@「武士の一分」武士の意地・忠義など時代劇には「武士道」なる「道」についてのストーリー・映画も多く、「武士の一分」とは「侍が命をかけて守らなければならない名誉や面目」とある。藩主からの命令は絶対で、失敗すれば切腹を覚悟とした。仇討ちについてもなるほどと思える条件・規則(「卑属の仇を尊属討つべからず」=子の仇を親は討てない。弟の仇を兄が討つ、甥の仇を叔父が討つことはともに禁止されている)がある。助っ人にはどれほどの条件があったかは定かではないが、助っ人次第で「返り討ち」の場合も多かったのではないかと思うが、その場合は処分の沙汰なく生かされたのだろうか。
話は、現代。昔も今も経済復興させる最短の知略は「戦争を仕掛ける」こととある。消費不足、経済不安定時に「戦争」が一番の好景気を招くと言われているが、今の時代それに見合う知略があるだろうか。韓国・アメリカの大統領の如く、前任者の施策を悉く批判、反対、破壊することが一番の近道に写っているが、そこでの犠牲がその先どのような形で現れるだろうか。ましてや日本の経済は? 安倍政権ではあらゆる諸税新設で結局「増税」(庶民の財布は入りが少なく減る一方)しか写っていないがそろそろ「反復」(「政治家の一分」)の動きがでてもいい頃合いだろう。
- 徳川家康(大御所)が駿府城にて1616年4月17日75歳にて亡くなる。第2代秀忠、第3代家光へと繋がれるが、家康の隠し子長男土井大炊助(老中)が幕府の基盤を確立するためにさまざま事件等を解決していく小説
- 家康が土井を枕元に呼び問う
- 「儂が死んだらどうなる」「人はいつか死ぬのだ。まして70の年を超えればいつ死んでも不思議ではない。」
- 土井は幕府仕上げの健白書を作り家康に提出
- 第2代将軍秀忠は、土井は隠し子で長男だと話す。奥の侍女の子(於義丸)のちの結城秀康を家臣本田作左衛門に匿わせ、戦場では近習として秀忠の使番として仕え、幕政の枢機とした
- 再度家康は土井を枕元に呼び「幕府はそちの物と思ってよい。思うがままに作れ。それを成し遂げるものはいない」「善悪を越えよ。儂の子、孫、一族たりと気遣いは無用、非違は容赦なくてつけつして、外様への見せしめとせよ。譜代、幕閣たりと同様。幕威と幕政に妨げとなる者は遠慮なくすることなく除け。世に最も悪なるは、世人の批判を怖れて何もせず、便便と職に居座る者だ。」
- 「儂が累代の侍共に薄かったのは、己の功績をひけらかすばかりか、浪費に耽り、富力に奢って将軍をないがしろにする。旗本等の大名は貧なるがゆえに節検を旨としお互いに心を合わせ、将軍を主人と仰いで外様の大名を見下すのだ。すべて譜代の家来の質実剛健に依る。あやつらを富ましてはならぬ。」「譜代の大名・旗本は薄禄でおく代わり、権威・権力を委ねるのだ。幕閣は10万石以下の譜代大名に限れ。諸奉行その他の役向きはすべて旗本を当てよ。50万石の大大名も政務には関与できず、将軍・幕閣に低頭拝跪するのだ」
- 外様大名を承服させる為、譜代を富ませない仕組みを作った。譜代が質実剛健、貧に耐える姿を見せつけなくては、外様は浪費・乱費に堪えてかねて乱を起こすと予測した。
- 家康の最後の仕組みを土井に託した。それは耳元に土井を寄せ、周りに聞こえないように話す、「事の終始あり」として土井の思いのままできる仕掛けつくりは家康の遺言だったとした。
- 池田家の相続問題が後の「旗本vs外様」(河合一族と池田家)へと大きく展開、死者を出す大問題となるや幕閣への圧力と武士と武士の意地のぶつかり合いが激しくなる。池田家は敵討ちをするべく土井老中・柳生幕臣の後ろ盾を受け荒木又左衛門の助太刀を立て戦う。
