昨日11月15日、
この8月に亡くなった父の百箇日を迎えた。
もう百日も経ったなんて…
早いものだな。
父がこの世にいなくなったことが、
まだ信じられないくらいなのにな。
百箇日は、
この日からは、もう泣き暮らすのをやめて
日常の生活にもどりましょう という意味をこめて
「卒哭忌」(そっこくき)
ともいうそうだ。
でも、わたしはこれまでよりも、
これからさきの方がちょくちょくめそめそしそうな気がする。
父を見送った直後よりも、
そのあとのさまざまな雑事に追われている頃よりも、
もうすっかりと日常生活に戻った(かに見える)頃から
日毎につのる、父のいないさびしさ。
もうこの世ではあうことのできないさびしさ。
こんなにも、父の顔や声やぬくもりや、
その全存在がわたしの中では色濃く生きているのに。
母にとっても、そうだと思う。
ねちねちしたところのない、
いさぎよく決断も早い父に
いつまでもめそめそするんじゃないよ
と言われそうだけど。
そう言う声や表情まで、はっきりと思い描けてしまう。
父ならどう考えるか、父ならどう言うか…
ひとりで、自分役と父役の会話をしたりする。
ひとりボケつっこみ??
そのたび、なんでおとうさんいないのよう~
と、かなしくなってしまう。
当分は、こんなかな。
あせらずぼちぼち。
心身回復するまでゆっくり。
ところで、
いつ更新されるとも知れないこのブログ、
忘れずに訪ねて下さるかたのなかには、
リアルの生活での友人・知人がポツポツとおられるようで
「ひさしぶりに新しい記事が書かれていてホッとしました」
「読んだよ~」
「もう最近は書かないの?」
などと声をかけられることが、このところちょくちょくあった。
そのたび、ひえ~と恥ずかしくなる。
ここでは、折々にわたしが考えていること 感じていることが
まるわかりだから。
「あえなくても、近況がわかるとうれしいので
また時々は書いてね!」
と言われれば、うれしいような面映いような。
気にかけてくれる人のいる、ありがたさ。
ふだんにも増して、かなり情緒不安定なこの頃ではあるけれど、
なんとか元気にやっています。
お父様はちょっと照れながら笑ってらっしゃるのではないかしら。
めそめそすんなと言葉では言いながら、さくらさんの言葉にうなずいておられるような氣がします。
ひきかえ私は親との関係が一生うまく行かなかった・行かない娘なので、さくらさんとお父様・お母様の関係は理想的だと思っちゃいます。
泣けちゃったってかまわないですよきっと!
Yumiさんのコメントに泣けちゃいました。。。
遺影の父は、いつもいい顔で笑ってくれています。
いたらぬわたしを穏やかに諭しながら、
大きく包みこみ受け容れてくれる父でした。
Yumiさん 目の回復は順調ですか。
親ごさんとの関係、
生きておられる相手なら、
わかりあうチャンスは、さいごまでありますよ。
ゆっくり時間の流れに任せて日常に戻ってくださいね。
私、口が悪いので、ついつい何か傷つけるようなこと言ってなきゃいいけど。
私も先週、健康でしかありえないと思ってた父がオペ。予後もそうよくはないらしく、オペ自体は上手くいったようだけど、いつ再発か・・ですね。
父要路7つも年上で、半身不随の母を残しての入院で、家はどうなってるのやら・・。毎週帰省しては様子見てたけど、、私も生活あるし、なかなか限界ですね。まあ事あるごとに様子伺いに行くしかできないです。父のことも母のことも、こんな風に強く生活を脅かすほど考える日が・、やっぱりくるのだなと、強く実感してます。
さくらさんのお気持ち、前よりも強く共感できてるかもしれない。
お父様のこと、話せる時は話してね。そのうち、笑って話せるよね。
うたこさんは離れて住んでおられるから、
思うように行ってあげられなくてつらいですね。
そうですか、オペはぶじにすんだけれど
再発の不安があるのですね。
誰にとっても生の終わりはあるけれど、
現実にみえてくると やはりつらいですよね。
でもわたしは、お別れの覚悟もないまま
急に訪れたかたちでなく、
お別れを意識しながらたいせつに過ごせた家族の時間があったことに
感謝していますよ。
わたしはすごいファザコンだから、
そりゃあもうつらかったし、毎日家でひとりで泣いてたけど。
うたこさんにできることをできる範囲で、
おとうさまおかあさまに尽くしてあげて下さい。
どうしてもむりをしてしまうけれど、どうかむりのないように。
わたしもそう言いきかせてきました。
(多少のむりはした…かな?
でも、そうしたいと自分が思ったことなら、それもいいと思う。
ただ、つぶれないようにだけはしないと と思っていました)
おとうさまおかあさまとの、よい時間をたくさん過ごせますように。