@武士にとって「殉死」は名誉であり家督・家族を守るための一つの武道「掟」だった。「掟」による当主の許可がない場合はただの「犬死」、残された家族にとってそれは地獄となった、とはこの阿部一族だ。 武士の切腹・介錯には厳しい掟があり当主の許しなく勝手に命を落とすことはあってはならない時代であった、とある。武士の定め、務めとは現代では想像し難い世界だった、と改めて知る。「真なる忠臣」とは「殉死・武士の定」
『阿部一族』森鴎外
肥後国越中守 細川忠利54万石の当主、島原一揆に活躍した武将、が病気で56歳で亡くなった。その時殉死(切腹・介錯)をしたものは18人だった。その時代殉死をするには当主の許し(掟)が必要で、一人だけ最後まで「次期当主の相談役となってくれ」と頼まれ殉死を拒否された武将阿部彌一右衛門がいた。その許しがなく死んだものは「犬死」とされ家督の継承及び家族への報奨がなかった。殉死のその中には17歳の殿の介抱役、さらに鷹狩りの犬批など犬と共に殉死した家臣もおり、石高は僅か10石から1000石、16歳から54歳と小姓上がりから武将までいた。その阿部彌一右衛門は城内での噂から遂に許しを得ないまま武士としての自尊心を守る為切腹をしたが、残された4人の男子武者はさらなる城内からの噂から一家総出で対抗する決意をすることになる。やがて妻子含む女子供は共に刺し違え自害し、一家で謀反を起こし、一家が全滅させられた。
