(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(16)
レイコの覚書(2)ベビーホテルとは
(大韓航空機事故の慰霊碑です)
田口 八重子さんは、
1955年の8月10日に、東京都で生まれました。
22歳になった1978年の6月ごろ、飲食店の仕事に向かうために、
ベビーホテルへ2人の子供を預けたまま、行方不明になってしまいます。
しかし(この当時には)只の主婦の失踪事件として取り扱われました。
1985年に起こった、大韓航空機爆破未遂事件の犯人、
金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚に、日本語を教えた女性、李恩恵(リ・ウネ)の
似顔絵が、田口さんに酷似していることから再び世間が騒然となります。
会話内容などからも、田口さんの失踪当時の状況と良く似ていることから、
北朝鮮に拉致されたことが、ついに発覚をします。
この拉致事件とともに、
この当時に大きな注目を集めたのが
頻繁に取り上げられた「ベビーホテル」という存在です。
ベビーホテルとは、無認可保育所の一つです。
ビルの一室などで子どもの一時預かりをしている、商業的な施設のことを指しています。
保護者とは個別に契約をして、夜間遅くまで預かったり、
24時間の保育を実施している所などもあります。
しかしこうしたベビーホテルの急増が、
一方で、乳幼児たちの頻発な死傷事故を生みだしました。
1970年代から80年代にかけては、これが大きな社会問題にもなります。
夜間に働く保護者が利用しているケースなどが多く、
松山市で発生した認可外保育施設での、乳児死亡事故を一つの契機として、
ベビーホテル問題が、国会でもしばしば取り上げられるようになります。
1980(昭和55年)に行われた実態調査では、
全国には、500ヶ所のベビーホテルが存在し、その大半が劣悪な環境のもとに、
保育が行われていたことが明らかになりました。
こうしたことから1981(昭和56)年に、児童福祉法の一部が改正されました。
従来から指導や監督の権限がおよばなかった無認可保育施設へも、
行政による指導監督権が、行使できるように改正がされました。
また「無認可保育施設に対する当面の指導基準」があらためて定められました。
それらの効果の甲斐もあって、以前のような劣悪な保育施設は
ほとんどなくなったと言われています。
ベビーホテルという呼び名は、
これらの一連の出来事が社会問題となったころにつけられた名前で、
今日では、そのように名乗っているところはほとんどありません。
この頃に、乳幼児施設やベビーホテル等で相次いで深刻な事故や事件が続いたために、
日本弁護士会では事態を懸念して、以下のような声明を発表しました。
(以下、原文をそのまま掲載します)
最近無認可保育所、ベビーホテルが急激に増加し、
これらの施設に預けられた乳幼児の痛ましい死亡事故が
続発しているのは憂慮に耐えない。
このような乳幼児の死亡事故多発の原因は、
営利を目的とした無資格保育者が、劣悪な施設に乳幼児を預け、
日の当らない店舗の2階、ビルの一室等に多数の乳幼児を詰めこみ、
保育室には常に保育者が在室するという原則を守らず、
乳幼児がうつ伏せになっていても放置し、
病気になっても十分な看護をせず、
甚だしいときは、乳幼児が死亡していても気付かないなど
その責任を果たさないことによるものである。
また、このような劣悪な施設では、
事故につながらない場合でも、自閉症など心身に障害が現われる例も多くみられ、
乳幼児の心身の健全な成長発達を期待することはできない。
これはまさに乳幼児の生存権(成長発達権)に対する侵害である。
かかる問題の多い営利的な乳幼児産業の発生を許したのは、
社会が複雑化し、婦人労働が多様化して、産休明け保育、
長時間及び夜間保育等の保育需要が高まっているにもかかわらず
国及び地方公共団体が、家庭保育中心の思想から脱しきれず、
公的保育施設を十分整備しないままに、無認可保育施設、ベビーホテルを黙認し、
保育需要に十分な対応をしなかったことによるものであり、
その責任はきわめて重大である。
乳幼児の保育行政について責任のある国及び地方公共団体は、
このような悲劇が発生した原因が貧しい保育行政にあることに思いを致し、
労働条件の向上にとりくむとともに、改善を要する施設に対しては、
暫定措置として、新たに保育需要の実情にそう基準を設け、期間を限り、
都道府県知事に対する届出を義務づけて十分な調査・監督をするとともに、
更に抜本的には公私立の認可保育所、乳児院を増設し、
保育時間を延長し、夜間保育体制を整備して乳幼児を収容するなど、
恒久的総合的対策を講ずるべきである。
当連合会は、これまで人権擁護委員会内の社会保障問題調査研究委員会において、
無認可保育所ベビーホテルに関する法的諸問題について調査研究をしてきたが、
乳幼児に対するかかる人権侵害をなくすために
一層の努力を続けていく所存である。
1981年(昭和56年)5月1日
日本弁護士連合会
会長 谷川八郎
これもまた、日本の保育の歴史に残る事件の一つです。
日本は先進国の中では、子供の成長をめぐる社会的基盤整備が、
きわめて遅れた国のひとつです。
教育や福祉に関しての無情な予算の削減や切り捨ては、枚挙にいとまがありません。
終戦後にスタートした日本の保育園の歴史は、
法の整備や補助や援助の遅れから、公立と私立での大きな格差を生み出し、
さらに無認可保育園においては、そのほとんどが赤字経営に近いという
厳しい実態を生み出しました。
しかし、そうした一方で、
子供を抱え働く母親たちや、すこやかな我が子の成長を願うおおくの母親たちが
さまざまな困難を乗り越えながら、逞しく行動をしていたのも
またこの時代の、きわめて大きな特徴でした。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
