見てきたが、これほど大きな欅は初めてだ。塚の原型も含めて、全国的にもみごとな一里塚らしい。

    
 七戸中央公園さきの中野三叉路で国道4号に合流する。ここにも、みごとな松並木が残っていた。

    
 松並木が切れた東北新幹線七戸十和田駅近くの国道沿いに、新しい奥州街道の石碑が立ち、そばに、野辺地宿と七戸宿を結ぶ奥州街道の説明板が立っている。
 それによると、ここの松並木は国道ができたあとで植えたものらしい。

     
 街道の説明板よると、この間には2本の街道があり、自分が歩いてきた街道は本街道で、もう一本はあとでできた近道と呼ばれているそうだ。

 ここと同じ石碑と案内板は向かい側にもあった。

    
 12:00ちょうどに、七戸の道の駅に到着。昼食に生姜焼き定食を食べた。
 旧国道と県道を繋ぎ、七戸宿の中心地を目指す。

    
 中心地でまず寄ったのは、青岩寺。この山門は七戸城の城門を移築したもので当時は二層の楼門だったが、大正末期に老朽化のため上層部と袖門を取り去り、今の形になったと解説されている。

      
 境内の巨木のイチョウから舞い散る落葉がきれい。

    
 青岩寺を出て、その先の突き当たりには七戸分庁舎。この後ろに七戸城址があるが、時間不足でパス。

    
 分庁舎の手前には、有形文化財の洋風建築の旧郵便局が建っている。

    
 少し戻って、七戸商店街へ。この辺りが宿の中心地だったらしい。

    
 その商店街の中に目を引く駒泉という造り酒屋。今は商売をしていないようだ。

    
 その1軒破産で、今度は味噌・醤油の山勇商店。ここも営業はしていないようだ。

    
 商店街の外れの橋の手前に、風情のある駒饅頭という和菓子屋がある。天皇皇后両陛下献上とある。これは食べねばと中へ入る。

    
 いろいろな和菓子はあったが、駒饅頭はこの一口サイズの3種類。白餡、赤餡、紅芋餡。ひとつずつ買ったら、1個はおまけして2個分196円にしてくれた。両陛下献上の饅頭を歩きながら食す。

12七戸宿~十和田市

 七戸宿を抜けて、国道4号、県道10号と繋いで、ほぼ直進で今日のゴールの十和田市を目指す。

    
 14:05、十和田市に入る。

    
 ここにも立派な松並木が残っている。

    
 やがて、真登地の一里塚。ここは片方しか残っていない。説明板によると、北方4.6㌔に池の平の一里塚があったらしい。気づかなかった。

    
 松前藩主が参勤交代の安全を祈って植えたという土手山の欅。樹齢300年。ここで久しぶりに松前藩ゆかりの痕跡が見られてうれしかった。
 なお、十和田市に入ってからも奥州街道の石碑が3本あった。

    
 15:55、十和田富士屋ホテルに到着。素泊まり5000円。まずは、入浴券をもらってすぐ近くのみちのく温泉へ。

    
 その足で、十和田市名物バラ焼きを食べに、超有名店の司へ。

 そのせいでブログアップがすっかり遅くなってしまった。

  

奥州街道(松前道)歩き旅・4日目

2018年11月19日 | 登山・旅行
《西平内駅~9小湊宿~10馬門宿~11野辺地宿※藤川旅館(26,5km)8時間》

 計画では、今日は小湊宿から七戸宿までだったが、距離が長い上に、雨予報なので、無理しないで、昨日と合わせて距離を短くすることにした。しかし、野辺地宿と七戸宿の間の24km以上は、町もなく、青い森鉄道と離れてしまう。仕方ないので、距離的には物足りないが、今日のゴールを野辺地宿にした。

 夜中ずっと雨が降っていたが朝には止んでいた。しかし、いつ降られてもいいように、初めから雨具を着て出た。結局途中で脱いだが、午後から少し降られた。折り畳み傘でしのげる雨だった。 
 比較的暖かかったのと時間的余裕があったので、のんびり歩いた。

