@資金(お金)は会社を如何様にでも操作できるが、その会社の成長は人材だ。三菱創設者の岩崎弥太郎と現みずほ銀行等多くの銀行・企業を起こした渋沢栄一の「資本の倫理」VS「資本の論理」はなかなか起業と経営の視点で面白い。岩崎と渋沢は会社を作れどその組織そのものが全く異なっておりどちらも「起業し生き抜く為の正道」である。「人材」を重要視した経営に支点をおいた岩崎と「資本」による会社運営と組織構築の渋沢は、最終的に日本郵船株式会社で統合され、渋沢の「資本」が最初勝利と見えたが、渋沢の資本(株)を大量に購入していた岩崎が逆転勝利するという番狂わせがある。株式会社というものは実に簡単に「金」(資本)で変わってしまう(昨日の敵は今日の友)世の中になってしまった。しかるに「人材」は選択肢がある。
- 岩崎弥太郎と渋沢栄一という相克する思想者による起業・企業論
- イギリスの最初の株式会社は1555年「イギリス東インド会社」
- 1680年のイギリスには株式会社として11社設立された
- 1695年貨幣の悪鋳造で、株が暴落7割が倒産、40社が生き残る
- 日本の株式原型は小栗忠順の1865年「日仏組合商法」「兵庫商会」
- 「兵庫商会」大阪の豪商からの出資、だが幕府の御用金と見られ失敗
- 「坂本龍馬」
- (1835年生まれ)の「海援隊」(うみたすけたいと読む)が最初の会社組織の原型となる。坂本原型は1865年の「亀山社中」長州・薩摩武器・穀物等の運搬、「いろは事件」紀州藩船舶と衝突、沈没で土佐藩を巻き込み賠償交渉。賠償金は龍馬死後に支払われるが、同士の陸奥宗光により復興、陸奥は海援隊約規を商法の愚庵として近代化組織を作り上げた
- 「岩崎弥太郎」
- 1634年生まれ(三菱グループの創氏)土佐商会から長崎を舞台に頭角を表すが、後藤象二郎の借金(尻拭い=18万両)を肩代わりに命名、その後貿易業務と待合政治(公的な場ではなく待合茶屋での私的談合・接待)で外国取引を優先、芸妓を紹介、金・酒・女で旗をあげる。会社名を土佐商会(土佐藩)廃藩置県により九十九商会へと変名、三ツ川商会、その後三菱商会と変更。一家事業且つ専制独占主義組織とし、すべてを岩崎家のものとし、利益を含め経営全般を弥太郎が独占支配にした。吉岡鉱山は収益が海運業だけでは苦しかったのを助けた。海運業ではその後国の台湾征伐で運搬を独占し、船舶等も手に入れた。その後諸外国から貿易も国の権限を抱き込み独占、西南戦争では国に船舶の購入資金を融資してもらなどで日本での海運業を独占するようになる。実力主義を経営の基盤にし多くの学歴者を福沢諭吉の慶應義塾から雇った。また信賞必罰も厳しく、徹底した倹約で、紙一枚の個人使用で当時の15円(3人分米代)を部下に課した。弥太郎は運搬業務に派生するサービス(保管、保険、代金回収)でもあらゆる観点から海運中心で儲かるように自社内の利用させるように(横暴)徹底した。
- 「渋沢栄一」
- 1840年生まれ、親の養蚕業を14歳で独立、一橋家家臣になり財政難を乗り越えた、それは年貢米の売り方(酒屋に直売)、木綿も藩札を出し大阪の問屋との直売等で勘定組頭となる。1867年フランスに7ヶ月間滞在、徳川慶喜の弟昭武15歳、渋沢は出納管理者として同行する。フランスでの興味はライフラインで紙幣制度、ガス、上下水道、建物、女性に、着目は四民平等であった。同行したフランス人のラエール(在仏名誉領事)からは民間の銀行業務や金融の仕組み知識を吸収し、その後日本での「合本組織」(多くの人が出資)である(ストックカンパニー)を数多く設立することになる
- 博覧会、1851年にロンドンで最初開催、フランスでは1855年と1867年の2回パリで開催された。パリでのジャポニズムの開花で画家のゴッホ、モネ、ゴーギャン、スーラに人気。中でもガスを使った気球を使い浮遊、長時間潜水する水夫などに興味。
- 「商法会所」には2つの目的
- 「商法に組み込」(資本金出資)
- 「金利取」(信託預金)
- 「通称会社」地域における企業・商品の仲介・外国商人との貿易
- 「為替会社」(銀行)には三井組、小野組、島田組が中心となった
- 最初の株式会社は「通称会社」「為替会社」を基盤とした
- 証券制度・重役制度・株主の責任範囲を制度化する
- 「丸善」(明治2年設立)
- 美濃国の医師早矢仕有的が書籍販売発祥
- 丸屋善八が丸善となる
- 「築地ホテル」1804年
- 清水屋(清水建設)喜助が小栗忠順のもと出資者による出資金2500両(総工費3万両)で立ち上げ1872年4年で焼失した
- 渋沢の「道徳経済合一」は道徳=論語、経済=算盤とした。その後大蔵省に入管し、「会社弁」「立会略則」を編集、銀行の基本業務・規則等を綴った。その後起業家・銀行家として多くの企業を立ち上げたが退職後、中でも養育院での院長が55年間あり社会福祉事業に力を注いだ。渋沢は第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立。(銀行の名称数値は「国立銀行条例」による規則で設立した順番を示し「国立」とは国の法律で設立したことで国からの資本等は一切関係がない。)
- 渋沢(39歳)と岩崎(45歳)との海運業について会談
- 共同運輸会社の「合本組織」と三菱「専制的組織」
- 価格競争となり双方がチキンゲームを創出、最終的に合併となるが、「合本組織」への移行となり三菱の海運は失くなり日本郵船株式会社となる。三菱500万、共同600万、社長は共同の森岡。だが三菱は共同の株過半数を持っており、その後三菱が代表権を得て、結局三菱体制になってしまう。「資本の論理か倫理か」
- アニマル・スピリッツ「活動を欲する自生的衝動」が必要
- 弥太郎はその日本郵船が設立した日にはこの世を去っていた、1885年、51歳胃がん
- 渋沢栄一は1931年、91歳の生涯だった