レイコの覚書(2)ベビーホテルとは
(大韓航空機事故の慰霊碑です)
田口 八重子さんは、
1955年の8月10日に、東京都で生まれました。
22歳になった1978年の6月ごろ、飲食店の仕事に向かうために、
ベビーホテルへ2人の子供を預けたまま、行方不明になってしまいます。
しかし(この当時には)只の主婦の失踪事件として取り扱われました。
1985年に起こった、大韓航空機爆破未遂事件の犯人、
金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚に、日本語を教えた女性、李恩恵(リ・ウネ)の
似顔絵が、田口さんに酷似していることから再び世間が騒然となります。
会話内容などからも、田口さんの失踪当時の状況と良く似ていることから、
北朝鮮に拉致されたことが、ついに発覚をします。
この拉致事件とともに、
この当時に大きな注目を集めたのが
頻繁に取り上げられた「ベビーホテル」という存在です。
ベビーホテルとは、無認可保育所の一つです。
ビルの一室などで子どもの一時預かりをしている、商業的な施設のことを指しています。
保護者とは個別に契約をして、夜間遅くまで預かったり、
24時間の保育を実施している所などもあります。
しかしこうしたベビーホテルの急増が、
一方で、乳幼児たちの頻発な死傷事故を生みだしました。
1970年代から80年代にかけては、これが大きな社会問題にもなります。
夜間に働く保護者が利用しているケースなどが多く、
松山市で発生した認可外保育施設での、乳児死亡事故を一つの契機として、
ベビーホテル問題が、国会でもしばしば取り上げられるようになります。
1980(昭和55年)に行われた実態調査では、
全国には、500ヶ所のベビーホテルが存在し、その大半が劣悪な環境のもとに、
保育が行われていたことが明らかになりました。
こうしたことから1981(昭和56)年に、児童福祉法の一部が改正されました。
従来から指導や監督の権限がおよばなかった無認可保育施設へも、
行政による指導監督権が、行使できるように改正がされました。
また「無認可保育施設に対する当面の指導基準」があらためて定められました。
それらの効果の甲斐もあって、以前のような劣悪な保育施設は
ほとんどなくなったと言われています。
ベビーホテルという呼び名は、
これらの一連の出来事が社会問題となったころにつけられた名前で、
今日では、そのように名乗っているところはほとんどありません。
この頃に、乳幼児施設やベビーホテル等で相次いで深刻な事故や事件が続いたために、
日本弁護士会では事態を懸念して、以下のような声明を発表しました。
(以下、原文をそのまま掲載します)
最近無認可保育所、ベビーホテルが急激に増加し、
これらの施設に預けられた乳幼児の痛ましい死亡事故が
続発しているのは憂慮に耐えない。
このような乳幼児の死亡事故多発の原因は、
営利を目的とした無資格保育者が、劣悪な施設に乳幼児を預け、
日の当らない店舗の2階、ビルの一室等に多数の乳幼児を詰めこみ、
保育室には常に保育者が在室するという原則を守らず、
乳幼児がうつ伏せになっていても放置し、
病気になっても十分な看護をせず、
甚だしいときは、乳幼児が死亡していても気付かないなど
その責任を果たさないことによるものである。
また、このような劣悪な施設では、
事故につながらない場合でも、自閉症など心身に障害が現われる例も多くみられ、
乳幼児の心身の健全な成長発達を期待することはできない。
これはまさに乳幼児の生存権(成長発達権)に対する侵害である。
かかる問題の多い営利的な乳幼児産業の発生を許したのは、
社会が複雑化し、婦人労働が多様化して、産休明け保育、
長時間及び夜間保育等の保育需要が高まっているにもかかわらず
国及び地方公共団体が、家庭保育中心の思想から脱しきれず、
公的保育施設を十分整備しないままに、無認可保育施設、ベビーホテルを黙認し、
保育需要に十分な対応をしなかったことによるものであり、
その責任はきわめて重大である。
乳幼児の保育行政について責任のある国及び地方公共団体は、
このような悲劇が発生した原因が貧しい保育行政にあることに思いを致し、
労働条件の向上にとりくむとともに、改善を要する施設に対しては、
暫定措置として、新たに保育需要の実情にそう基準を設け、期間を限り、
都道府県知事に対する届出を義務づけて十分な調査・監督をするとともに、
更に抜本的には公私立の認可保育所、乳児院を増設し、
保育時間を延長し、夜間保育体制を整備して乳幼児を収容するなど、
恒久的総合的対策を講ずるべきである。
当連合会は、これまで人権擁護委員会内の社会保障問題調査研究委員会において、
無認可保育所ベビーホテルに関する法的諸問題について調査研究をしてきたが、
乳幼児に対するかかる人権侵害をなくすために
一層の努力を続けていく所存である。
1981年(昭和56年)5月1日
日本弁護士連合会
会長 谷川八郎
これもまた、日本の保育の歴史に残る事件の一つです。
日本は先進国の中では、子供の成長をめぐる社会的基盤整備が、
きわめて遅れた国のひとつです。
教育や福祉に関しての無情な予算の削減や切り捨ては、枚挙にいとまがありません。
終戦後にスタートした日本の保育園の歴史は、
法の整備や補助や援助の遅れから、公立と私立での大きな格差を生み出し、
さらに無認可保育園においては、そのほとんどが赤字経営に近いという
厳しい実態を生み出しました。
しかし、そうした一方で、
子供を抱え働く母親たちや、すこやかな我が子の成長を願うおおくの母親たちが
さまざまな困難を乗り越えながら、逞しく行動をしていたのも
またこの時代の、きわめて大きな特徴でした。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/