西平内駅~9小湊宿

 7:16の電車で西平内駅へ。国道4号に出て、7:30、西平内郵便局からスタート。

    
 国道4号に出てすぐ、左の旧街道と思われる家並みに入るところの国道に、こちらからすると反対向きだが、奥州街道の標柱がたっていた。

    
 旧街道の面影を残す家並みを通り、再び国道へ。

    
 国道沿いのたんぼに群れをなしている白鳥。すぐ近くの小湊の白鳥飛来地の沼から飛んで来たのだろう。幼鳥が非常に多かった。

    
 再び山側の旧街道を進み、国道に出る手前の分岐に、やはり反対側だが、標柱が立っている。写っている道は歩いてきた道。

 国道から、藤沢で右折して、旧街道を進み、暫くすると左手の土手の上に天明の飢饉供養塔と案内板が現れる。天明の飢饉(1782年~1785年)で平内でも沢山の人が餓死し、半数の357戸の家が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため1787年に東福寺住職が供養塔を建てたと記されている。大変な時代があったんだなと思い、合掌!街道は静かな道を進む。

    
 狭い旧街道を進み、国道を横断して、さらに旧街道を進むと、商店街になる。この辺りが小湊宿の中心地だろう。

    
 8:45、左手に平内町役場が現れる。敷地内の松の木の横に竹内家跡地の標柱があり、役場の玄関横には明治天皇行在所跡の碑がある。竹内家とは江戸時代の豪商竹内与右衛門の家のことで、明治天皇の2度の東北巡行の行在所ともなったことを示している。

    
 その先で右折するのだが、大きな木があるので行ってみた。
 巨木は「御家中の松と欅」で、松は400年、欅は500年(室町時代)の樹齢だそうだ。この付近一帯は、昔のチャシ(アイヌの砦)の跡で、藩政時代には代官所や武家屋敷があり御家中と呼ばれていた、と案内板にある。
 その奥には、ここが生誕地である高橋竹山の碑や歴史民族資料館がある。資料館の前には平内代官所跡の標柱がある。
 街道に戻って西に進む。この街道は県道9号だった。

    
 国道に合流し、3kmほど集落のない国道歩きとなる。途中のゆとりの駐車帯に奥州街道の立派な石碑。立てた団体名は奥州街道歴史の道整備委員会となっていた。整備に力を入れているのだろうか?

    
 その奥に、江戸時代のこの辺りの奥州街道の絵と説明板が設置されていた。

9小湊宿~10馬門宿

 広口沢の集落で旧街道に入る。その後何度か、国道歩きと旧街道歩きを繰り返す。
 街道歩きの経験からか、地図を見なくても、国道から斜めに別れている道はだいたい旧街道だと分かる。一応地図とGPSで確かめて進むが…。

    
 その途中の国道沿いに「明治天皇野立之地」の石碑がある。ここのほかにも、御休所の碑もあった。明治9年と14年の2回通っているので非常に多く目につく。

 狩場沢までの30分ほどは、歩道のない国道歩きだった。ここまでで初めてだ。危険きわまりない。

    
 11:45、狩場沢地区の入口に、レストランカフェがあったので、昼食にした。頼んだメニューはぷりぷりのホタテとエビの入った磯ぞうすい。ボリューム的には物足りなかったが、体が温まった。

    
 狩場沢の旧街道の坂道を抜けると、ここにも奥州街道の標柱がたっていた。この出口付近の民家の辺りに津軽藩の狩場沢番所があったそうだがそれを示すものは何もない。

10馬門宿~11野辺地宿

    
 狩場沢を抜けると、野辺地町に入るが、その境界の海岸に、「藩境界塚(通称四つ森)の広場」が現れる。江戸時代の津軽藩と南部藩との境界に築かれたもので、二本又川をはさんでそれぞれ二基ずつ築かれている。

    
 また海側にはそれぞれ「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」の標柱が建っている。往時はこの塚の間を街道が通っていたのであろう。

    
 国道に戻ったら、南部藩の馬門御番所跡が復元されていた。人や物資の出入りをこの番所で監視していたのこと。

     
 やがて、国道と別れて県道243号へ入ると馬門宿の入口となる。

    
 馬門の海岸から今日のゴールの野辺地の町並みが見える。

    
 13:55、馬門宿の中心地らしいところはなかったので、バス停の馬門のところの通りを写した。当時は寒村だったのに、戊辰の役の野辺地戦争で焼き討ちにあったらしい。

    
 野辺地川の手前の浜側に、野辺地戦争戦死者の墓所が現れる。明治元年9月22日夜半に官軍側についた津軽藩180人が攻めてきた。南部藩・八戸藩連合軍はこれに応戦し撃退した。夜明けまで続いた戦いで津軽藩の軍勢は40余名の死傷者をだして敗走した。盛岡藩はその後伊達領白石に転封された。この墓は翌年に津軽藩が戦死者27人の名を刻んだ墓石を建てたものであると、案内板にある。

