(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(6)
「なでしこ」の誕生(6)母・清子の想い出
(桐生市に残る古い街並みが、国によって「伝統的建築群」のひとつとして、認定をされました。
画像はそのひとつで、2丁目にある、大正時代に建てられた建物のひとつです)
時間が少し戻ります。
幸子の母、提橋(さげはし)清子が、
なでしこ保育園を立ち上げるまでのいきさつについて少しまとめたいと思います。
清子は戦前から教員として、
地元の小学校で、教育の仕事にかかわってきました。
厳しかった軍国主義統制からようやく解放をされ、戦後の民主主義教育へ
急転換したことに、たいへんな戸惑いを覚えながらも、ひきつづき教壇に立ち続けました。
そして昭和24年になってから、降ってわいたような遅めの結婚と妊娠をきっかけに、
惜しまれながらも退職をし、主婦業へと転身をしました。
長女の幸子が生まれたころに、
壇家でもある寺院・長寿院で、
市内では初めてとなる、私立の認可保育園が誕生をしました。
世襲したばかりの住職とは同級生という間柄も有り、旧知の仲だったことから
懇願されて、臨時の保母として勤めることになりました。
これがきっかけとなり、これ以降長きにわたって、保育にかかわる道を
歩き始めることになります。
新憲法のもと、保育にかかわる施設なども、
まだ法的な整備が進められている最中のことです。
保母と言う名の職業自体も、まだ確立をしていない時代のことでした。
これに先だつ、昭和23年に、厚生省(現在の厚労省)から
児童福祉法に基づいたはじめての法令、「保育所保育方針」が出されています。
この法令に基づいて、保育に欠ける子供たちのための施設としての保育所の設置が、
全国の各地で一斉にはじまることになりました。
もう一方で、就学前の準備教育の場として、
文部省の主導のもとで、公立幼稚園の設置とその運営などもはじまりました。
こちらは本格的な幼児教育の場所と機会が、日本に初めて誕生したことを意味しています。
こうして、保育所は厚生省、幼稚園は文部省という二元化のもとで、
日本の幼児期教育が、先進国の世界からはかなり遅れて、ようやくスタートをします。
育児や躾(しつけ)が、従来の家庭内の母親任せから、
社会全体の課題としてとらえられ、見直されるきっかけも生み出します。
この時代に、保育所建設を熱望する母親たちによって
「ポストの数ほど保育所を」という、有名なスローガンが生み出されました。
1960年代は、高度経済成長のもとで
もっとも急速に日本における都市への集中と、核家族化がすすんだ時代になりました。
母親が外で働くためには、子どもを預ける施設が必要となります。
こうした多くの要望を背景に保育所や保育園が、各地で急ピッチで作られるようになりました。
全国各地で「子どもたちに行き届いた保育を」と願う、ねばりつよい運動が
多彩な形で繰り広げられたのも、ちょうどこの頃の出来ごとです。
しかし同時に、大きな欠陥も有りました。
3歳児、4歳児の時は保育園で過ごし、5歳児や6歳児から幼稚園へ進むというのが、
この当時での一般的な、就学前の子供たちを受けいれるための構図です。
この時代にはそれ以前の、ゼロ歳児や1~2歳児を受け入れてくれる保育園や
保育所は、ただのひとつとして公式には存在をしていません。
当時に流行した、寿(ことぶき)退社という慣例は、
結婚すれば、子育てのために女性が退職を余儀なくされるという意味をもっていました。
多くの共働きの家庭では、子供を産む時期を大幅に遅らせるか、
親の手助けを借りて育児をするしか、生まれたばかりの子供を面倒をみる方法がありません。
若い世代と若い夫婦は、ゼロ歳児や一歳児を抱え込み四苦八苦のやりくりをしながら、
共働きの生活を継続させていたのです。
乳飲み子を抱えた母親たちが、産休明けからの保育を熱望しても、
1960年代には、それを受け入れてくれる公立の施設や、民間の保育園はおろか、
それを取り扱う行政の窓口自体すら、ひとつとして世間に存在をしていませんでした。
70年代の初頭になってから、小さな地方都市のひとつにすぎない桐生市で
全国的にも珍しい、ゼロ歳児と一歳児を預かってくれる保育所が誕生することになります。
しかもそこでは、夜間保育を中心とするという実に特殊な形態も生みだされました。
こうしたきっかけを生みだしたのは、
全国に急展開を続けていたある企業にとるキャバレーグループの存在でした。
桐生の繁華街・「仲町通り」へ、このキャバレーグループが進出してきたことが、
此処へ、初めての深夜の乳幼児保育の施設を生み出すことになりました。
(こちらも、同じくそのひとつです)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
