@ここに記載された著名な元藩主、新政府側になり爵位を受けた人々は、大凡明治維新以降大きな屋敷で悠々自適、贅沢三昧生活だったと読める。だが、残念のだったのは最後の将軍慶喜だ。将軍になった直後の慶喜の政治・軍隊組織等含め近代化構想には驚愕する。と言うのも実は明治維新政府の諸外国からの近代化推進は慶喜の新政府構想そのもので、慶喜にもう少し時間があったら日本は軍国主義的な国になっていなかったのではないかとさえ想像できる。
『殿様は「明治」をどう生きたのか2』河合敦
「概要」江戸時代に各地を治めていた藩主は、明治四年の廃藩置県によって国元から切り離されて強制的に東京住まいとなった。戊辰戦争で勝った大名も負けた大名も一緒くたに、領地は没収され、家臣は解散させられた。最後の将軍、徳川慶喜は狩猟や写真に生きることで自分の政治力を封印した。慶喜の兄、鳥取藩の池田慶徳は、誠実さと勤勉さで藩をまとめ、維新後も領民を気にかけ、国家に尽くし、飄然と世を去った。そのほか地方行政に腕をふるった上総の一宮藩一万石の加納久宜、商社を経営しクリスチャンとなった三田藩九鬼隆義、箱館戦争まで参戦後二十年隠棲した最後の老中安藤信正など、十二名の元殿様の知られざる波乱に富んだ生き様を、人気歴史研究家の河合敦先生が紹介する。
ー徳川慶喜(15代将軍)1837~1913年77歳没
将軍職を受託した後、政治改革を進めた。
1万数千人の近代的な銃隊を編成・内閣制度(公府・議政院)・郡県制度の成立
不動産税、営業税、酒、タバコ、茶屋生糸に対する物品税などを新設
五稜郭など洋式城を構築
だが、大政奉還などで上記新制度などは停止、明治新新政府としての同様な構想となった
慶喜の明治は静岡で趣味生活(鷹狩り・乗馬・和歌・俳句・能・写真・サイクリング)
ー安藤信正(老中)1820~1871年52歳没
28歳で磐城平藩主、幕府の老中、坂下門外事件で老中免職、戊辰戦争で新政府と戦う
奥羽越列藩同盟に加盟で敗北、永蟄居されるが1869年免じられ自宅にて没
ー小笠原長行1822~1891年70歳没
唐津藩主、幕府老中となり生麦事件、外交を担当、戊辰戦争で戦うが身を隠す
長州討伐で富士山丸にて敵前逃亡、それは家茂が急死したことで同時に幕府の権威落ちに
箱館での攻防でも五稜郭からアメリカ汽船で東京へ逃亡20年の隠棲
潔癖症、完全主義者で庭いじり、盆栽を趣味とした
ー池田慶徳 1837~1877年41歳没
水戸藩主斉昭の5男、鳥取藩藩主、新政府用人、鳥取知事
教育を重視(尚徳館)、明治天皇を支え、西南戦争には参画せず、急死
ー伊達宗城1918~1892年74歳没
幕末の4賢侯の一人宇和島藩主、洋学を推奨大砲軍艦を建造、明治政府での外交に尽力
公武合体で活躍、日清修好条約締結、大蔵省と民部省のトップに就任
ー鍋島直大1846~1921年76歳没
佐賀藩主、佐賀知事、米国・欧州へ留学(7年)家族の病気等多難
開明的な佐賀藩はアームストロング砲を新政府軍で活用、彰義隊を壊滅