10馬門宿~11野辺地宿

 野辺地川を渡ると、野辺地宿へ入る。海の方に常夜灯公園があるので寄ってみた。

    
 当時の回船問屋野村治三郎によって建てられたもので、関西の橘屋吉五郎の協力をえて海路運ばれてきた。毎年3月から10月まで夜毎灯がとれされ、野辺地を行き交う船を見守ってきたと、案内板に記されている。
 また、近くには江戸時代の航路や秋田・尾去沢から野辺地湊を通り大阪に運ばれた御用銅の道などの案内板がある。
 右の船は、最近当時の弁財船を復元作成した「みちのく丸」。

    
 公園手前の交差点に遠見番所跡がある。江戸幕府により外国との通商・交通が禁止されていたために外国船を監視する施設を南部藩が設けたものであると記されている。

     
 県道243に戻って右折し、すぐに左折すると、繁華街へ入っていく。

    
  15:05、質素な野辺地町役場。
 役場の隣には明治天皇の行在所となった豪商・野村治三郎宅の離れと庭園が保存されている。

    
 15:30、街道筋の藤川旅館に到着。早速足を伸ばせる風呂に入る。その点、ビジネスホテルより旅館の方が好きだ。
 素泊まり3500円。2食付きをお願いしたが、夕方まで出掛ける用事があるので、朝食は用意できるが、夕食はできないという。
 17時過ぎに、コインランドリーでの洗濯と夕食に出掛けたが、隣のスーパーで、割引値札の付いた惣菜等を買い込んで安上がりの夕食となった。

 

奥州街道(松前道)歩き旅・3日目

2018年11月18日 | 登山・旅行
《6油川宿~7青森宿~8野内宿~西平内郵便局(31.1km)8時間35分 ※浅虫温泉》

 今後の天気予報を見たら、晴れの日は1日もない。明日からびっしり雨絡みの予報である。おまけに、最高気温もすべて一桁。汗をかくことはないが、やはり寒い。東北のこの時期は失敗だった。寒さ対策をしながら頑張るしかない。
 いつも歩き初めは筋肉痛が出るが、今回は脛の筋肉痛だけ。このあと、少しずつ楽になるはず。サロメチールを塗り込む。

6油川宿~7青森宿

 青森を6:15の列車に乗り、油川駅からスタート。

    
 6:25、駅から国道280号に出ると、少し賑やかな商店街が続く。30分ほどで止んだが雨が降ってきた。傘をさして、雨具の下だけ履いて歩いた。

     
 西田酒造の北側の先を東に入った所は油川湊跡である。湊番所が置かれていたというがその形跡はない。今は漁港なっているが、係留している船は一艘もなかった。
 江戸時代の油川は外ヶ浜を代表する湊として栄えたらしいが、今はその面影もない。

    
 黒板塀の西田酒造の手前に、「羽州街道、松前街道合流之地」碑がある。福島県の桑折宿でわかれた羽州街道は出羽を経由してここで合流しているのだ。街道の合流地点でもあり、制札場があるほどに賑わっていたが、明治3年に弘前-青森間に油川を経由しない直通道路が開通し衰退したようである。

    
 西田酒造は、有名な「田酒」と「喜久泉」という酒を造っている。古くは麹屋を営んでいたとのことである。往時には11軒もの造り酒屋が油川にあり、商家、船問屋、船宿、民家が軒を連ねていたという。この先に、三浦酒造もあった。

    
 先へ進むと、浄満寺の赤い山門が現れる。戦国時代に油川を支配していたのは南部氏配下の豪族奥瀬氏だった。しかし1585年津軽為信に追われて南部に去った。浄満寺は奥瀬氏の菩提寺だった。

    
 本堂裏にその墓碑が並んでいた。

    
 その横には、天明3年(1784年)の飢饉で餓死した人を埋葬した千人塚がある。飢饉で餓死した人300人、流浪に出た人400人、遺体が道端に横たわっていても誰も手にかけないので見かねた代官が浄満寺の裏の畑に大きな穴をほり埋葬し、以来読経を捧げてきたと案内板に解説してある。天明の飢饉では油川と後潟で全住民18,600余人の3分の2が死んだという。