- 藩主の相続・家督(長男)は家の一大事でその為の策略が幕府、藩内では毒殺、暗殺、養子縁組など、藩の取潰し、国替え、半知減領、絶家、改易等で大混乱を招いた。
- 「仇の条件」
- 「卑属の仇を尊属討つべからず」=子の仇を親は討てない。弟の仇を兄が討つ、甥の仇を叔父が討つことはともに禁止されている
- 「柳生新陰流」(将軍剣術指南)はお止め流として他流の披見を許さない剣法(稽古の仕方を見せない)
- 「参勤交代」外様の負担
- 加賀百万石の参勤交代には6千名の共
- 肥後細川家では2トンの自然石の手水鉢を運んだ
- 薩摩島津家では15センチ厚の総檜の浴槽を運送
- 「戦いを仕組む理由」
- 「人には生業の道というのがある。絶えず戦いが起きればそれに応じた物を作り、売る。鉄砲・刀槍・弓矢弾・具足・馬具・小袖・脚絆・足袋・草鞋・兵糧米など、作れば作るほど競って贖う。いきなり泰平になると物は余り、値崩れし買い手が無くなる。庶民は悉く食い詰める。人は飢え、餓える。庶民が路頭に迷う。盗み、押し込み、強盗を働くのだ」
- 「江戸遊郭」
- 風紀錯乱(猥雑化防止)の是正策は、遊女に歌道、筆法、画道、香道、茶道、行儀作法など高い教養を身につけさせた
- 「鎖国をした理由」
- 幕府の基礎が固まっておらず、到底異国からの攻撃を防げない
- 物不足で金銀が流出してしまう
- 「人の間違いの始めは一髪の差である。大事なのは事の始まりであり、誤ちを改むるに憚る事勿れだ」
- 「武士は忠義が第一」
- 「人が作り出した状況は、人の知恵で打開できぬ事はない」
- 伊賀上野で交錯する「鍵屋の辻」の仇打ち
- 柳生道場剣客・荒木又右衛門が池田家の助っ人として仇打ちを果たす
- 又五郎事件が発生して5年、当初は些細な同輩同士の刃傷沙汰であったが、渡辺源太夫を殺害した河合又五郎が、武士らしくその場で自裁し果てたら一夜の悪夢として終結した。が事件は天下の直参、旗本衆と、外様衆が血と血を争いとなりお互いのその家名と半の命運をかける事態となった
- 「3代将軍家光の上洛」
- 総勢30万7千人、江戸から京都40日間かけて朝廷に赴く
- 朝廷御所領は11万石、京の町3万7千3百13軒
- 上洛に当たり御料、銀5千両を町に下給した
- 大阪、堺、奈良の住民には年貢・課税を1年間免除した
- 江戸に帰着したときも銀5千両を江戸住民に下給している
- 「武士の戦い」
- 皮を斬らせて肉を斬る。肉を斬らせて骨を断つ
- 「仇双方の結果」伊賀上野城代藤堂高清の一時お預けとなる
- 河合又五郎(斬り死)
- 河合甚左衛門(斬り死)
- 桜井半兵衞(瀕死・その後死)
- その他重傷、無傷等、逃げ去ったもの15名
- 渡邉数馬(重傷)
- 荒木又右衛門(無傷)
- 河合武右衛門(瀕死)
- 岩本孫右エ門(重傷)
- 結果的に渡辺・荒木等は池田家に戻ることに決着するが、その引き渡しには伊賀上野藤堂は270名もの護衛を付け、片や池田家も160名を伴った大名行列なりとなった
- 荒木又右衛門は家老の志摩の訪問の翌日、毒殺もしくは切腹をした。その理由は「大義のための武士の死に様・侍の一分としての面目」とさらなる怨念を断ち切らせようとする幕閣土井利勝等の策略もあった。又右衛門41歳。数馬も4年後35歳で亡くなり河合武右衛門は仏門に入り73歳で亡くなった。
- 江戸幕府幕閣、土井利勝は72歳、最後まで大老であり続けた