いわき・うぶすな広場だより

セカンドライフの生き方を書いています。

天田愚庵と大須賀筠軒(いんけん)

2010-05-18 18:57:24 | なるほど歴史塾

波立寺にあります大須賀筠軒の漢詩碑です。

4月25日に
いわき地域学會の春の巡検・・・大須賀筠軒と「苗湖分溝八図横巻」として、
見学会が行われましたが、
いのしし君は、
いわき市生涯学習プラザのパソコンのボランティアとダブり
参加できませんで残念でした。
その後、
波立寺に行き、大須賀筠軒の漢詩碑をみてきました。
漢詩集「舟門漁唱」の中の「漁隠雑興」の一節から刻まれています。

大須賀筠軒とは:
神林復所の三男で大須賀家に入婿しました。
愚庵は筠軒さんの兄の惺斎に佑賢堂の大教授に師事しました。
江戸に出て、林家の門人になり、
維新後は、役人・第2高等学校の教授などを務めました。
磐城の歴史・様々な民俗などにすぐれた著作を書き残しました
郷土第一の文人で、
漢詩は中央でも知られ、
愚庵の最も敬愛する先輩の一人でもあり、
巡礼日記の序文も書いています。

又エピソードとして、
巡礼日記に出発する約半年前、
明治26年(1893年)春・・・日清戦争の前年です。
京都清水の産寧坂の愚庵の家を大須賀筠軒が訪ねてきました。
愚庵の喜びはいかがでしたでしょうか。
「筠軒先生 見訪」と題する愚庵の五言律詩があります。
「見訪」の表現に尊敬の言葉が感じられます。
愚庵40歳、筠軒53歳、
何を語ったのでしょうか。
興味がありますね。
愚庵は10年ほど前には「東海遊侠伝」・・・清水次郎長一代記を書き。
筠軒は前年に「磐城誌料歳時民俗記」を脱稿していますので、
夜を徹して語り明かしたと想像されます。

その半年後、彼岸の日に
天田愚庵は
西国三十三観音巡礼に出るわけです。

 

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山岡鉄舟

2010-05-18 08:31:41 | なるほど歴史塾

全生庵にあります「山岡鉄舟」のお墓です。
近くには鉄舟の関係で「三遊亭円朝」のお墓もあります。
(1839年・天保10年~1900年・明治33年・・・東京都指定旧跡です。
)

今回の「なるほど歴史塾」で
いのしし君の廻るメーンは
今学んでいます「天田愚庵の巡礼日記」の天田愚庵の大恩人が
山岡鉄舟ですので、
そのお墓をみてみたいのが一つ。
2つ目は、
昨年1年間学びました「渋沢栄一」のお墓をみるのが目的でした。

天田愚庵とは:
いわき平藩主安藤信正の家中で、
戊辰戦争で行方不明となった両親と妹を探して
全国を回りながら多くの人々と出会う中で山岡鉄舟を知り、
その関係で、
清水次郎長の養子にもなり東海遊侠伝を書き、
その後、34歳で禅僧になる時もその影響を受けました。
禅僧になり万葉集の歌をつくり
正岡子規に影響を与えるなどしました。

山岡鉄舟とは
天保7年6月10日(1836年7月23日)~明治21年(1888年)7月19日
幕臣・政治家・思想家で、爵位は子爵で剣・禅・書の達人として有名で
明治維新での江戸城無血開城の立役者として知られます。
天田愚庵(当時は五郎)が明治5年小池祥敬の紹介で運命的な出会いをします。
この出会いがなければ、
禅僧愚庵のようなスケールの大きな人物は世に出なかったといわれています。
・・・相馬御風の言葉より
当時の鉄舟は明治天皇の側近とし活躍していました。
その後の五郎の行動に手を焼きながらも
鉄舟は五郎を愛しました。
考えられない事でした。
おなじ幕臣でもあり、鉄舟はその後、新政府に任官しましたが、
五郎は両親と妹を探す姿に感じるところがあったと思いますが…

天田愚案の庵は京都より先達の努力で
いわき市平の松ヶ岡公園下に移築されています。

正岡子規に影響を与えた歌人として、
もっと知られていいのにと感じます。
地元のいわき市民でも
なかなか知らないこの頃です。
残念です!!

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