 国道280号に戻って、先を進む。油川宿の入口には代官所があったというが、その痕跡も説明もない。
 ひたすら、青森市内に続く人家や商店の連なる国道280号を進む。

7青森宿~8野内宿

    
 青森森林博物館。ルネッサンス様式の木造洋風建築。明治41年築)。この先は青森市街地の道となる。

 この先から、旧街道は、青森駅構内で切られていて、はっきりしたルートはない。青森駅の東側の善知鳥(うとう)神社の鳥居のそばに、「奥州街道終点」の石碑があるというので、国道280号から国道7号の跨線橋を越える。

    
 左手にアスパムを見ながら東へ進む。

    
 善知鳥神社鳥居横の「奥州街道終点記念の碑」
 案内板には、諸説はあるが、江戸初期に著された幕府撰慶長日本図によると安方(青森市)が終点とされているとのことである。
 また、その左側に大正十一年の「青森市道路元標」がある。昔はこの境内に青森市役所があった。
 青森ではここから三厩までを「松前街道」と呼んでいたようだ。

    
 善知鳥神社。昔の青森市は善知鳥村という寒村で、ここが中心地だったようだ。

 善知鳥神社を背にする道が旧街道なので、直進する。

    
 その旧街道は、合浦(がっぽ)公園の中へ入っていく。

    
 公園の中頃の右手に「三誉の松」が現れる。樹齢400年を超える老松で、根元から三本立ちする珍しい大木である。歴代の津軽藩主が巡行のおり、ここで野宴を開き、自ら古樹に酒を献上したと案内板に記されている。

    
 やがて、県道259号と合流する。標柱があるので、振り向いたら「奥州街道」の標識だった。四国遍路の逆打ちを思い出す。標識は江戸から北へ向かうように設置されているようだ。
 この辺りに見られる松は街道名残の松である。

7青森宿~8野内宿

 10:30、国道259号を進み、野内川を渡る、野内宿へと入っていく。ここには関所などがあったというが、その痕跡も説明もない。

    
 野内小学校の前の街道名残の松

    
 峠を越える途中で行動食の昼食を摂る。峠から下り、集落を抜けると国道4号と合流する。

    
 浅虫温泉のそばにある島とその北側に下北半島を見ながら国道4号を進
 トンネルの海側に旧街道はあるが、通行止めになっている。しかし、踏み跡があるので進んでみる。

    
 そこは、善知鳥崎であった。昔は難所だったらしい。

    
 松並木が残り、そこに「明治天皇御休所御跡」の石碑が立っていた。
 10分もか掛からないで国道へ戻る。

    
 まもなく、浅虫温泉へ入っていく。
 
    
 バイパスから温泉街の旧街道を進む。あちこちに行灯が設置されている。 

 今日は小湊宿まで行って、青い森鉄道で浅虫温泉に泊まる予定だったが、ひと駅手前の西平内駅で戻ることにした。
 浅虫駅で列車の時刻を確かめて、駅前の今日の宿である宿屋つばきにリュックを預けて、西平内駅を目指す。

    
 温泉街を抜ける旧街道と国道4号の合流地点にも、振り返ったら「奥州街道」の石碑が立っていた。

    
 浅虫水族館への入口でバイパスと別れて、すぐ上から続く旧国道4号(旧街道)を進む。

8野内宿~西平内郵便局

    
 ほたて広場の一角にある「ほたて供養搭」。ここは、御番所があった所だが、なんの痕跡もなかった。

    
 ほたて公園に近くの奥州街道の説明板があった。

 バイパスを進まず、旧国道を進んだ。説明板にあった現在は利用されていない旧街道の入口が分からなかった。

    
 旧国道の出口にバリケードが設置されていた。

    
 夏泊入口で、国道4号に合流するが、そのすぐ上にある塚ノ下の旧街道を進んだら、「明治天皇小休所」の碑が立っていた。国道に合流しそのまま進む。郵便局前を今日のごーるとして、西平内駅へ。

    
 15:10、西平内駅に到着。
 15:23の電車に乗り、浅虫温泉に戻る。道の駅をぶらついて宿へ。

    
 16:00、宿屋つばきに到着。以前に泊まったことのある棟方志功の愛した椿館と同系列の宿だった。
 どこも高いので、素泊まりで一番安い宿を探したら、ここだった。素泊まり6500円だったが、じゃらんのポイントが使えたので5100円で済んだ。
 早速温泉にゆったり浸かったのはいうまでもない。
 夕食に外へ出たが、結局往復20分歩いて、コンビニで買い込んできた。


