嬉(うれ)しさは はなし書きつつ 懐かしき 母の幼い 昔知るとき
ふるさとの話11月号を書きました。
テーマは、100年前の手辺(てへん)村の話です。
話を書くために、菅村駅一さんの本「匂うふるさと」を読み込みます。
「その昔、手辺村商売繁盛記」の中に、手辺村の商店の詳しい事が書いてあります。
その一つ、松原芳造さんの魚屋「魚芳(うおよし)」は私の母の実家です。
生きていたならば母も105歳です。100年前の手辺村のようすを書きました。
ふるさとの話11月号の後に、「匂うふるさと」の母の実家のようすも書き写します。
ふるさとの話 十一月号
昔の国府では、自分で自分をほめることを「手辺(てへん)座だ~」と言ったそうです。
今月のふるさとの話は、今から百年前、大正のの手辺(てへん)村、現在の日高町府市場のにぎわっていた頃の話です。
クイズのヒントも隠れています。
「匂うふるさと」
一冊の本があります。
母と同級生だった菅村駅一さんが書いた「匂うふるさと」という本です。母に贈られた本です。
本には、菅村さんの生まれ育った大正の昔、懐かしい「手辺村」のようすです。
水生城を陥落させ但馬守護となった羽柴秀吉の弟、秀長が、国府の地で追鳥狩に興じていた時「あれは何者の居ぞ」と、自らの「手」で「辺り」を指さします。
そこから「手辺(てへん)」と名が付きました。
「国府市場(こうのいちば)」や「手辺市(てへんいち)」が開かれたこの地域は、江戸のころ府市場、府中新はもちろん堀村までを手辺と呼んでいました。
大正のころの手辺村には商店が建ち並び、それは賑わった通りでした。
夏冬の大売り出しには、道路の両側に他町村からの露店が並び、押すな押すなの人の波、国府の人たちは何でもそろう手辺の店を利用していました。
手辺村の商店
村の入り口から商店が並びます。
人力車の「口入れ屋」、長吉さんの散髪屋は「床長(とこちょう)」、おトミさんの「髪結い屋」、中島の「木賃宿」、
よろず屋の「田結庄商店」、松原芳造さんの魚屋「魚芳(うおよし)」が並びます。戸田の「下駄屋」、菅村の「生糸屋」、
西田の食堂「辰巳亭」、その隣は「しっかい屋(和服生地の洗い張り)」、大阪から来た「洋服屋」、、神代印の「肥料店」、
酒場「一二三屋(ひふみや)」、間貸しの「宿舎」、小田垣の「米屋」が続きます。
酒とたばこ屋の「竹馬(たけば)商店」、荒物の「谷原商店」、江原と豊岡に自転車店を出した「中島豆腐屋」、
藤原春二郎さんの魚屋「魚春(うおはる)」、ようかん製造販売の「伊佐屋(いざや)菓子店」と何でもそろう店々が続きます。
さらに、保田要三郎さんの散髪屋「床要(とこよう)」、村尾老夫婦の作る「しん粉屋」、戸木の「こうもり傘の修繕屋」、
なぜか風呂屋と呼んでいた「上村散髪店」、田舎では珍しい本格的な製造菓子店の「八代(やしろ)菓子店」です。
今井さん夫婦は「米屋」と「宮大工」、永柳(えいりゅう)さんの「竹かご屋」、葛原(くずはら)さんの「こうり編み(柳行李の入れ物)」と製造販売も盛んでした。
ちきり屋と呼んだ「小林種物店」、カイコの産卵は菅村の「種蚕屋」、魚屋の「明石屋」、芸者さんがいた「花屋」、
義太夫節が聞こえる「ちくぜん」、いづしごう屋が屋号の橋本の「造り酒屋」、腕のいい甚助さんは「指し物師」、
青ノリせんべいの「戸田菓子店」、染物屋の「半七ごう屋」はいつの間にか「宮下呉服店」になっていました。
たばこ屋の「本国眼」は国眼家の本家、隣に府中郵便局です。戸田いそさんの「駄菓子屋」、田結庄の装具屋は「下丹後屋」、
天野の「石碑屋」、宮田の「宮田製めん屋」、役場を退職後に開業した戸田さんの「ホシの薬屋」、春吉じいさんの「太田垣げた屋」、
魚屋だった竹森清太郎の店が「牛肉屋」になりました。
手辺村の最後は、屋号がうらまちごう屋の「中島染め物屋」です。
府中新の商店