「なでしこ」の誕生(6)母・清子の想い出
(桐生市に残る古い街並みが、国によって「伝統的建築群」のひとつとして、認定をされました。
画像はそのひとつで、2丁目にある、大正時代に建てられた建物のひとつです)
時間が少し戻ります。
幸子の母、提橋(さげはし)清子が、
なでしこ保育園を立ち上げるまでのいきさつについて少しまとめたいと思います。
清子は戦前から教員として、
地元の小学校で、教育の仕事にかかわってきました。
厳しかった軍国主義統制からようやく解放をされ、戦後の民主主義教育へ
急転換したことに、たいへんな戸惑いを覚えながらも、ひきつづき教壇に立ち続けました。
そして昭和24年になってから、降ってわいたような遅めの結婚と妊娠をきっかけに、
惜しまれながらも退職をし、主婦業へと転身をしました。
長女の幸子が生まれたころに、
壇家でもある寺院・長寿院で、
市内では初めてとなる、私立の認可保育園が誕生をしました。
世襲したばかりの住職とは同級生という間柄も有り、旧知の仲だったことから
懇願されて、臨時の保母として勤めることになりました。
これがきっかけとなり、これ以降長きにわたって、保育にかかわる道を
歩き始めることになります。
新憲法のもと、保育にかかわる施設なども、
まだ法的な整備が進められている最中のことです。
保母と言う名の職業自体も、まだ確立をしていない時代のことでした。
これに先だつ、昭和23年に、厚生省(現在の厚労省)から
児童福祉法に基づいたはじめての法令、「保育所保育方針」が出されています。
この法令に基づいて、保育に欠ける子供たちのための施設としての保育所の設置が、
全国の各地で一斉にはじまることになりました。
もう一方で、就学前の準備教育の場として、
文部省の主導のもとで、公立幼稚園の設置とその運営などもはじまりました。
こちらは本格的な幼児教育の場所と機会が、日本に初めて誕生したことを意味しています。
こうして、保育所は厚生省、幼稚園は文部省という二元化のもとで、
日本の幼児期教育が、先進国の世界からはかなり遅れて、ようやくスタートをします。
育児や躾(しつけ)が、従来の家庭内の母親任せから、
社会全体の課題としてとらえられ、見直されるきっかけも生み出します。
この時代に、保育所建設を熱望する母親たちによって
「ポストの数ほど保育所を」という、有名なスローガンが生み出されました。
1960年代は、高度経済成長のもとで
もっとも急速に日本における都市への集中と、核家族化がすすんだ時代になりました。
母親が外で働くためには、子どもを預ける施設が必要となります。
こうした多くの要望を背景に保育所や保育園が、各地で急ピッチで作られるようになりました。
全国各地で「子どもたちに行き届いた保育を」と願う、ねばりつよい運動が
多彩な形で繰り広げられたのも、ちょうどこの頃の出来ごとです。
しかし同時に、大きな欠陥も有りました。
3歳児、4歳児の時は保育園で過ごし、5歳児や6歳児から幼稚園へ進むというのが、
この当時での一般的な、就学前の子供たちを受けいれるための構図です。
この時代にはそれ以前の、ゼロ歳児や1~2歳児を受け入れてくれる保育園や
保育所は、ただのひとつとして公式には存在をしていません。
当時に流行した、寿(ことぶき)退社という慣例は、
結婚すれば、子育てのために女性が退職を余儀なくされるという意味をもっていました。
多くの共働きの家庭では、子供を産む時期を大幅に遅らせるか、
親の手助けを借りて育児をするしか、生まれたばかりの子供を面倒をみる方法がありません。
若い世代と若い夫婦は、ゼロ歳児や一歳児を抱え込み四苦八苦のやりくりをしながら、
共働きの生活を継続させていたのです。
乳飲み子を抱えた母親たちが、産休明けからの保育を熱望しても、
1960年代には、それを受け入れてくれる公立の施設や、民間の保育園はおろか、
それを取り扱う行政の窓口自体すら、ひとつとして世間に存在をしていませんでした。
70年代の初頭になってから、小さな地方都市のひとつにすぎない桐生市で
全国的にも珍しい、ゼロ歳児と一歳児を預かってくれる保育所が誕生することになります。
しかもそこでは、夜間保育を中心とするという実に特殊な形態も生みだされました。
こうしたきっかけを生みだしたのは、
全国に急展開を続けていたある企業にとるキャバレーグループの存在でした。
桐生の繁華街・「仲町通り」へ、このキャバレーグループが進出してきたことが、
此処へ、初めての深夜の乳幼児保育の施設を生み出すことになりました。
(こちらも、同じくそのひとつです)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/