奥州街道(松前道)歩き旅・2日目

2018年11月17日 | 登山・旅行
《3平舘宿~4蟹田宿~5油川宿※油川駅(35.9km)9時間》

3平館宿~4蟹田宿
    
 朝食は早ければ早いほど良いと話したら、なんと6時に用意してくれた。
 今日と明日は素泊まりなので、朝食から豪華なのはうれしい。

 宿の人と話していたら、昔のこの松前街道は、江差などのにしん場へ出稼ぎに行く人で賑わったそうだ。
 また、旧街道を歩いてきたので気づかなかったが、バイパスを1kmほど戻れば、幕末の陣屋跡「おかりや跡」があるという。

    
 6:30、宿を出て、バイパスを戻って「おかりや公園」へ。
 ここは、寛政・文化の頃、辺境警備のために、平舘台場とともに、津軽藩で陣屋を築いたところ。おかりやは御仮屋と書くらしい。 
 今は統合してなくなったが、中学校を建てたので、台場のような立派な松はない。

    
 宿の前をもう一度通り、先へ進むと、少し賑やかな通りとなり、支所、郵便局などがある。こちらの方が宿場の跡かもしれない?

    
 旧街道の雰囲気を残す家並み


    
 街道沿いには、ずっとこのような小さな祠の中に納められた地蔵堂が頻繁に目に付く。平均したら500mくらいの間隔かもしれない。

    
 中はどこも、このようにきれいである。百万遍と刻まれた石も奉られている。

    
 平舘の外れに掲げられた「吉田松陰乗船の場」の看板。何の説明もない。

4平舘宿~5油川宿

    
 9:00、合併する前の平舘村と蟹田町のと境界。今は、三厩村も入れて、外ヶ浜町になっている。しかし、昨日通ってきた今別町を挟んで飛び地合併になっている。

    
 蟹田町塩越地区の国道280号沿いに連なるホタテ養殖の作業場。旧街道は山側に続いている。

    
 左が国道、右が旧街道

    
 旧街道から国道に出たら、今歩いてきた旧街道は東北自然道にもなっていた。

    
 蟹田港は陸奥湾を横断して、むつ市と結ぶフェリーの発着港にもなっていた。

    
 10:10、蟹田町の市街地。これまでで一番にぎやかな町並みだった。この手前の山の方に外ヶ浜町の役場がある。この辺りが昔の宿場があったところだろう。

    
 10:50、蓬田村へ入る。

    
 玉松海水浴場にあった「マルシェよもぎた」で、昼食に煮干しだしのスープの支那そばをたべる。

    
 顕彰や慰霊など、いろいろな石碑が立ち並ぶ玉松台公園。
 松前藩主も休憩したところとのこと。

    
 公園の左奥にある樹齢300年の玉松。拝み石の上から眺めると、幹が輪になって見えることが、名前の由来。

    
 公園の下にある古城の沼。古城の由来不明。

    
 12:35 いかにも村役場といった雰囲気。この辺りが蓬田宿の中心地?

    
 松前藩の参勤交代の休憩所となった正法院。さすがここまてで一番立派な寺だった。

    
 13:10、青森市に入る

    
 昇龍の松。いつも松前藩の参勤交代で宿泊所としてお世話になった赤平家にお礼にあげた盆栽を植えたらこのような立派な松になったとか。

    
 15:30、今日のゴール、油川駅に到着。油川宿の中心部は少し先らしい。明日のお楽しみ。
 次の青森行きの列車まで1時間30分以上もある。歩けば着いてしまう距離だが、暗くなってしまうし、それ以前にこれ以上歩く元気はない。
 ブログを打っていたら、すぐに時間になった。

 17:07の列車に乗り、ひと駅で青森駅。

    
 駅前の一昨日も泊まったホテルニュームラコシに17:30に到着。
 今回は3100円の和室だった。それでも安い。そのせいか、すごく混んでいるようだ。
 まずは、早速足を伸ばして入れる風呂へ。
 ブログをアップできたので、これから近くのコンビニで夕食を調達してくる。

 今日は、距離は長く、午後から少し寒かったが、松前藩の参勤交代ゆかりの場所が3ヶ所もあってうれしかった。

 

奥州街道(松前道)歩き旅・1日目 

2018年11月16日 | 登山・旅行
<青森から三厩まで移動 1三厩宿~2今別宿~3平舘宿※北田旅館(28.2km)6時間10分>

 5:45、青森駅前のホテルを出て、コンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、6:15発の電車に乗った。蟹田で乗り継いで、7:46三厩駅着。