さらに、同じ手辺と呼んでいた府中新村には、府中銀行までの街道に「時計屋」、「新聞屋」、「肥料店」、「陶器店」、
「雑貨屋」、「薬品店」、「農具屋」、「豆腐屋」、「げた屋」、「銭湯」、「食堂」、「大工」、「しっかい屋」、「車夫」、
「髪結い」、「漆師」、「傘ちょうちん屋」、「おけ屋」が続き、堀村の村役場や登記所まで商店がありました。
大正時代の国府の中心地「手辺」の一大商店街でした。
手辺座
昔の数え歌に、「七つとせ なんでもまねする 手辺村 城下のまねして 町造り 町づくり」という歌がありました。
三味線の音が聞こえてくる花屋もありました。「手辺座」という芝居の一座もありました。手辺座は、但馬の村々を興行してまわり、とても人気がありました。
一座は大変な評判で、つい評判に乗って自分の芝居を楽屋からほめます。それがまた思わぬ人気で観客から「手辺座、手辺座」の声です。
それ以来、自分で自分をほめることを、但馬では「手辺(てへん)座だ~」と言うようになったそうです。
(菅村駅一さんの著作からまるまる写しで書きました)
孫たちに聞かせる話「続 匂(にお)うふるさと」は、菅村駅一著のふるさとの懐かしい話の載った本です。
53ページに、母の幼少期の実家の様子が描かれています。
「魚芳(うおよし)」
松原芳造(まつばらよしぞう)さんは魚屋で、人呼んで、『魚芳(うおよし)』といいました。長女のみつえちゃんとわたしは同じ年、長男の堅(けん)ちゃんは、一つ年下でした。三人は仲良しで小さい時、犬ころのようにして遊びました。
おばさんは、大正八年八月三日、そのころ大流行した感冒で、四人の子供を残して亡くなりました。みつえちゃんも堅ちゃんもわたしも、いっしょに泣きました。それからなんぼかして、次のお母さんが来ました。二度目のこのおばさんは名をトミさんといって、五荘村(ごのしょうそん)今の豊岡市伊賀谷(いがだに)の人でした。まま母というと、『まま子いじめ』など、世間の話を聞いていたわたしは、「みつえちゃんや堅ちゃんは、かわいそうだな」と子供ごころに同情しました。
仲良しの堅ちゃんは眼病を病み、いつからか遠くの病院へ行ったので、遊ぶことができずにいました。その後、「悪性の眼病だげなぜ、盲(めくら)になっちまいなるかもしれれへん」と聞きました。でも、ずっとしてから良くなって帰って来ました。
妹のはつえちゃんは、激しい腹痛をおこして毎日寝ていましたが、元気に学校へ通うようになりました。「堅ちゃんもはつえちゃんも、病気が治ったのは、おトミさんが寝ずの看病をしなったからんだげな」と近所のおばさんはいいました。
四人の子供は、おばさんを本当の親のように、「お母(かあ)ちゃん、お母ちゃん」と慕いました。おばさんも、我が生みの子のように子供たちの名を呼んで、かわいがりました。それに、このおばさんには学があり、わたしたちに、詠方(よみかた)や算術の勉強を教えてくれました。
魚芳の店は、おばさんがきれい好きで、いつも清潔でした。ですから、魚屋特有の大きな金ばいが、店に並べた魚類に、止まっているのを見たことがありません。「魚芳の魚は、気持ち良う安心して食べれる」と母は刺身やへしこを、ここから買いました。
店は、おばさんが来てからだんだん繁盛して、やっこだこ、こまなどのおもちゃに食塩も売りました。この時代の塩は、今の精製塩のように純白微粒子の、さらさらした物ではありませんでした。店の隅に、丸竹のすのこの上に自然塩を入れた俵が五、六俵、小売り用の半切り俵も置かれ、塩のにがりがコンクリートの溝を少しずつ、いつの間にか土間の埋めつぼに、たまりました。
また、のちには、おばさんの誠心誠意な仕事ぶりを知って、祝儀や会合の仕出し料理を注文する客ができるまでに、信用がついてきました。こうして、魚芳のおトミさんは、まま子をいじめどころか、良妻賢母でありました。〈「手辺村商売繁盛記」より〉