    
 津軽半島最北の駅・三厩駅。ここでバスに乗り継ぐ。

1三厩宿~2今別宿
 
 8:13、三厩の町外れの「松前街道終点之地」碑の立つ厩石公園に到着。ここが、スタート地点となる。

三厩(みんまや)宿
 本州最北の宿場で、江戸時代初期までは今別が街道の終点だったが、1717年に三厩までの道が開かれ、蝦夷地への渡海宿場となった。弘前津軽藩の船番所もここに置かれ、本陣と脇本陣もあった。津軽海峡の天候回復・風待ち場として賑わったという。
 地名は、義経伝説に由来する。三頭の龍馬が繋がれていた厩ということで、「三厩」となったという。

    
 バス停「義経寺」のそばに厩石公園があり、「松前街道終点之碑」が立っている。左の階段の上が義経寺。

    
 終点の碑の脇にあるのが厩石という岩。
 奥州厨川の戦いで生きのびた源義経が、この地までやってきて蝦夷地に渡ろうとしたが、荒天で渡れない。観音様にお祈りしたら、羽根の生えた龍馬が三頭、この岩窟に繋いであったので、龍馬に乗って蝦夷地に飛んで行ったという伝説がある。終点之碑の横には「源義経と静御前の渡道之地の碑」などもあるが、これは観光用だろう。

    
 階段を登った上にある?その伝説に由来する「龍馬山義経寺」。

    
 山門の手前から三厩漁港を見下ろす。この港が昔の蝦夷地への渡航拠点だった。

8:25、戻ってきて、いよいよ街道歩きのスタート。
 
    
 漁港向かいの山田商店。ここに、本陣の山田屋があり、三厩宿の中心地だった。

    
 旧街道の雰囲気を残す町並み。三厩から今別までは、国道とは別に、旧街道が続いていた。

    
 三厩の町外れから、今別までの海岸線に旧街道が続く。

    
 意外と近くに、北海道の松前から知内山地が見える。

2今別宿~3平館宿
    
9:35、今別宿の中心地へ入っていく。この通りも旧街道ただが、宿場の面影はない。

    
太宰治の「津軽」に登場する、1657年創建の本覚寺境内にある今別大仏。

    
 こじんまりとした今別町役場。ここに津軽藩の奉行所が置かれていたというが、その説明もないのが残念。

    
 役場の下に建っている立派な旧家。

    
 今別の町から北海道の松前から知内山地までの松前半島の山並みを望む。

    
 今別の町を抜けると、平舘まで国道280号の歩きとなる。左の岬は鋳釜崎。

    
 鋳釜崎付近に設置されていた吉田松陰23歳のときの「東北遊日記」の紹介。
 津軽海峡を外国の船が堂々と通過していることを憂い、なんとかしないといけないというようなことを書いている。

    
 袰月の集落からこれから進む海岸線を眺める。左の岬は高野崎と灯台。

    
 11:40、高野崎で休憩し、昼食の行動食を食べた。この向こうに函館山~横津連峰~恵山まで見えた。左側から右まで、松前から恵山まで見えるという感激の景観だった。

    
 岩屋観音堂。草建は不明だが、1689年の記録には、すでに観音様が祀られていたという。

    
 進む方向が南に変わると、正面に下北半島のまさかりの歯の部分が見える。

    
 平舘(たいらだて)の宇田にある霊場の日持上人渡道の銅像。1294年に蛎崎甚兵衛の案内で、ここから北海道に渡っている。ここにも、椴法華と同じホッケ伝説がある。

    
 平舘台場跡。異国船が通過したのを受けて、津軽藩が1849年に築いた台場跡。
 この前後2km以上に渡って松並木が続いている。

    
 2km以上も続く東海道の松並木を思わせるの出口に「津軽国定公園入口」の標識が立っていた。途中に「松前街道」の石碑も立っていた。

    
 平舘宿の中心地だった平舘漁港

    
 14:35、漁港の向かいにある北田旅館に到着。
 あまり早いので、その先にあった食堂で醤油ラーメンを食べてから、宿に入った。

 早く着いたが、まもなく本格的な雨が降ってきたので助かった。
 泊まりは一人だけだったのに、大きな風呂で申し訳なかったし、食事も部屋食だった。

    
 夕食。中心の鍋は津軽郷土食のけの汁。宿代は2食付きで6500円。

 途中40分ほど小雨に見舞われたが、思ったより寒くなく、しかし、汗を掻くこともなく、初日にしては、快調に歩くことができた。